第2話 霧中の綿毛

                 *



 煌びやかで広大な王宮の中にはまつりごとを行う為のきゅうが整然と立ち並び、西側には王の寝殿が存在する。

 北側には絢爛たる大きな後宮があり、そこには王の寵愛を競い合う妃達とその侍女達の他に、官位を持ち後宮の管理を任されている女官、その女官の指示の元で雑務をこなす下働きの宮女も多く仕えている。

 そして、その後宮から長く広がる廊下を渡った先に、教坊きょうぼうと呼ばれる離宮がある。

 ここでは舞踊や楽器といった芸事を学び、王宮に仕える妓女として、もしくはその見習いとして、若い少女達が日々鍛錬を積んでいた。


 鈍い銅鑼どらの音がゆっくりと響き渡り、それに合わせて周りの女官達が横笛おうてきを吹く。それと同時に鳴り響いた琴の音に合わせて、宮妓である少女達が長い袖を翻して華麗に舞い始めた。

 中心となる彼女達を決して邪魔しないよう、端で数人の妓女も静かに舞っている。それらが良き引き立て役となって、前方にいる妓女達の動きを更に優雅に見せている。


「皆、少し足を止めなさい」


 宮妓達の総指導役でありこの教坊のおさでもある、ここでは最も地位の高い五十代半ばの女官――宋蓮玉ソン・リョンオクが、背筋を正したまま低い声でそう呼びかけた。

 正五品せいごほんという、女性としては高いくらいを持つ立派な官吏であり、教坊と後宮を同時に束ねている女官長にょかんちょうである。

 若い頃は絶世の美女として名高かったであろう事が、今もなお面影を宿すその気高い見た目から推測できる。実際、昔は最高峰の宮妓として重用ちょうようされていた。

 蓮玉の厳粛な声色に、その場にいた宮妓達は一斉に動きを止めた。

「今日よりここで妓女として共に学びます、林雪英リン・ソリョンです。雪英ソリョン、挨拶を」

 見るからにいかめしい面持ちで、横に立つ雪英を一瞥して蓮玉がそう声を張った。

 人買いから王宮へ連れられた後、雪英は最初に蓮玉と対面した。これよりは国王陛下に仕える身として忠誠心を常に持ち、何事にも陛下を第一に考えて尽くし、王族の命令にも従事するようにと開口一番に告げられて。

 促されるままに、雪英がおずおずと一歩だけ前に出る。――その刹那、広い教坊中に静かな緊張が走った。

 最も、それらは水面下に広がった波動のようなもので、表立っては上がらなかったが。


「……皆々様みなみなさま……どうぞ、よろしくお願い致します…………」


 鈴を揺らしたように小さな声で、雪英は頼りなさげに言葉を紡いだ。

 だが、弱々しげに挨拶をした彼女に向けられた物は、決して暖かな視線ではない。その真逆の、鋭く重い沈黙だった。


 無言のまま蓮玉が立ち去り、集まっていた宮妓達もまた散り散りに戻って行く。舞踊の指導役である中堅の女官が稽古の再開を告げ、ここへ来たばかりの雪英だけは、居場所が無いまま壁際に立って見学する事となった。


 指導役の前で、優雅な衣装を纏い派手な化粧をした美少女達が舞っている。

 幼い頃から仕込まれた舞踊を指先にまで誇るような、少し大袈裟にも見えるその動きには、自尊心の強さが存分に表れていた。――とても、自分に同じ事が出来るとは思えない。

(…………華やかで、煌びやかで…………とても高雅で…………)

 明らかに、自分がいるべき場所ではない。

 王宮に到着してからずっと、門をくぐり廊下を渡っている時にもずっと、重々しい雰囲気を強く感じていた。その居た堪れなさがここへ来て更に強くなり、だからといって立ち去る事も出来ない。

