003

 剣を返してもらえたのはラッキーだった。

 右手に握り締めた直剣を大上段に構え、疾走の勢いそのままに、平均的な成人男性の図体よりも一回り大きい黒の蟷螂を縦一文字、真っ二つに切り裂けば、割れたその黒き骸の隙間をするりと通り抜け、後続の蟷螂の胴体を横薙ぎに斬り飛ばしながら着地。すぐさま身を翻して跳躍し、別の黒い蟷螂の首を背後からバッサリと刎ねつつ足蹴にしてもう一段高く跳ね、また別の蟷螂のパンパンに膨れた腹を踏み潰し、千切れたその胸を蹴り飛ばして更に別の蟷螂を牽制。直後、懐へ突進し、その勢いを剣に乗せて胸を袈裟懸けに斬り裂いたらば、ようやく、蟷螂軍団の全てが骸と化した。結局のところ、僕は、いったい何匹の蟷螂もどきを斬り殺したのだろう? ミナーヴァとセレナには注意が向かないよう、余計なことは考えず、無闇な殺生に恥じる間もなく全てを斬り殺してしまったので、どれだけの蟷螂――もとい、蟷螂のような姿の魔物を屠ったのかは分からなんだ。

 魔物の軍団と遭遇したのは森に這入り、暫くが経過してからのことだった――学校を後にした僕らは、そのままの足で森の砦横入口(と云っても、森自体は何処の国の所有物でも無く、強いて云えばヘダテルイウ山脈に棲む女神様の所有物であるため、交通整備がされているわけでは無く、だから、此処から森に這入るのは正しくて、其処から森に這入るのは間違い、と云うような事は無いのだけれども、少なくともその入口とやらは、森でサバイバルの訓練を行う士官学生やエングルスに駐屯する国家騎士が国境の見回りのため、あるいは隣国からの貿易商が共通して頻繁に使用している勝手口であり、公式では無くとも推奨された出入口だった)から無事に入場。燃え枯れた木々に抱かれし、炭々たる道中では、昨日の山火事の原因を探るために森の中をウロチョロしていた国家騎士の連中に変なちょっかいを掛けられたり、山火事の影響で棲み処を失くして狂暴化した動物を宥めたり、森の生命力が削られた所為で姿を隠せずに彷徨っていた妖怪変化が心無い者に見つかる前に介抱してあげたり――と、特筆すべきでは無いが、確かに無視することの出来なかった、つまりは面倒事にそこそこの頻度で巻き込まれたため、進行速度はかなりのスローペースだったけれど、それでも何とか、此処より先がヘダテルイウ山脈に棲む少数民族のうちの一つであるアンキボロ族のテリトリーだと云うことを知らせる女神様の像が彫られた巨石のところまで到達。そして、少しドキドキしながら彼らのテリトリーに踏み入ったところで、アンキボロ族の集落がある方へゆっくりと行軍する黒い軍団を発見し――現在――振り返った僕は、剣に付着した紫色の体液をしゃっと払い除け、左腰の鞘にそれを納めながら、僕が飛び出した瞬間とほとんど同じポーズで固まる二人の方に爪先を向けた。

「怪我は?」

 聞いては見たものの、わざわざ虫けらごときに美女二人の手を煩わせるのは、何だか申し訳ないなと思い、単身、そそくさとその全てを片してしまったから、聞くまでも無く、二人は無事のはずだけれど、とは云え、小心者の僕としては、二人の口から無事を確かめないことには安心することができない。もしかしたら、戦闘の最中に小石や魔物の血肉とかが飛んで、怪我させているかも知れないし……そう思うと、無性に不安になってしまって、僕は、二人の顔を覗き込んだ。

「痛いところとか、気持ち悪いとかは? 大丈夫? へーき?」

 僕のしつこい問に、最初に答えたのはミナーヴァだった。「君はやっぱり可笑しなやつだな」と、軽やかに笑ってから、僕の左肩を「私はへーきだよ、何も問題ない」ぽんと叩いて通り過ぎ、スカートの裾を少しだけたくし上げながら、三々五々と魔物の死体が散らばる戦場跡へ進んだ。どうやら、僕が刻んだ魔物の数を数えているらしい。ひょっとすると、僕の代わりに、どうやって死骸の山を持ち帰ろうかとその算段を思案してくれているのかも知れない――が、一方のセレナは、どこか痛むのか、右手で左腰に提げた剣の赤い柄を握り締めたまま、散らばる死骸を眺めていた。

「セレナ?」

「……見えなかった」

「ん? 何が?」

「…………」

 黙した彼女は少しだけ俯き、眉根を寄せて見せたので、きっと、大きな虫が恐かったのだろう。彼女が虫嫌いなのは、僕もよく知るところである――幼少期、父親の意向で男装をさせられていた彼女は、その所為で周囲の子供からイジメを受けていた過去があるのだけれど、そのイジメにおいて彼女は、鞄の中に大量の虫を容れられていたことがあるらしく、それがトラウマで、だから虫が嫌いなのだった。ならば、ここは一つ、友人として彼女を支えてやらねばなるまい――僕は、彼女を抱きかかえた。 

