第9話  また逢う日まで



その後、暫くの間は青は消えることなく、瑠里の元を訪れた。

ただ、それまで通りに毎日現れるのではなく、ある時は二日後、もしくは四日後、最大では一週間の間隔を空けたりもした。

神社で青と覚悟を決める約束をして、いつ“ その時 ”を迎えてもうろたえない様にと、毎日言い聞かせる様に過ごしていた瑠里だったが、それでも一週間現れなかった時にはさすがに動揺を隠せなかった。

青との約束を果たす為の陸上練習に励む傍ら、時間があれば図書館に通い、青の様な意識の戻らない症例や、目覚めてからのリハビリ方法などを、様々な実用書やパソコンを使って夢中で調べ上げた。

少しでも、現実の青の状況と向かい合いたかったし、彼が目覚めた後の治療やリハビリの方向性を知っておきたかった。


「 瑠里、おまえって何かに興味を持つと周りが見えなくなるタイプなのな 」


いよいよ明日が高校生活最後の陸上競技会という前日も、軽い調整を終えた瑠里は図書館に居た。

ここ三日程は空けずに姿を現している青が、瑠里の座る席の横の机に腰を掛けて呆れ顔でそう言った。


「 だって……家に帰っても落ち着かないんだもん。ここで青のこと調べてると妙に落ち着くんだなぁ 」


周りに殆ど人が居ないことを横眼で確かめながら、瑠里は青を見た。

あの初めて三日間姿を現さなかった日を境に、青の姿はどんどん透明度を増していた。

出逢った頃は、注意して見れば僅かに透き通って見えた感じだったのだが、今は逆に目を凝らさないと顔の表情などが読み取れなかったりもする。

その現象が青との別れが迫ってきている証なのだと思う反面、それだけ青自身が実体へ戻って目覚める日が近づいている証でもあるのだと、瑠里は素直に喜ぶことにした。


「 いよいよ明日だな。緊張するなって言っても無理な話か 」


「……まぁね。でなきゃ、試合前日にこんなとこ来てないよ」


瑠里は苦笑いと共にそう白状した。


「 競技会が初めて、ってわけでもないだろ?」


「 もちろん!初めての競技会は、一年の終わりの新人戦だったよ。明日の大会だって、去年出たしね。ただ……」


「……ただ?」


「 うん……出てはいたけど、まだ一度も勝つためには走ったことがないんだぁ。あくまでも走る事を楽しむために出たって感じだったから 」


いかにも瑠里らしい言葉に青は笑ったが、妙に納得顔で頷きもした。


「 まぁ、瑠里が勝つために必死な形相でっていうのも想像できないか!やっぱりおまえはおまえらしく楽しそうに走るのが一番なんだろうなぁ……」


「 ちょっと!」


瑠里は分厚い専門書から顔を上げて、机をペンでコツンと叩いた。


「 そういう諦めたみたいな発言やめてよね!私は勝つ気満々なんだよ?そのためにこの何ヶ月間か鬼コーチの元、必死に練習してきたんだから!」


「 誰が鬼コーチだよ!」


珍しく強気発言をした瑠里に驚きながらも、青は口をすぼめて抗議した。


「 あれを鬼コーチと呼ばずに何と呼ぶのよ!ちょっとでもフォームが狂うとギャンギャン怒るし、腕の振りがワンタイミングずれただけで飛んできたじゃん。まるで自分が短距離の選手になった気分だったんだからね!」


