線路のうえを歩くな

わたぬきふる

第1話


 人生16度目の夏のある日だった。

 その夜に浮かぶ月はちょうど昨日食べた西瓜のように真っ赤に透きとおっていて、夕立ちが溜まった足もとには青白い月がゆらゆらと滲むように映っていた。それ以外は、なんとなく自分のことが嫌いな、いつもどおりの夜だった。

 ちょうど考査前期間に入った頃だったから、鞄が重たくてしょうがなかった。毎回、なにを持って帰るのが正解なのかと悩んで、結局手当たり次第に鞄に詰め込む。帰ってもどうせなにもしないとわかっていても、すべて持ち帰らないと恐ろしいくらいの不安に駆られた。

 

 最寄り駅の改札を抜け、湿った空気と憂鬱な心も背中に乗せて歩く。石畳の隙間から力強く生える若い雑草を、ざらざらと引きずる足が無神経に踏み倒す。気持ち悪いくらいに整然と石が敷き詰められた道にくたびれて、遂に足が止まった。

 傍にベンチを見つけて、倒れかかるように座る。教科書の重みだけでも肩代わりしてくれるとずいぶん楽になった。

 等間隔に立ち並ぶ街灯のうえで、眩しい輝きを放つ星々が散っている。夜空の黒くみえる部分でも、きっと数え切れないほどの星が存在している。その事実が、或いはただ美しい一等星の煌きが、視力2.0の視界を滲ませた。

 ぼやけてしまえば、街灯も星もすべて同じ光でしかなかった。

 

 喜怒哀楽の4つ感情のなかで、自分は「哀」をとくべつ感じやすい。哀しいことと同じだけきっと、楽しいことや喜べることがある。でも、1日を振り返ると哀しいことしか憶えていない。負の感情と言ってもいい。だから何かあるたびに自分を責める言葉がどっと湧き出て、自己嫌悪の泉の嵩が増す。


 そこに身を沈めながら思う。

 ───今日は朝、駅で知らない他人に脚を踏まれた。授業で指されて答えられずにみんなに笑われた。小テストの出来が悪かった。昼食に箸を忘れた。帰り際に───。

 

 ふつうの人なら、このうちのいくつを笑い話に変えられるのだろう。幸せそうな誰かの笑顔が脳裏を焦がす。胸が深く抉られる。


 

「隣、いいかな」



 天を仰いでいた頭を勢いよく起こすと、首が捩れたように痛んだ。

 声の主は隣のベンチに座ろうとしていた。細身のボトムスにシンプルな白いTシャツ。足もとはラフなスニーカーで、洒落た帽子をかぶっている。雰囲気はかなり落ち着いていて、年齢が推し量りにくい。

 というか、隣のベンチに座るのにわざわざ声掛けてこなくていいのに。

 その人はおもむろに持っていた大きな黒いケースを開け始めた。取り出したのはよく見るアコースティックギター。

 確かめるように軽く弾いたかと思えば、いきなりこちらを向く。その人は軽く咳払いをしてから、穏やかな声でこう尋ねてきた。



「きみ、なんか好きな曲とかある?今って高校生の間では何が流行ってるの?」



 人気のミュージシャンのような出で立ちをしているのに、流行りの曲を知らないのか。少し不思議に思いながらも、聞かれたことに正直に答えた。



「好きな曲とかは特にないです」



 そっかぁと眉尻を下げて相槌を打つと、なにか閃いたようでまたこちらに顔を向ける。話し方はゆっくりなのに首の動きは機敏だ。昼間だったらすごくコミカルにみえるのだろうけど、今は半分影絵のようになっていて不気味だ。

 警戒心を募らせていると、今度は鞄からペットボトルを2本取り出した。それを笑顔で差し出してくる。


 

「1本どうぞ」


「え、はい。ありがとうございます」



 要らないです、と断ろうとしたのに素直に頷いてしまった。目尻にしわを寄せてやさしげに微笑むは、そんなに怪しい人ではないのかもしれないと思った。

 差し出されたペットボトルはうっすら汗をかいていて、無数の細かな泡が上へ上へとのぼっては弾けるように消えていく。甘いもの苦手なんだけどな、と宙に浮く水色と透明の間で手を彷徨わせていると、彼は目を細めて言う。



「こっち炭酸水だから甘くないよ」



 じゃあ、と炭酸水のほうを受け取った。

 ボトルを回すと、張り詰めた空気が爽やかな音とともに緩んだ。口もとで傾けると、ほのかな苦さと果実の皮の香りが泡と一緒に喉を通り、余韻が鼻腔を抜ける。

 喉にかかる刹那の衝撃は、そのあとの爽快感を知ったあとでも好きになれなかった。だが今は毒をもって毒を制すの要領だ。嫌な気分を苦みで覆い隠して、弾ける泡にのせて消し去る。



「きみ、独特な飲み方するね」



 容器の口先を唇から数センチ上に離し祖母の家にあった鹿脅しのように容器を傾け飲む様子をみて、彼は微妙な表情をした。もちろん行儀が悪いのは理解している。

  


「口をつけて飲むと汚いので。口内の菌は容器に入ると増えていくんです」



 彼はふぅんとおざなりな返事をして再びアコースティックギターを構えた。

 夜に溶け込んだミの音を皮切りに、聞いたことがあるようでないような曲を継ぎ目をぼかすようにしていくつも弾いていく。



「高校生ってさ」



 突然、ほろ苦い音の波から引きずり出され我に返る。

 その視線はこちらに向けられることなく、どこか遠くを、抽象的な何かを見ている。こちらが首を傾げたのを視界の端で捉えて、また言葉を続ける。



、辛い?」



 なにがどうやっぱりなのだろうか。けど、辛いものは辛い。息をしているだけでしんどい。なにもない日もただ漠然と消えたいと思うし、なにかがあった日にはさっさと死んでしまいたいと思う。