 よっこいしょ。

「ちょ、何してんの⁈」

「ん? お姫様抱っこだよ?」

「いやいや、それは分かるけれども、そうでは無くて、どうして急に――てか、降ろしてよ」

「嫌だね。虫が嫌いな奴に、虫の死骸の上を歩かせる訳にはいかないだろ? ほら、蟷螂を越えるまでは目を瞑ってなよ。新しい魔物が来ても、僕が守るからさ」

「…………」

 流石に、一つ年下の僕に抱っこされるのが恥ずかしかったのか、僕の首に腕を回したセレナは、必要以上に僕の首元に頭を寄せ、よろしくお願いします、と小さく呟いた。よろしくお願いされたからには、絶対に彼女を守らなくちゃならないので、僕も必要以上に強く抱きしめることにした。これで抱っこ紐の一つでもあれば完璧なんだけれど……、腕力が足りなくて妹を抱きかかえられなかった時分の僕は、よく、座った状態で妹を抱きかかえた上から、母さんに、抱っこ紐で妹と僕の身体をきつく繋いでもらっていたのである。今となっては、妹もすっかり大きくなってしまったため、もう抱っこさせてはくれないけど――お風呂を一緒にするのは良くて、抱っこするのはダメな理由は、よく分かっていない。

「ははは、君も悪い奴だな」とは、セレナを抱きかかえて歩き出したところで、ミナーヴァが放った台詞である。……確かに、僕も少しやり過ぎた気がする。二人の手を煩わせないためとは云え、随分と乱暴に斬り刻んでしまった。僕もまだまだ、修行が足りないぜ。

「そう云う意味じゃあ無かったんだけどね……、まあ、確かにこれは凄まじい」

「そお?」

 僕が追い付くと、ミナーヴァは歩き出した。この蟷螂の死骸は、回収しないのだろうか? もしかして殺り方が雑だったから、あまり高く売れない?

「いや、この量を運ぶのは骨が折れるから、後回しにするだけさ――それより、ノートは、自分で何匹殺ったのか分かってるのかい?」

「二十五匹くらい?」

「四十匹だよ。しかも、会敵から戦闘終了までは僅か十七秒、一匹あたり〇・四二五秒で処理した計算になる」

「魔法使いってのは、数学にも強いんだな」

「この程度は算数だよ――って、いやね、私は計算力の自慢をしたいんじゃなくて、君の速さが異常だってことを言いたいんだ。君が速いことはよくよく知っていたけれど、それにしたって速すぎる。私も、そこで顔を隠しているセレナちゃんも、まったく君の動きを視認できなかったんだぜ? いくら現代が神代だとは言え、君の身体能力は物理法則を無視し過ぎじゃあないかい?」

「そんな事を言われても、僕には分からないよ」

 いつも通り(まあ、魔物との戦闘は今日がまだ二度目なので厳密にはいつもと違うのだけれど、この場合は剣を振るうと云う意味で)に動いていただけなので、異常だと云われても困る。と云うか、魔法使いに異常だなんて言わる筋合いはない。

「なんだ、異常と言われて拗ねてるのかい?」

 にたりにたり――と、吊り上がった口角は、その造形が恐ろしいくらい流麗なだけに、ほとほと意地悪く見える。

「ミナーヴァさん、あんまりノートを虐めないでください」と、ミナーヴァの意地悪な笑みから僕を守ってくれたのは、他でもない、セレナだった。「ノートは全然、異常なんかじゃないよ。ちょっと変わってるけど、優しい好い子だよ!」よしよし、と頭を撫でてくれた。見たか、これが友情ですよ、魔法使いさん!

「君の角度からでは見えないだろうけど、その女、友情を語れるような面はしてないぜ」

「いくら魔法使いが偉大だとは云え、レディに向かって顔のことをとやかく言うのは失礼じゃないですか?」

 そうだそうだ。

「そう云うのなら、ちゃんと鏡でその面を拝むなり、ノートに見せてやるなりしなよ――つうか、セレナちゃん。君はいつまでそうしているつもりなんだい? 七天武騎の末裔ともあろう者が、年下の男の子に抱っこされて恥ずかしくないの?」

 セレナを抱っこしている僕が云うのもなんだけど、それは僕もちょっと思う。僕だって、年下の女の子、例えば妹とかに抱っこなんかされた日には、寝る前にそのことを思い出して枕に顔を埋めながら悶絶しかねない。

「……虫が苦手なので」

「言うほど苦手じゃ無いだろ、君」

 え、そうなの?