「 短距離も中距離もフォームの狂いは命取りなんだよ。そのお陰で前のおまえとは比べものにならないくらいタイム上がっただろうが!」


「 そうだよ!だから明日は勝つために走るんだから!鬼コーチに言われたフォームを忘れないように、勝つために、でも、楽しく走るんだよ!わかる?」


得意気にそう言って、例のごとくひとさし指を立ててニンマリ笑った瑠里の表情に、青は大笑いした。


「 なんか、本当におまえが優勝出来るような気がしてきたわ!」


瑠里は青の気持ちのいい大笑いに満足気に頷くと、“ だから、きっと見ててね ”……胸の中でそう呟いた。



大会当日は、残暑厳しいながらも九月下旬らしい抜けるような青空が広がる晴天だった。


瑠里は、今まで経験したことの無い締めつけられるような緊張感の中、スタート地点に立った。

まだ青には会えていない。

ギリギリまできょろきょろと探してみたが、彼の姿はどこにもない。

だが、瑠里には少しの不安感も無かった。

青が現れてもそうでなくても、自分が精一杯走ることに変わりはない。

青とはそう約束した。


大きな競技場にスタートを告げるピストルの短い発砲音が響き渡り、瑠里を含む二十人の選手たちが一斉にスタートを切った。

学校のグラウンドのような土を蹴る感覚とは全く違うトラックに戸惑い、想像以上の緊張に瑠里の走りはいつものしなやかさを失った。

生まれて初めて抱いたプレッシャーに、手足が自分のものではないような感覚に陥る。

緊張が平常心を奪い、プレッシャーが焦りを生む。

いつも通りに走ろうとすればするほど無駄な力が入り、乱れたフォームとストライドのまま、あっという間に三周が過ぎ、瑠里は後方に追いやられていた。

どんどん乱れていく呼吸の中で、瑠里は腕時計でタイムをチェックした。

まだ序盤だとはいえ、練習でこなしてきた一周目標のタイムからは大幅に遅れている。

腕と足が思うように前へ進まないもどかしさに尚更焦る。


「 瑠里 ――――――――!!」


突然、頭の中で待ち望んでいた声が響いた。


「――――――― 青……!?」


無意識に、瑠里はその名前を声に出して呼んだ。

青は、すぐ横に居た。

トラックの内側を瑠里に並走している。

その姿はもはや横目では確認出来ない程薄く、顔を向けても目を凝らさなければ見えない。


「 いいか、一度大きく息を吐け!両腕を下に下げて無駄な力を抜け!」


瑠里は前を向いたまま青の指示に従った。

肺に溜まっている息を口を尖らせて長く吐き出し、両腕をだらんと下げる。


「 よし、呼吸が落ち着いたら俺が教えたフォームを頭の中にイメージしろ。そしてイメージ通りに腕を振ってみろ 」


頭の中の青の声に忠実に従いながら、瑠里は走り続けた。

ようやく落ち着きを取り戻し、嘘のように呼吸が楽になると、それまで自分の物ではなかった手足が一気に軽くなり学校のグラウンドを走っていた時のいつものリズムが生まれた。