 喉の奥の苦しさを抱えて俯く雪英の足元が、不意に暗い影で覆われて暗くなった。

「……?」

 顔を上げると、先程まで舞を披露していた少女達が、いつの間にか自分を囲むようにして腕を組みながら立っていた。

 突き刺すように鋭い視線に前からも左右からも射抜かれて、反射的に目を伏せる。

「あなたね、本来なら妓楼へ売られていた貧乏貴族の子は。まあ、衣装も随分と質素なこと」

 真ん中で腕を組んでいた美しい少女が、真っ赤なべにを引いた唇を開いて言い放ち、鼻で笑う。

 それを機に、周りにいた取り巻きの妓女達もクスクスと笑い出した。

「没落した貧しい身でありながら特別な後見も無く内教坊へ入るなんて、大人しそうな見た目をして図々しいのね。卑しい娼妓しょうぎのような真似事でもするつもりかしら」

「まぁ、見るからにとても頼りなさそうな方ですから、大それた事は出来ないでしょうけど」

「あら、わかりませんわ。内気に見せかけて上手く取り入られては、私達の沽券にも関わりますわよ」

「そうね、ただの下女として売られた割には、見た目はなかなかのようですものね。世間知らずそうな新参者に、身の程を教えて差し上げる事こそが親切というものですわ」

 わざとらしく言い合いながら、雪英を取り囲む少女達が冷笑する。

 そんな彼女達を誰も諌めようとはせず、それどころか後ろにいた他の宮妓達も同じように嘲笑していた。


「……………………」


 水面みなもさざなみが伝わっていくように、蔑みの気持ちが広がっていく。何人かは笑ってはいないものの、何も言わずに口を噤んでいる。

 人の数だけ膨れ上がった剥き出しの悪意が、ただ一人に向けて容赦なく襲い掛かる。

 華奢な体には重過ぎるそれを一身で受け、胃の奥の重苦しさを感じながら雪英はただ俯き続けていた。


(……………………華やかで……そして……、……そして、とても………――)


 ――華やかで美しい外観とは裏腹に、中身はとても冷たくて恐ろしい。


 気高く自信に満ち溢れた結束のような雰囲気は、無欲で儚げな少女を受け入れてくれるほど優しくない。むしろ、『部外者』に対する敵意は人一倍強い。

 そもそも、本来なら王都の花街に売られていた筈の雪英がここに来た経緯自体が、他の少女達にとっては何より気に入らない事だった。


 妓女そのものはどちらかというと低い身分に属するが、王宮に仕える身となるとそれなりに高い教養が必要とされる。

 同じ教坊でも、外の各地方にある物ではなく内教坊にいられる事は彼女達にとって一種の誇りであり、同時に家族の出世を助ける役目も背負っている。

 中級貴族の令嬢であれば将来的に後宮へ入内する可能性が大きく、下級貴族の出でも王の『お手付き』があれば下級妃になれる。たとえ王のお手付きが無かったとしても、いずれ上級貴族へ下賜されれば実家の反映に繋げられる。

 だからこそ、ここには幼い頃から外教坊がいきょうぼうで舞楽を習っていた貴族の令嬢が殆どを占めている。容貌や才能が優れていて地方から献上された宮妓見習いや宮女出身の妓女も僅かに存在するが、やはり出自の良さが最も重視されている。

 花嫁修業の一環として芸事を磨き、あわよくば実家もろとも出世を狙っている宮妓達にとって、人買いに売られるような卑しい身の少女など見下して当然の存在だった。


 そんな特別な場所である内教坊に自分が入れられた理由が雪英にはわからなかったが、自分のような存在がいるべき場所ではない事だけは嫌でもわかる。

 ここに来る前から、居場所が無い事はわかっていた。ここだけでなく、この世のどこにも。


(………………いるべきではない世界に…………いつも……流されて……)