「み、ミナーヴァさんは、私の何を知っているんですか……⁈」

「私はセレナちゃんのことなら大体のことは知っている。君の家庭環境も、君が父と母を、そして姉をどう思って、その果てにどうして〈鬼に憑りつかれた〉のかも知っている。なんなら今ここで、君の初恋の男の子の名前を叫んでやってもいいんだぜ?」とは言うが、ミナーヴァの知っている人物名とは、神代が終わるまでの物語に登場する主要なキャラに限ると云うことらしいので、セレナの初恋の相手の名前を言い当てるのは不可能――いや、初恋のお相手君が主要キャラならば、ワンチャン、言当てられるのか……こわっ。

「魔法使いの脅しにしては、随分と子供じみてますね」

「おうおう、それは挑発かい?」

「気が短すぎるでしょ!」

「バラされたくなければ、私と場所を代わりなさい。ほら、見てごらんよ。私なんかロングスカートなんだぜ? 歩きづらいったらありゃしない」

「私だって白い制服です」

「スラックスじゃないか! 汚れるかもしれないけれど、歩きにくくは無いだろ」

「でも、ミナーヴァは魔術でどうにでもなるじゃん」と、口を挟んだ僕は、キッとミナーヴァに睨まれた。射殺されるのかと思った。うわーん、恐いヨ、セレナちゃん!

「……まっ、この場は大人として譲ってやるとするかね」

「私が駄々を捏ねたみたいな言い方しないでくださいよ」

「代わりにノートには、後で私のお願いを三つほど叶えて貰うから」

 覚悟しときなさい。そう付け足したミナーヴァに、僕は、善処します、とだけ答え、魔物の残骸を越え、アンキボロ族のテリトリー内を、しかしそのテリトリーの中心部にあるアンキボロ族の集落だけは避ける様に迂回していると、北西――ちょうど、なるべく避けて通りたかったアンキボロ族の集落がある方から「Gumoooo!」と云う雄叫びが聞こえた。牛の鳴き声に似た雄叫びである。マタドールの出番かも知れない。

「また魔物?」

 散らされた死骸を過ぎたあたりで、まだ抱っこされているつもりなのか君は、と言うミナーヴァの苦言も無視して、僕の腕の中に居続けるセレナが、僕の左耳元で小さく呟き、自分の左腰に提げた、刃を納める赤い鞘を左手に掴んだ。咄嗟に剣に触れるあたり、流石は士官学生と云ったところか。戦闘慣れしていない僕とは大違いである。さっきの僕なんか、魔物相手に、ステゴロの勝負を仕掛ける間抜けを晒したと云うのに……、腰に剣を差していることを思い出し、慌てて剣を抜いたのは、二匹ほど殴殺した後だった。

「うーん、こっちに向かって来てる感じは無いけど……どうしたらいい、ミナーヴァ?」

「どうもこうも、このパーティのリーダーは君なんだから、君のしたいようにしたら良いよ。私はただ、君の決定に従うだけさ」

「じゃあ、取り敢えず近くに寄って見よう――ミナーヴァは、どれぐらい速く動ける?」

「そこそこ速く動けるつもりだけど、君の全力疾走に比べれば、牛歩みたいなものだよ」

「全力疾走まではしないよ」

 走るのは嫌いじゃないけど、疲れるのはあんまり好きじゃない。

「それならまあ、それなりには追いかけられると思うかな」

「そっか――よし、それじゃあセレナ。舌を噛まないように、ちゃんと口を閉じててね」

「……うん」と、セレナが頷くのを確認した僕は、地面を蹴った。ちなみに、アンキボロ族の集落を避けたかったのは、単に彼らが悪い奴らだからという理由ではない。彼らは少し男尊女卑の思想が強めなので、僕一人ならまだしも、女の子二人を連れて会いたくは無かったのだ。

「そう云えば、飛んでいる時には起術反応が無いんだね」

 僕の隣を、地面と身体を水平にして進むミナーヴァの身体に、あの鮮やかな輝きは無い。

「ああ、私の場合、単純な飛行は魔力を操作しているだけだから、起術反応が無いんだ」

「つまり、空を飛ぶのは魔術じゃ無いってこと?」

「そうなるね」

「ふうん……じゃあ、僕も、その魔力操作とやらを覚えれば、空を飛べるの?」

「いや、魔力操作だけじゃあ無理かな」

「ミナーヴァは飛べるのに?」

「私と君とじゃあ、肉体の成り立ちが異なるからね」

「魔法使いってのは不思議な生き物なんだな」

 暫く走って、あるいは飛行し、火事に斃れた木々のエリアを抜け、緑に色付く木々がちらほらと散見しうるエリアに突入――すっかり昨日の大爆発の余波が感じられなくなった頃、辿り着いたアンキボロ族の集落は、僕の知っている集落とはその様相を異にしていた。

 遠目に集落を臨み、僕らは茂みに身を隠す。

「こりゃあ大物だ」と、感嘆したような口調で言ったのはミナーヴァ。

「あの魔物が火を放ったんですかね」と、不愉快そうに冷たく言い放ったのはセレナ。

 パチパチと音が聞こえている。

 僕らの眼前で、集落は、燃えていた。轟々と、藁と泥とちょっとの木材で造られた小さな家屋共が焼かれて火を噴き、ゆっくりと崩れる惨状には、そして、魔物の姿があった。連なる三つの牛面はそれぞれ形相が異なり、喜怒哀楽を表しているように見えなくも無いけれど、どうしたって〈アイ〉は見当たらない。人間のような上半身と馬のような下半身は、御伽噺に観たケンタウロスのようだけれど、その全身からは螺旋状の棘が生えていて、とても賢人の一族とは思えない。人体から伸びる四本の腕もまた人間の物と酷似しているけれど、関節が二つほど多く、何となく卑猥。要するにその姿は正しく異形で、正に魔物と云った感じなのである。とは云え、では、その魔物の特筆すべき特徴が牛の三面なのかと云えば、それは違う。勿論、ケンタウロス的であることでも無ければ、無駄に関節が多いことでも無く、強いて一言で表すのなら、巨大。その牛面は、兎にも角にもでかかった。