「 よし、そのリズムだ!何も考えずにそのリズムだけを追いかけろ 」


もちろん青の気配は感じられないし、結構なスピードで走りながらでは横目でその姿を確認することも出来ない。

だが、瑠里の頭の中にだけ響く青の呼吸のような音が、彼が横を一緒に走っていてくれる事を確信させた。

青の呼吸に自分の呼吸を重ねるようにして完全に復活した瑠里の走りは、一気にスピードを増した。

後ろから三番目まで落ちていた順位が見る見るうちに上がっていく。

十二周半のレースの半分を過ぎた頃には、二十人の走者は三つのグループに分かれていて、もちろん瑠里は先頭集団に着けていた。

あれ以来、青は一言も声を発することは無かったが、微かな彼の呼吸音は瑠里の頭の中に響き続けた。

青が一緒に走り続けていてくれる……それだけで瑠里の心は天にも昇る程の幸福感に包まれた。

姿こそ確認出来なくとも、彼のあの美しいフォームは頭にしっかりと焼き付いている。

風を感じ、地面を蹴る心地良いリズムに包まれ、誰よりも大切な人と一緒に走る……この日の事は、絶対に一生忘れないでおこうと心に誓った。


残り千メートル、トラックにして二周半になった時、先頭グループを形成する六人の集団が少しづつ楕円状に崩れ始めた。

先頭の何人かがペースを上げたのだ。

瑠里は慌てることなく、もう一度大きく息を吐き出した。

ラストスパートへ向けてのペースの上げ方は、耳にタコが出来る程何度も何度も教えられた。

六百メートル、即ち一周半かけて呼吸と腕のスイングのリズムを上げるのだ。

早目の急激なスパートは足に限界が来て最後までもたない。

そして、最後の半周でスピードをトップギアに入れ第四コーナーで全速力に切り替え、後は持てる力のみの勝負……それが、鬼コーチ月城 青の理論だった。


瑠里は全神経を走ることに集中させた。

もはや頭の中に感じていた青の呼吸も、その存在も、全てが無になった。

どんどん速さを増す自分の呼吸リズムと、トラックを蹴る足音と、耳元を流れる風の音……ラスト一周の鐘が鳴り響いた時、すぐ前を走る選手が一気に飛び出した。

まだ!まだだよ!瑠里は少しづつ離れていく先頭ランナーの背中を睨みながら自分に言い聞かす。

一気にスピードを上げてしまいたい焦りを押さえながらも、腕のスイングと呼吸に集中しながらその時を待つ。


「 行け!!瑠里―――――!!」


頭の中で、青の叫ぶ声が聞こえた。

残り二百メートルと同時に瑠里は一気に加速した。

足の蹴りも腕の振りもトップギアに切り替える。

二十メートル程先にあった先頭ランナーの背中が見る見るうちに近づいてくる。

最終コーナーを周る頃には手を伸ばせば触れられるところにあった。

トップギアから全速力になった時、全ての音が消えた。

ゴールまでの最後の何秒間は無呼吸となり、頭の中も真っ白になる。

勢いそのままにつんのめるような体勢でゴールを駆け抜けた後、瑠里は十メートル先でトラック上に転がった。

倒れこむように転がったのに、身体に痛みは感じなかった。

そんなことよりも、呼吸が上手く出来ない。

走っている時はあんなにリズムが取れていたのに、今は吸っていいのか吐いていいのかも分からずにバラバラになる。

心臓が壊れるんではないかと心配になるくらい大きな音をたてて早打ちしている。


「……大丈夫ですか?」


見知らぬ女子学生が瑠里の横に跪き、心配そうに顔を覗き込んでいる。


「………………はい……」


滅茶苦茶な呼吸の合間に擦れた声でそう答えるのがやっとだった。


「 立てますか?」


瑠里は無言で頷き、ゆっくりと身体を起こして横座りの体勢になった。

女の子が瑠里の肘下に自分の腕を差し入れ、立ち上がる補助体制を取ってくれた。

彼女の助けを借りながら、そろそろと立ち上がってトラックの内側へ足を踏み出すと、まるで自分の足ではないかのようなフワフワした感覚に包まれる。


その時になって、瑠里はハタと気が付いた。


「あの……私は……何位ですか?結果は?」


少し慌てて付き添いの女子学生に顔を向けて尋ねると、彼女はニッコリ笑って①と書いた番号札のようなリボンを瑠里の首に掛けてくれた。


「おめでとうございます!一位ですよ」


よく見ると、案内係の彼女の胸には①と書かれたゼッケンがあった。こういった陸上の競技会ではゴール付近に案内係が待機していて、ゴール後の選手に着順のリボンを掛けて誘導するのが常なのだ。


