蘭華伝
ナガリ
序章-13月に舞う月は
第1話 ゆくえ知らずの浮舟
からからから……と音を立て、馬車がゆっくりと街の広場を通る。馬につけられた手綱を
その馬車の座席に少女が一人、揺られながら静かに座っている。細い指先で何気なくそっと
(…………、華やかな場所…………)
座席には屋根があり、左右の小窓は小さな簾で覆われているため、走っている馬車の中を外から覗く事は出来ない。
だから誰も、この世のものとは思えないほど美しい少女がすぐ近くにいた事など知らない。透き通るように儚げな少女の存在に、誰も気付かない。
御者が時々ちらりと後ろを振り向き、座席に少女が座っている事を確認する。無意識の内にそうせざるを得ない程にその少女は美しく、その身に纏う雰囲気はあまりにも脆くて頼りなく、人の姿をした人形のようだった。
(……きっと、王宮の中もとても華やか…………、……そして…………)
おっとりとした気品を漂わせる清らかな少女――
“か弱いお嬢様を、寵を競い合う王宮へ差し出すなど、とても気掛かりにございます……!”
そっと目を閉じると、今朝の記憶が浮かんでくる。
幼い頃から仕えてくれていた老女の泣き顔と、両手を包み込むカサカサと乾いた皺の感覚。枯れ木のように痩せ細った両手で老女は雪英の手を握り締め、そして泣いてくれた。
“……何も、おっしゃいますな…………。……何も……。高望みなど致しません…………ただ、神様が下さった命の分だけ、静かに過ごしていられたなら…………それで良いのです”
唯一最後まで使用人として仕えてくれたその老女との別れの際、鈴のような小さく細い声で雪英はそう囁いた。
全てを諦め悟りきったかのように、儚げな微笑みを浮かべながら。
*
その名を持つこの国は
元々は
その後、分裂していた複数の近隣諸国とも戦争を経て併合していき、今では広い領土を持つ大国として君臨している。
そして国土統一を果たした
王宮が位置する都やその付近の街には身分のある貴族達が住み、特に官位の高い文官と武官や学者が王宮に仕えている。その華やかな都から貧しい田舎に至るまでいくつかの州に分かれ、地域ごとに様々な身分の民が暮らしている。現在は敵対している国も内戦も無く、概ね平和が築かれている王国である。
そして、初代李氏が王位に就き建国したおよそ二百年前から、この斉楊国では絶対的な身分制度が強く確立されている。
『
それが、この国に住む者にとって、当たり前の常識だった。
屋敷は王都から外れた郊外にあったものの、昔から従者や下女が何人も仕える名家だった。母親は雪英を産んですぐに亡くなってしまったが、優しい父親と穏やかな環境の中で、あまり丈夫でない雪英は大切に育てられていた。
だが、その父親は
深窓の令嬢として育てられた上に、産まれながらに病弱なせいか気弱で従順過ぎる雪英には、欲にまみれた悪意に独りきりで対抗する事など出来る筈も無い。
落ちぶれていく家に見切りをつけた従者達は他の家へと仕えていき、以前から廃れ始めていた家は完全に没落してしまった。
頼れる身内も後見人もいない雪英は、十六歳にして天涯孤独となった。
そんな彼女は遠戚によって土地を奪われ、そして人買いに売られる事となってしまった。
貧乏になった元貴族のお嬢様、と軽く考えていた人買いは、初めて雪英の姿を見た時に思わず息を呑んだ。最も、雪英自身はそれを知る由も無かったが。
こんな上物には滅多に出会えない。稀に見る美貌と穏やかな気品を纏う彼女を見て、人買いはそう確信した。高級妓楼の一番の売れっ子にも劣らない程に、彼女の透き通るような美しさは際立っていた。
当初は、王都で最も格式高い妓楼に売るつもりでいた。だが、元々が高貴な出自である事や内気過ぎる気質、そして清廉な美しさを考慮され、
“せめて、旦那様か奥様のどちらかさえ生きていてくださっていれば……! 由緒正しき両民(リャンミン)の生まれでありますのに、何の因果でこのような辱めを……!”
零落してからも唯一仕え続けてくれていた老女だけは、雪英のこの先を心配して泣いてくれた。雪英が産まれる前から
だからこそ、雪英が人攫いを生業とする商人の手で金と引き換えに売られてしまう事が悔しくて哀しくて、どうにも出来ない自分自身が歯痒くて、一切涙を見せない雪英の代わりに泣いてくれた。
その想いが、雪英の心に鉛を残し続けている。
(……どうせ短い命ならば、誰の悲しみにもなりたくなかった…………、私のせいで……)
仕える場所を失い放浪する事となってしまったその老女の行く末が気掛かりで、グルグルと渦巻く申し訳なさが消えない。
苦しい感情を胸の内に潜ませ、小さく息をついた。
(何も望みません……惜しくもありません……。誰にとっても悲しみでしかない、この命など……。ただこれ以上、誰の迷惑にもならないように、静かに過ごせたなら……それだけで……)
自分自身に言い聞かせるように、心の奥でまた呟く。
言葉の通り、雪英には何の望みも無い。自分の存在は人を悲しませる事しかできない、それなのにまだ生きている事すら虚しくてたまらない。
ただ天の意思に従い、命が尽きる日を待つだけ。命が終わる日を待ち望みながら、細々と静かに生きられたらそれでいい。
両親を亡くし、身寄りも無く家も財産も奪われ、唯一最後まで慕ってくれていた侍女すらも守りきれずに失い、挙句の果てには人買いによって王宮に売られる身となっても、それに抗う術など無い。
ましてや、救い上げてくれる手など存在しない。
激流に飲み込まれた人形のように、冷たい悪意の中で流され続ける事しか雪英には出来なかった。
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