「――生き残りがいる可能性は?」と、僕は問う。

 答えてくれたのは、ミナーヴァだった。

「ゼロでは無いが、ヘンに期待するのは止した方が良い」

「じゃあ、取り敢えずあの魔物を片付けて来るよ」

 そう言ってセレナを下ろすと、彼女は僕の腕を掴んだ。

「私も行く」

 僕を見据える瞳には、強い闘志が伺えた――が、あんなでかいだけの魔物ごときに将来の国家騎士様である彼女の手を煩わせるのは、やっぱり申し訳ないので、此処は剣を納めてもらうことにしよう。第一、そんな高そうな剣を汚させるのは可哀想だし、もっと云えば、お前、その制服、白じゃん。血なんか浴びたら一発でダメになっちまうよ。

「ささっと片して来るから、ちょっと待ってて」

 するりとセレナの手から逃れて僕は、全速力で集落に侵入し、疾走の勢いを殺すことなく牛のような横っ面(もっとも、三面を有する此奴の場合、横っ面も正面のようにしか見えないけれど)に向かって跳ね、上半身を思いきり捻り、渾身の居合をかましてやった。音を置き去りにするほどの領域には未だ達せていない剣速だけれど、それでもスパンと首が飛ぶ……呆気ないぜ、ったく。

着地して剣を鞘に納める――さて、と。

「先に戻って、ミナーヴァに消火してもらお」

 呟いて踵を返そうとしたところで――ダンダダン、と重たい音が聞こえた――司令塔を失った身体が、バランスを崩して倒れたのだろうと思い、振り返れば、驚くことに、そのまま斃れ伏すはずの体は、しかし、地に手を突いて起き上がろうとしていた。生まれたての小鹿の如くか細く震えながら、関節の多い四本の腕で上半身を支え、馬のような四本の脚を器用に折り畳み、ゆっくりと身体を持ち上げようとしているのだ。もう既に首は無いと云うのに……案外にタフなんだな、お前さん。

 仕方が無いので、僕は、もう一度剣を構えた。さてさてさーて、何処を斬れば死ぬのだろうか……? 首を飛ばされてもなお立ち上がろうとするタフネスの殺し方など、まるで見当が付かないので、とりま、起き上がるのを邪魔してみることにした――剣を両手で持ち、木を斧で切り倒す要領で、横薙ぎに腕を斬り飛ばす。

 すると当然、バランスを崩した身体は、今度こそ地にひれ伏した――けれど、やっぱり起き上がろうとするので、残りの腕も、同じ要領で斬り落としてみた。……嘘だろ、まだ立ち上がるのかよ。牛面は、大量の血を撒き散らしながら、馬のような下半身で藻掻き、斬ってやった腕の断面を地面に突いてまだ立とうとしていた。足も斬り落としてみるか? と云うことで、さらに馬のような脚も全て斬り落とした。これでもう立てまい。そう思って、どこが急所なのかしら、と倒れた巨体の周りをぐるぐるしながら、観察していれば、此奴、まだ立とうとしやがる。早いところ楽にしてやらねばなるまい――心臓こそが弱点なのだろうと安直に決めつけ、上半身を三枚に下ろせば、ようやく動きは止まった。正解だったようだ。

 しかし。

「……惨いことをしちゃったな」

 心臓が弱点ならば、四肢(正しくは、八臂)を斬り落とさなくても、楽にしてやれただろうに。これじゃあ、まるでサディストだ。僕は、どっちかって云うとエムなのに。

「そうね。でも、いつになく楽しそうだったじゃない?」と、僕の呟きに応えたのは、ミナーヴァやセレナではなく、突然、僕の右隣に現れた――緑ベースの構造色に染められたタイトなトレーンのドレスをその雪のように白い身に纏い、黒いレザーのミリタリージャケットを羽織った、金毛の彼女は、黄金に輝く猟銃を肩に提げていた。

「――女神様」

 僕は、僕よりも頭一つ分ほど身長の高い彼女の、緑色の瞳を見上げて呟いた。彼女の正体は、言った通りである――ヘダテルイウ山脈に棲む女神様そのヒトであり、アムラバキに君臨する唯一の神性だ。名前は無い。強いて言えば、アムラバキこそ、彼女の名前だけれど、響きが可愛くないと云う理由から、イウちゃん、と呼ばれたがっている。ちなみに僕は、六歳の頃に出会ってから今に至るまで、一度も、彼女を『イウちゃん』と呼んだ事は無い。恐れ多くて、呼べていない。