一位……一位……最後のどの時点で前のランナーに追いつき追い越せたのかも覚えてはいなかった。

瑠里はゆっくりとした動作で遠くの電光掲示板を見上げた。

五千メートルの結果が表示されており、一番上に、高宮瑠里の名前とタイムがあった。


本当に、優勝したんだ………ぼんやりした意識の中でそう思った時、力強い腕に両肩を掴まれた。


「 高宮!!やったな!おまえ、凄いぞ!」


陸上顧問の先生が興奮冷めやらずの笑顔でそう叫んだ。


「 高宮さん!おめでとう!!凄い~!」


トラック内にいた何人かの同級生部員や後輩達が次から次へと駆け寄って来て、あっという間に瑠里は囲まれた。

皆がこぞっておめでとうを述べ、瑠里の腕や肩を叩き、握手を求め、口々に褒め称えてくれる。

瑠里はといえば、未だ実感の湧かない曖昧な笑顔のままぼそぼそと御礼を口にした。


「 瑠里!!瑠里―――――!!」


ようやく皆に解放されて、トラックから更衣室へと続く通路へ入ると、突然物凄い力で抱きしめられた。


「 か、母さん!?なんで?来てたの?」


首にしがみつく様に離れない瑛子を抱きとめながら、瑠里はすっとんきょうな声を上げた。


「 瑠里!凄い!あなた、やったわね!優勝よ!?優勝!!」


「 う、うん……ありがとう」


あまり感情を感じさせない口調に、瑛子は驚いて瑠里の顔を覗き込んだ。


「 ん?なによ?その反応の悪さは!」


そう言って自分を見つめる瑛子の頬に涙の跡を認めると、瑠里は尚更戸惑った。


「 ごめん、なんかまだ実感無くって……って、ひょっとして母さん泣いたの!?」


「 これは、感動の涙よ。瑠里の試合って初めて観に来たけど、まさかこんなに感動させられるなんてねぇ!最後は血圧上がり過ぎて倒れるんじゃないかと思ったわ 」


瑛子は大袈裟な身振りで胸を押さえ、ニンマリと笑った。


「 私……ゴール前で先頭ランナー抜いたの?全然覚えてなくって……」


もごもごと口をすぼめた瑠里に、瑛子は豪快に笑いながら、励ます様に腕をポンポンと叩いた。


「 実際にその最中に居る人はそんなものなのかもね!無我夢中間違いないだろうし。そうよ、ゴール五メートル手前くらいで抜いてそのまま一気にゴールを駆け抜けたのよ!」


瑛子の言葉を聞いて、初めて胸の奥の方がむずむずと動く感じがした。


「 瑠里の走る姿はいつも目にしているけど、こんな風にトラックを全力で走るのって初めて見たわ。あなた、とっても綺麗なフォームで走るのね!」


“ 綺麗なフォーム ”という言葉に心が反応した。

胸の奥のむずむずが一気に大きくなる。


「 真っ直ぐ前を向いて、軽快なリズムで地面を蹴って走る姿は凛としていて……なんだかあたしの知ってる瑠里じゃないみたいだったわよ。最後の百メートル位はまるで風のようだった 」


「 なんか……まだ信じられなくて……私なんかが優勝出来たなんて……」


瑠里は頭の中にある言葉をそのまま口にした。

だが、時間が経つにつれ何かが身体の奥からこみ上げてくるような感覚に包まれ、瑠里の頬は次第に上気していく。

瑛子はそんな娘の頬を指先でトントンと軽く叩いて微笑んだ。


「 忘れたの?やってみなきゃわからない!ってあなたが言ったのよ?最後まで優勝は諦めないって!そして本当にその通りになったじゃないの、瑠里自身の力で!」


私の力……私が頑張ったから実現出来た……瑛子の言葉を復唱しながら、だが瑠里は心の中で大きく首を振った。

そうじゃない。

全ては、青のお陰だ。

彼が私の我流のフォームを根気よく修正してくれ、彼がペースやリズムの作り方を教えてくれ、おまけに、土壇場でパニックに陥った私を落ち着かせ並走してリズムを作ってくれた。

彼が居なければ、何一つ出来なかった。むしろ今頃、自分の力の無さに惨めな思いをしていたはずだ。


「 瑠里、完敗よ。こんな見事で嬉しい負けはないくらい!」


「 完敗?……何が、負けたの?」


瑠里は瑛子の言葉の意味がピンとこずに首を傾げた。


「 やぁねぇ!賭けをしたでしょ?あなたの進路について。瑠里が有言実行したら今後一切何も言わないって。瑠里の好きにしていいって 」


そんなことはすっかり忘れていた瑠里だった。

むしろ、青に打ち明けて自分の本当の夢と向き合う事を気付かされた時点で、瑛子との意地を張った賭けについては勝手に白紙に戻していたのだ。


「 母さん、聞いて 」


瑠里は、突然意を決したように瑛子の目を真っすぐに見た。


「 私ね、大学に行こうと思う。今回の大会に向けて、周りの人にお世話になりながら練習やトレーニングを一生懸命重ねて、いっぱい考えて……新たに勉強してみたい事が出来たの。ちゃんと専門的に学びたい事を見つけたの。だから、大学に行きたいの 」


想像もしていなかった瑠里の宣言に、瑛子はポカンと娘の顔を見つめた。

だが、その毅然とした表情には少しの迷いも見当たらない。


「…………そう。なんだか、驚きね。さっさと就職するんだと思ってたから……まさかあたしの気持ちを汲んで、なんてことではないわよね?」


なんとなく疑わしげな瑛子に、瑠里は小さく笑って首を振った。


「 私、そんなに良い娘じゃないよ。そんな親孝行娘なら、母さんと散々言い合う前に進学するって言ってるし!」


瑛子は納得気にニンマリと笑った。


「 了解!なら、詳しい相談しないといけないわね。それは家に帰ってからでいいとして、とにかく身体冷やさないように着替えてきなさい。まだ他の競技の応援するんでしょ?」