「きみを連れていきたい場所がある」



 今から、とこちらをみる彼の視線は強い。それがまっすぐな線となって心の優柔不断な部分を突く。断ることは昔から得意じゃない。だから内心で未来の自分へ精一杯の言い訳を述べて、彼のあとに従ったのだった。




 ✻



 

 街灯の少ない細道を15分ほど歩いて、歩道橋のうえに辿り着いた。一面見覚えのない景色で、赤い月に手が届いてしまいそうだった。近くでみると、西瓜というよりは血のように鮮やかな赤だ。

 手を伸ばし魅入っていると、したを見てごらんと彼の声がする。言うとおりに視線を下げ、無意識に深く息が漏れた。

 歩道橋のしたは1本の線路道になっていた。月に照らされ、ぼんやりと青白く光っている。その線路の脇に、たくさんのモノが無造作に置かれていた。ハイヒールや傘、ギター、帽子、本……。不法投棄とかゴミと言うには綺麗すぎた。まるでひとつの作品のように、どれも確かな意味と意志をもってそこに存在している。そう感じた。



「なんですか、これ」



 自分でもよくわからない感情を覚え、彼に問う。自分となんの関わりもないモノたちに、どうしてこんなにも心が動かされるのだろうか。

 


「これは人生だよ」



 大真面目に言う。線路のすぼまった先のほうを見据える瞳には、赤い月が凛と映っている。


「言い換えれば、人生のお手本みたいなものだよ。この線路からどれだけ外れてしまわないか、君を含め人間はみな怯えてる。たしかに、このうえをまっすぐに止まらずに歩いていけば安泰な人生だ。親だか先生だか神様だかは、あくまできみの幸せを願ってこの線路を作ってる。でもね、ほら」



 あちこちに散らばったモノたちを指差して、彼は続ける。



「線路のうえをただ歩いていたら、脇にあるモノがどれだけ美しかろうとそれはただの景色だ。もしきみが鉄じゃなくて土やコンクリートのうえを歩きたいと思ったとしても、線路をつくった人たちは現実を見なさいと激昂するし、周りは馬鹿げてると嘲笑したり普通じゃないと決めつける奴さえいる。だから自分の夢や想いを殺して、人は一生懸命に線路のうえを歩こうとする」


 

 それこそ馬鹿げてると思う。冷えた目つきで虚空を睨みつけて、それでもなお落ち着いた声色で言葉を紡ぐ。



 普通なんていらない。どうせすぐに変わってしまうものなんだから。だれかが用意した線路のうえをなんて歩いちゃ駄目だ。きみのいちばんの幸せはきみ自身の選択によって得られるものなんだから────。




 ✻


 


 どこからか降ってきた小粒の雨が、本の背表紙にぽつりと赤く染みをつくる。



「自分は毎日毎日、失敗ばかりで、どうしても自分を好きになれなくて、変わりたいと藻掻いてもなにも変わらなくて……。それに今日、」



 こびりついて消えない。温かい瞳、紅くなった頬、絡まった手と手。嬉しいときはいつも堪えるように口の端に力を込めてそっぽを向くのに、そのときは綺麗な笑顔だった。


『ユウ、俺彼女ができた』

 

 蒸し暑い昇降口だった。酸素が薄くてなにもかも歪んでみえた。蝉が耳の後ろのほうで絶えず鳴っていた。汗と醜い気持ちにまみれて、無我夢中で風を切った。できるだけ遠くに行きたかった。朧げな意識のなかで、それでもまだ彼を想っていた。



「自分は……、は、ふつうじゃないから」


 

 ああ、僕はずっと誰かがひいてくれた線路のうえを生きようとしていたのか。

 涙をごまかすように大粒の雨が頬を濡らした。雨粒と嗚咽が重なり、ワイシャツがいちごのかき氷のようだった。

 雨音の隙間からは爪弾く音が響く。真っ赤に濡れたTシャツが目に入った。張りつめた弦を赤い滴が伝う。細くて長い指が6本の弦うえを自由に動くたび、心に雨を降らす。

 悲しみや悔しさがとめどなく溢れ出てしゃくりあげる。喉の奥から血の味がする。

 空は赤で、地面は青で、その間を様々な表情の紫が埋めている。

 風もなく、時間が滞る。



「それ、なんて曲ですか」



 雨上がりの月のもと、血みどろのゾンビのような彼に尋ねたら、即興だから名前はないよと照れたように笑った。

 彼が初めて見せた自然な笑顔だった。





 ✻



 

 プシュッと小気味いい音がしんとした歩道橋に響き渡る。一気に呷ると、口に広がる甘みと僅かな刺激。

 俺は、しっかりとした足取りで帰っていく華奢な背中を祈るように見送る。

 に生きようと必死に藻掻いていた友は、もういない。今からちょうど4年後の夏のことだ。

 


「──今夜は月が綺麗だよ、ユウ」


 

 朝になったら、きみが当たり前のように笑っている世界でありますように。

 月夜に手をかざし、葡萄染色に染まった泡をいつまでも見つめた。

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線路のうえを歩くな わたぬきふる @nome

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