「いやん、ノートちゃん! 一週間ぶりくらいかな?」

 そう言って彼女は、僕をぐいっと引っ張り、ぎゅうっと抱き寄せた。あーあ、そんなに抱き着いたら、僕に付いていた返り血が、折角の衣装に付いちゃうじゃないか……相変わらず彼女からは、仄かに甘く、爽やかなフローラルの匂いがする。とは云え、花らしい香りだとは分かっても、何と云う名前の花の香りなのかは分からないから、不思議だ。

「五日ぶりだよ」

「え、あら、まだ一週間も経ってないのか……でもまあ、兎に角、会いたかったよお! もう、イウ、めっちゃ寂しかったもん! 確かに、ノートちゃんに失踪事件の捜査を依頼したのはあたしだけれどもさー、定期的に会いに来てくれないとダメなんだぜ?」

 兎は寂しくても別に死んだりしないけれど、あたしは寂しいと死ぬんだからね。

 とは、胃にガツンと来るヘヴィな台詞である。

「……悪かったよ、悪かったけど、今はそんなことを言ってる場合じゃないだろ」

 只今、僕らは火中の栗状態だった。早いところ火を消さなければ、自分が焼かれるだけでなく、山火事にまで発展するやも知れず、基を糺せば、僕は、生存者の確認をするために火中へ飛び込み、牛面を刻んだのだ。とても、イチャイチャしていて良い状況では無い。

「ああ、そうだね。でも、それなら心配いらないよ」

 ふうぅ……、と女神様が緩く広げた右手の平に、優しく息を吹きかければ、火は集落ごと、瞬く間にキンと凍りついた。「この集落は、三日前くらいからもぬけの空だったんだよねえ。不幸中の幸いって謂うのかな、アンキボロ族が何処に行っちゃったのかは全くの不明だけれど、御蔭で、あの魔物に殺られた者も居なければ、火に焼かれた者も居ないのさ」そして、火を閉じ込めた氷は、彼女が指を打ち鳴らすと同時に砕けて霧散――黒く炭化した集落の伽藍洞と、横たわる魔物の巨躯だけが、僕らと共に残されていた。

 魔術ではない、単純な神秘。

 ゆえに、女神様の身体に起術反応は無い。

「ところで、ノートちゃん。ここ最近、私以外の神様か悪魔、もしくは妖精とかに出会ったりはしなかったかい?」

「どうして?」

「いやあ、なーに。ノートちゃんからちょっとだけ、私以外の魔性の香りがするからさ。そいつはいったい何処の馬の骨の阿婆擦れなのだろうと思ってね」

「阿婆擦れって……」

 口の悪い女神様だ。良く云えば、親しみ深い。

「まあ、思い当たる節が無いのなら、それで――」

 しかし、続く言葉は遮られる。

「突然、魔法の気配がしたけれど、無事だったかいノート?」

 と。

 起術反応にその身を染めるミナーヴァが、セレナを小脇に抱え、ゆっくりと僕らの傍に降下して見せた。文字通り、飛んで駆け付けたらしい。着陸したミナーヴァは、セレナをおざなりに降ろす(投げ出されたセレナは、牛面の血液が染み込んだ地面に手と膝を突いてしまった。白い制服なのに……もっと優しく下ろしてやることはできなかったのだろうか?)と、彼女は僕を指差し――閃光が、僕の頭上、女神様の頬すれすれを射抜いた。え、今、何が起きたの? 困惑する僕を他所に、女神様はプルプルと震えだした。

「おい、魔法使い、何のつもりだ!」

「…………」

「黙って次弾を装填するんじゃあない!」

 ミナーヴァの輝きが治まる。

 もしかして、今、女神様を攻撃したのか……?

「いやあ、どうも女神様。ご機嫌麗しゅうですね」

「取って付けたようなことを言いやがって……、何処の糞ったれな魔法使いかと思えば、〈褐彩の英知〉じゃあないか。君ともあろう者が、わざわざこんな田舎に何の用だい? つうかとっとと去ね! でなきゃ血を見るぜ?」

「田舎だなんて、卑屈は良くないですよ、女神様。そんなことより、貴女は、いったい何時までそのデカいだけの乳を幼気な少年の顔に押し付けてるんです」

「デカいだけって言うな――ははーん、なるほど? お前だな、私のノートちゃんに手を出そうとした阿婆擦れは……! 私の大切な子供だけじゃ飽き足らず、ノートちゃんにまで手を出すとはな。目障りだ、今すぐ冥土に送ってやる!」と、女神様は、僕から「覚悟しろ、〈褐彩の英知〉!」離れると、黄金の猟銃を右手だけでおざなりに構え、躊躇なくトリガーを引いた――瞬間、鳴り響いた落雷のような銃声は、正しく青光りする稲妻を呼び込み、銃口から迸った電撃は、ミナーヴァの身を貫いた。