「 うん、閉会式までいるよ。だから帰るの結構遅くなるかも」


「 じゃぁ、あたしは先に帰って高宮瑠里優勝祝賀会の為の料理を気合い入れて用意しておくわ!楽しみに帰ってきなさい!」


瑛子の料理の腕前を熟知している瑠里は、慌てて手を振った。


「 そ、そんな、気合いなんて入れなくていいから!普通でいいからね?普通で!」


「 何を慌ててるのよ!あたしが身の程知らずだと思う?」


意地悪い笑みでニヤリと笑った瑛子は、瑠里の胸辺りをグーでポンと軽く突く。


「 あたしが気合い入れる時は、味に間違いの無い有名店のオードブル注文に決まってるでしょ?まったく!何心配してんのよ!」


拗ねたような目差しで腕組みをした瑛子に、瑠里は吹き出した。


「 そうだったね!誕生日や何かお祝い事の時は凄い御馳走だった!じゃぁ、今夜もめちゃくちゃ期待して帰るからよろしくね!」


「……了解!さ、早く着替えてらっしゃい!」


満足気に微笑む瑛子に手を振って、瑠里は通路を後にした。


着替えを済ませ軽いストレッチをこなした後、部員達が陣取るスタンド席に向かって階段を上り切ると、トラックから吹きあがる風に瑠里は包まれた。


「 青………………」


自然とその名が口から零れた。

もう彼の姿はどこにも無かった。


あのレースの最終コーナーを周った時に聞いた『行け!瑠里!』の声。

あの時は彼の姿を見る余裕など微塵も無かったが、その声だけは確かに聞こえた。

青を感じたのは、あれが最後だった。

ゴールした後、移動するとき、ひたすら彼の姿を探したが、やはり青はどこにもいなかった。


「 青、ありがとう。私、優勝したよ!ぜ~んぶ、青のおかげだよ!」


瑠里はトラック競技場を見下ろしながら、そっと呟いてみた。

だが、いつものような頭の中に響く返事は返ってこない。

瑠里には予感があった。

きっと、青はもう現れない。

二人で神社で話した“ 最後の日 ”が、今日である気がした。

自分の大会当日に、それもゴールテープを切った瞬間にその時が訪れるなんて……まるで映画かドラマのようだけど、きっとそうなのだ。


瑠里の瞳に涙が滲んだ。

喉の奥がつかえるような息苦しさに唾を飲み込む。

青は言った。これは別れじゃない。

二人がちゃんと出逢う為に必要なことだと。

そして、必ず迎えに来ると。

瑠里は、今にも零れそうな涙をトレーナーの袖口でそっと押さえた。

私は泣いてる場合じゃない!

今は青が無事に目を覚まし、本当の青に戻れる事を心の底から祈るのみだ。

彼にとっては、これからが大変なのだ。

図書館に通い詰めで調べた青と同じような症例によれば、半年以上眠り続けた身体を再び歩けるように戻すだけでも、何カ月ものリハビリを必要とするらしく、一度完全にダウンしてしまった筋力を取り戻すためには、想像以上の厳しいリハビリになるらしい。

青の今後が知りたくて、どうすれば彼が再び走れるようになれるのか、どんな治療やリハビリが効果的なのか……そんな事を夢中で調べていくうちに、それらは瑠里の興味や好奇心の範囲を大きく飛び越え、最大の関心事に変わっていった。

だから、瑠里は進学を決めたのだ。

正式な進路はまだ決めていないが、リハビリ療法やスポーツトレーナー学などを学び、そっち関係の資格を取ろうというところまでは目標が立った。


そして、青には一切言わなかったが、青の在籍する大学を受験しようと思っていた。

どのくらい勉強すれば青の大学に受かるかはまだ見当もついていないが、今の最大の目標は、晴れて青の後輩になることだった。

そして、青と同じ陸上部に入り、現実の彼と一緒に走る……何よりもそれが一番の目標となった瑠里だった。

だから、これは別れではなく再び二人が逢う為のそれぞれの準備期間なのだ。

瑠里は、あらためてトラック全体を見つめ、小さく、だがしっかりと頷いた。


青!! 私、頑張るから!絶対に青の大学に行くからね!青が私を迎えに来るのが早いか、私が青の後輩になるのが早いか、競争しよう!ねぇ、青!…………


そして………月城青は、二度とあの姿で瑠里の前に現れることはなかった。




     第 一部 完 

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