 何も言えず、重苦しい気まずさに耐えながら俯き続ける。

 取り留めもなく、足元の雑草だけに視線を落としながら、苦しくてたまらない胸元に右の拳をそっと置いた。


                 *


 激しく難しい舞の練習がようやく終わり、宮妓達は教坊内の自室へと戻って行く。

 その最中、いつの間にか戻ってきていた蓮玉が、一人の少女を呼び止めた。

潤寿ユンス。こちらへ」

「はい」

 名前を呼ばれた妓女が小走りで蓮玉の前に駆け寄り、正面で腰を折って頭を下げ、敬礼の意を見せた。

「これからは、この雪英があなたと同室になります。雪英の指導役をお願いできますか?」

「はい、勿論です」

 指導役として指名された少女は、頭を下げたままで素直に返答した。

 背筋をしっかりと伸ばした蓮玉がまた立ち去り、少女と雪英の二人だけが、しんとした広い稽古場に残された。


「………………」

 俯いたまま、憂いを帯びた顔で雪英は目を伏せる。冷たい結束が張り詰められたこの空間がずっと重くて苦しくて、居た堪れない。

 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、頭を下げ続けていた少女が不意に顔を挙げ、くるりと体を翻して正面から向き合った。


「えーっと、林雪英リン・ソリョン……だったよね?」

 

 快活な声がそう呼びかける。それに驚き、反射的に雪英も顔を上げた。


「私は許潤寿ホ・ユンス。今日から一緒の部屋よ、よろしくね!」

 そう言い、彼女――許潤寿ホ・ユンスと名乗った少女は、明るく笑って小首を傾けた。

「ああ、心配しないで。私はあいつらみたいに、身分や境遇で人を見たりしないから。ごめんね、さっきは庇ってやれなくて。表立って庇い立つと騒ぎになって面倒くさいし、あいつらの方が家柄も良いから厄介だし、後で余計に鬱陶しくなるから……まあ、そうは言ってもその場で助けてほしかったよね。ごめんね……お詫びってわけじゃないけど、ここの事を私が一から教えてあげる! これでも王宮に来て長いのよ?」

 冷たさも威圧感もまるで無く、潤寿だけは明るく親しげに話しかけてくる。他の宮妓達にも、そして自分自身にも無いその朗らかさに圧倒され、雪英は何も言えずにただ戸惑った。

 一つに結わえた焦げ茶色の長髪に、人柄の良さが滲み出た明るい笑顔。見るからに気さくで心優しく、長身の立ち姿も堂々としている。

 人並以上におっとりしていて内向的な雪英とは、潤寿はまるで正反対の場所にいた。

「……あ……、……ありがとう……ございます…………」

「いいよ、敬語じゃなくったって。見たところ、歳も私と同じくらいじゃない? 私は今年で十七になるんだけど。あ、普通に潤寿って呼んでいいからね」

 おずおずと遠慮がちに呟いた雪英に、軽く笑って潤寿がそう返す。

「あんまり大きな声じゃ言えないけど……この国の身分制度に、私は反対なの。生まれでその相手の全てが決まるなんておかしな話だし、出自で全てが決まるならそもそも教養や学問は何の為にあるのよ? って……、まあ、こんな話が誰かの耳に入ったら処罰モノだから、誰にも言えないけどね」

 茶目っ気の入った笑顔で、潤寿は右手の人差し指を口元に置いて、軽く左目を瞑った。

 顔立ちそのものは突出して美麗というわけではないが、それを補って余りある程の明るさと強さが満ち溢れている。

 快活な朗らかさを纏い、惜しみなく優しさを振る舞える彼女の姿が、雪英の目には誰よりも眩しく映った。


 彼女が内側から放っているその美しさに圧倒され、吐息が漏れる。

 同時に自分の中の無力感が疼くような気もしながら、緊張の糸がほぐれたように、やっと雪英の顔が小さく綻んだ。

「…………、ありがとう……、……潤寿ユンス……」

「いーえっ! じゃあ、ひとまず寄宿坊きしゅくぼうに案内するわね」

 元気にそう言った潤寿に案内され、宮妓達の宿舎である寄宿坊へと雪英は連れられて行った。


 稽古場から続く長い廊下を進んだ先に寄宿坊があり、縁側の外には立派な庭園も面している。出入り口である扉のすぐ外には後宮があり、王族の住居である寝殿も点在する。

 この広大すぎる辺り一帯が、王宮の内廷ないていと呼ばれる場所である。


 寄宿坊にはいくつかの部屋があり、宮妓達が二人か三人で一部屋を使う決まりである。最も、出自が良く太い実家を持つ宮妓達には一人用の個室が宛がわれていて、女官長の許可があれば自由に里帰りも出来るのだが。