 セレナの悲鳴が聞こえる。

「ミナーヴァ⁉」

「女神ってのはどいつもこいつもヒステリックで参っちゃうな」と、稲妻が直撃したはずのミナーヴァは別段、傷を負った風も無く、何食わぬ顔で其処に立っていた。そして、やれやれだぜ、と言わんばかりに大袈裟に頭を振って見せた彼女は、そのすぐ足元で、頭を抱えて身を小さくしていたセレナの首根っこを掴むと、彼女の身体を、昨日、僕の身体を投げた様に片手で軽々と放り、僕にその身を寄こした。

 慌てて、セレナの身体を抱き留める。

「セレナちゃんのことは任せたよ」

 うんと頷いた僕は、セレナの手を引っ張ってそそくさと二人から離れ、転がっていた牛面の巨体の陰に身を隠し、女神様と魔法使いを見守ることにした。しかし、女神様は、ミナーヴァのことを〈褐彩の英知〉と呼んでいたが、二人は知り合いなのだろうか? 殺してやる、だなんて言っていたから、仲良しでは無いのだろうけれど、それなりに因縁があったりするのかも知れない。後で、落ち着いたら聞いてみよう。

「さて、阿保女神、降参するなら今の内だぜ?」

「誰が阿保女神じゃ!」

 ツッコミと共に再び銃口から電撃が迸る――が、今度は、ミナーヴァの頬にかすり傷が出来ていた。電撃より少し遅く放たれた弾丸を避け損ねたらしい。

「……稲妻の目隠しとは、女神の癖に随分とせこい手を使うんだな」

「起術反応も無しに、対魔法の結界を常に展開してるチートに云われたくありません! これだから、妖精國出身の人外は嫌なんだ……、魔法使いなら堂々と体をテカらせておけ!」と、トリガーを引こうとしたところで、急接近したミナーヴァに猟銃ごと腕を取られ、背負い投げのような要領で高々と宙に飛ばされた女神様は、何事かを怒鳴りながら、宙に留まって猟銃を構えるが、強烈な起術反応に輝いたミナーヴァの指先から放たれた、赤い光線に右肩を打ち抜かれて力なく銃口を下げた。

赤い光線の乱射が続く。

「……女神様が虐められてる?」

「確かにミナーヴァさん、愉しそうだよね」

 宙で慌ただしく逃げ惑いながら、電撃を放ったり、氷塊を落としたり、火球を降らせたりして何とか応戦する女神様を、赤い光線とバリアだけで追い詰めるミナーヴァは、快活に笑っていた。ほらほら、さっきの威勢はどうしたのさ、もっと上手に逃げなよ。だなんて、完全に悪者の台詞である。

「悪魔みたいだ」

「先に手を出したのはあの女の人だけど、確かにアレはちょっと不憫――って云うか、あの女の人が女神様なの⁈」

 信じられない、とセレナが呟く。

「人間味に溢れた女神様なんだよ」

「人間味に溢れたと云うより、ただのヤバい女じゃ無かった?」

 こらこら、女神様に失礼ですよ、セレナさん。

「…………」

「なんだよ」

 そんなに僕をじっと見つめちゃったりして。

「いや、そう云えばさっき、女神様と抱き合ってたなあと思ってさ」

「アレは、まあ、女神流の挨拶みたいなモンだよ」

「挨拶って……私はさっき、初手で危うく殺されかけたんだけど」

 確かに最初の電撃は、もう少しズレていたらセレナに直撃していてもおかしくなかった。

「泥で汚れちゃったし」

「それはミナーヴァの所為じゃね?」

「確かに」

「でも、それならミナーヴァが魔術でどうにかしてくれるよ、きっと。昨日も何か、それらしいことを言っていたし」

 料理以外なら任せてくれ、とミナーヴァは慥かにそんな事を言っていた。ならば、泥や返り血を落とすくらい、わけ無いはずだ――と、昨晩のことを軽く回想していれば、女神様がものすごい勢いで突っ込んできて、僕の首をがっちりホールドし、勢いそのままに僕を引き摺りながら、藁の家だった燃えカスに頭から激突した。痛いんですけど、女神様!

「うわーん、ノートちゃーん‼」

 ぼろぼろと涙を流しながら、僕に頬ずりしてくる女神。

「あのクソ魔法使いに虐められたよー!」

「ああ、はいはい」

 よしよし、痛かったね。と頭を撫でてやるが、それでも泣き止まない。僕のことをがっちりホールドしたまま離す気も無いようだし……。

 助けて、ミナーヴァ!

「おいおい、阿保女神、ノートを困らせるんじゃあ無いよ」と、冷笑を浮かべたミナーヴァが、セレナを連れ立ってこっちに向かって来た。セレナはセレナで、さっきよりも泥に汚れている様だけれど、多分、女神様が僕に突進をかました際に跳ねた泥が付いてしまったのだろう。全く以て不憫だ。

 ミナーヴァの声を聞いた女神は、キッと鋭い目つきで振り返る。

「うるせえ、クソ魔法使い! 私はお前のことを許して無いんだからな!」

「許すも何も、ノートは別に、君の物じゃ無いだろ」

「確かに、ノートちゃんに手を出したことは許されざる蛮行だけれど、それ以外にも心当たりがあるだろ、クソ魔法使い!」

「…………」

 黙したミナーヴァは、心当たりの正体が分かっていないようだけれど、僕には、何となく察しがついていた。多分――とそこで、ミナーヴァは閃いたと言わんばかりに、パッと顔を輝かせた。

「ああ! 昨日の爆発のことか! その件については、ホントごめんね」

「『ごめんね』じゃあねえんだよ! 一体、どれだけの私の子供たちが死んだと思ってるんだ!」と、ようやく女神様のヒステリックの理由が分かったところで、傍から話を聞いていたセレナが、凄い顰め面をミナーヴァに向けた。

「あの山火事って、ミナーヴァさんがやったんですか……?」

「まあね!」

「…………」

 セレナは黙ってミナーヴァから一歩遠ざかり、重苦しい溜息を零した。昨日、ヒイロが大変だったと言っていたけれど、士官学生であるセレナもまた、混乱の鎮静に駆り出されていたのだろう。お疲れ様です。

「さあ、ノートちゃん。一緒にアイツを懲らしめよう!」

「懲らしめようって、どうやるのさ」

 ミナーヴァに少し痛い目を見せてやろうという浅ましい魂胆には、概ね賛成だけれども、正直、女神様を易々と圧倒していたミナーヴァを懲らしめる方法が思いつかないので、その作戦には参加したくない。

「大丈夫、ほんのちょっとノートちゃんが私に力を貸してくれさえすれば、あのクソ女なんか、けちょんけちょんに出来るから!」

 けちょんけちょんって……。

 女神の発言とは思えない。

「一応、聞くだけ聞くけど、僕はどうやって力を貸せばいいの?」

「私とチューするんだ!」

「はあ⁉」僕よりも先に奇声を上げたのはセレナだった。「な、ななな、何を言ってるんですか、貴女は‼」とは、ちょっと取り乱し過ぎじゃないでしょうか。チューをするのはセレナじゃなくて、僕だって云うのに……、しかし、チューってどうやんの? それこそ、せがまれて妹のおでこにすることは、たまにあったけれど、口と口との接吻となると、僕は知らない。目は瞑った方が良いのだろうか?

「あはは」

 笑われてしまった。

 僕が初心なのを見透かしたのか、魔法使い!

「ノート、悪いことは言わないから、女神なんかとキスするのは止めておきなさい」

「外野は黙ってろ! これはあたしとノートちゃんの問題だ!」

 鬼のような形相を浮かべながら中指を立てる女神様を無視して、ミナーヴァは続ける。

「女神のキスってのは特別なんだ。それ自体が、一種の魔法みたいなものだからさ。どんな効果があるかは、してみない事には分からんけど、でも、ろくでもない事が起きるのは、間違いないだろうね」

「五月蠅いなあ! バラすなよ、魔法使い!」

「ちなみに、どんな効果があるの?」と僕が問えば、鬼のような形相を引っ込めた女神様は、うふふ、と花も恥じらうような笑みを浮かべて見せた。

「大丈夫、大したことは無いわ――ちょっと不老不死になるだけだもの。良いでしょ? 永遠にあたしと一緒に居られるんだから」

 おいおい、たった一回のキスで死ねなく成んのかよ……。

「そんな怪訝な顔をしないで!」

「さあ、早いとこミナーヴァと仲直りしよ?」

「いやだ、あたしはノートちゃんとチューするんだ!」

 僕の顔を万力のように両手で固定し、無理矢理にキスをしようとする女神の肩をあらん限りの力で押し退けるが――強すぎじゃね? 全然、びくともしないんだけど! 僕の抵抗は呆気なく、彼女のその端正な貌がゆっくりと近寄って来る。

「タンマ、タンマ! 待ってよ、女神様! 僕は不老不死になんかなりたくないよ!」

「どうして? 永遠にあたしと一緒に居られるのよ?」

「でも、女神様は僕がステラカリタスだから、そうやって、僕のことを求めるんだろ!」

「ステラカリタス? ああ、あのクソ魔法使いに入れ知恵されたのね……可哀想に。でも、それは違うのよ、ノートちゃん。確かにあなたはステラカリタスで、私たち人外からすれば、意味も無く愛おしく思える存在だけれどね? だからと云って、全てのステラカリタスをこんなに愛す訳じゃ無いわ。あたしは、ノートがステラカリタスだったからあなたを愛しているのではなくて、ステラカリタスがノートだったから、あたしはあなたを愛してる……」

 女神様は、そして優しく微笑み、静かに瞼を閉じた。

 桃色の唇が近づく。

 ゆっくりと、僕も目を瞑った。

「…………」

 …………。

「…………」

 おや。おやおや。

 覚悟を決めたはずなのに、しかし、待てど暮らせど唇に柔らかい感触は訪れず――何だか体勢が変わっている気がする――それどころか、僕に圧し掛かっていた女神様の体温すら、どこかに消えてしまっていた。恐る恐る、目を開ける。