「私達は二人で一つの部屋よ。本当はもう一人、同室の子がいたんだけど……その子は病気になって里に戻されたから、今は私一人だけ。……身請けも無いまま追い出されちゃって、本当なら年季も明けてないから負債も残ってるのに……無事に生きているといいけれど……、……あ、ごめん! だから雪英が私と同じ部屋になったの。改めて、よろしくね?」

 これから一緒に使う自室へ入り、白い歯を見せて潤寿がニコッと笑った。それにつられて、雪英も控えめに微笑んで頷いた。

「それと……雪英、気をつけた方が良いわ」

 つい数瞬前の明るい様子と打って変わり、潤寿が不意に笑みを消して真剣な面持ちで呟く。そのあまりの落差に、雪英の顔からも笑みが隠れた。

「……なんとなく、自分では気付いていない気がするんだけど……、……あなた、ここにいる誰よりも美人よ。美人は見慣れているつもりだったけど、あなたは別格で驚いた。認めようとはしないだろうけど、本当はあいつらもそれをわかってる。だからこそ、来たばっかりでまだ何も知らないあなたに、初めからあんなに冷たかったのよ。身分っていう嫌らしい武器で攻撃してくるだろうけど、大人しくしていたら余計に付け上がるわ」

 眉間に皺を寄せ、腰に手を当てたまま苦々しそうに潤寿が言葉を繋ぐ。

 だが、その言葉達は雪英にはまるで実感が無く、どこか遠い所から響いた世辞のようで、どう返したら良いのかわからず呆気にとられてしまった。


「あっ、ごめん! そういえば私、今日は洗濯係だったわ! 私も雪英と一緒で雑務役も兼ねてる妓女だから、稽古が終わったら仕事があるの。夕餉まではまだ時間があるし、雪英は部屋でゆっくりしてて! 来たばっかりで疲れたでしょ? えっと、そっちの空いてる方が雪英の寝台ね! あ、前に弟から差し入れで貰った本がそこに積んであるけど、好きに読んでいいから!」

 雪英が感じていた緊張と困惑を察したのか、潤寿はまたパァッと明るく笑ってそう告げた。そして言葉を終えた後、慌しくすたこらとスカートを揺らして廊下を走って行った。


「……………」

 駆け出した背中を見送り、一人残された雪英は、改めて部屋の中を見渡した。

 壁際に寝台が二つ並んでおり、その枕元に小さな机が一つずつ並んでいる。潤寿が使っている机には大衆小説の本が何冊か積まれていて、反対側には化粧台と鏡が一つだけ置かれている。

 二人で使うには少し狭い部屋だが、不満は全く無い。ただ、別の理由から感じている居心地の悪さが、いつまで経っても消えない。床を踏みしめている筈なのに、雲の上から落ちそうな漠然とした焦燥感と不安が消えない。消えてはくれない。

 心許ないまま、空いている方の寝台に腰を下ろす。唇を結んだまま静かに息をついて、両膝の上に置いた右手に左手を重ねた。


(………………、……とても綺麗で……幼い頃に、密かに夢見た王都……、…………その中で、最も華やいだ御殿…………、命尽きるまで……これから、ずっと…………――)


 ぎゅうっ……と、折れそうなほど細い体を両腕で強く抱き締める。長い髪に覆われて隠された顔は俯き、月明かりすらもその表情は照らせない。

 出口の見えない霧の中へ流されて、身も心も小舟のように漂い続けているような寂しい感覚。何もできないのに時間だけが容赦なく過ぎていき、自分だけが取り残され続けている。

 そんな不安と底知れない恐怖、縛り付けられた感覚、救われる日なんて来ないと確信してしまう漠然とした浮遊感。そして、冷たい炎のような敵意で刺され続ける心臓の痛み。

 全てが頭から圧し掛かり、押し潰されそうになる。たまらず両目を閉じ、震える息を吐く。


 誰もいない静かで暗い部屋の中、肌寒い冷気に流されて、白色の花びらが窓辺にふわりと降り立った。

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