「やあ、ノート君。残念ながら、キスはお預けだ」

 ミナーヴァが居た。僕は、ミナーヴァの顔を見上げていた。ついでに云えば、背中と膝の裏に人肌の感触があった……どうやら、僕は今、ミナーヴァにお姫様抱っこされているらしい。

「〈褐彩の英知〉ィイィィ‼」

 女神様の咆哮が聞こえたので、ぐるりと声の方へ首を回せば、折角の美人を泥まみれにした女神様がいた。顔面から泥に突っ込んだみたいな恰好だ。いや、実際に突っ込んだのだろう。さっきまで僕が居たところに、僕とキスをするつもりで、べちゃっ、と。

 僕はミナーヴァから下りる。

「大丈夫ですか、女神様?」

 心配は心配だが、さっきのことがあるので近寄りはしない。

「折角、チュー出来そうだったのに!」

「させねえよ、阿保女神」と言いつつも、ミナーヴァは「セレナちゃん、あの阿保にハンカチ渡してやって」と、ポケットから取り出した白いハンカチをセレナに手渡した。女神様も女神様で、黙ってセレナからハンカチを受け取り、それで無遠慮に顔を拭いていた。拭き終わって汚れたハンカチは、そのままセレナに手渡される。受け取ったセレナは、うげえ、と顔を歪めた。

「ありがと、セレナちゃん。それは捨て置いて構わないよ――さて、茶番はこの辺りにして聞きたいことがあるんだけど、聞いても良いかい、阿保女神?」

「良くねえから、ノートちゃんを置いて帰れ」

「半年前、森に六人組の若い男の子が這入ったらしいんだけど、その子らの足取りって追えたりする?」

「はあ? 知らねえよ! あたしは、ノートちゃん以外の人間に興味ないんだ!」とは言うが、森で起きたことを彼女が知らないはずはない。まあ、不貞腐れてしまった彼女が素直に答える事は無いのだろうけれど……。女神様は立ち上がって衣服に付いた泥を払うと、おざなりに猟銃を肩に掛け直し、これ見よがしに溜息を吐いた。

「て言うか、もう帰って良い? 泥だらけで気持ち悪いんだけど」

「帰るのは別に構わないけど、答えてから帰ってくれ。でないと、君に掛けられている神隠しの容疑は晴れないままだぞ」

「……じゃあ、こうしよう」と、女神様は、ニヤリと笑みを作った。 「その質問には答える。ただし、ノートちゃんだけにしか教えない。おまえに教えるのは癪だからね。それと、やっぱり着替えたいから、私はノートちゃんを持ち帰る。持ち帰った後で、ノートちゃんにその質問の答えを教えよう」

「それ、ノートが帰って来なかった場合はどうなるんだい?」

「どうもならない。ただ、この世界が滅びるまで、夫婦を営むだけさ」

「おっかない事を言うんだな、君は……しかし、何をそんなに急いでいるんだい? 今までだって、ノートを監禁する機会はいくらでもあったはずなのに、ついぞ今日まで手を出すことは無かったじゃないか」

「おまえが現れたからだろ、クソ魔法使い! たった一晩でノートちゃんに自分の匂いを塗りたくりやがって! あたしが、ノートちゃんに神性を与えるのに、どれだけ苦労してきたと思ってるんだ!」

「なんだ、つまり嫉妬か」

 そう言ったミナーヴァは、嗜虐的に笑った。

「なっ、笑うなよ!」

「そうかそうか、いや、それは私も悪いことをしたね――よし、それじゃあ分かった」

「何が分かったってんだよ……」

「ノート君を持ち帰って良いよ」

「――⁉」

 良いんですか、ミナーヴァさん? 今、あの女神様にお持ち帰りされちゃったら、僕、もう一生、人里に戻れない気がするんですけど……。と、そう思ったのは、僕だけでは無かったようで、僕の代わりにセレナが「良いんですか?」とミナーヴァに訊ねた。

「ああ、良いよ――その代わり、この子も一緒に連れて行ってくれるならだけどね」と、ミナーヴァはセレナの肩を抱き寄せた。

「もちろん、私はお留守番しているよ」

「…………」

「悩む事は無いだろ、高々人間の小娘一人、付けるだけだもの。それとも何かな? 阿保女神は、人間の小娘にすら嫉妬しちゃうのかい?」

「……分かった、その子も連れて行く」

 女神様が頷いたのを確認したミナーヴァは、セレナに何かを耳打ちした後、僕とセレナの背中を押した。何をセレナに言ったのだろうか?

「じゃ、ノートちゃんとそのオマケ、あたしの手を握って」

 内緒話の内容は知れないまま、女神様に差し出された右手を僕が、左手をセレナが掴んだ。さっきの今でこんなことを思う僕は、心底間抜けなのだろうけれど、やっぱり女神様の手を握ると無性に安心してしまう。慣れ親しんだ、優しい手。

「二人のことをよろしく頼むよ、阿保女神様」

「くたばれ、性悪魔法使い」

 二人の幼稚な暴言を最後に、世界は白く染め上げられた。


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