第 二 話
二千百二十年、春。近所の大学に入学し、しばらく経った頃。授業のシステムにもだんだん慣れ始めて、「大学ってこんなものか」と僕は思い始めていました。
「ここで何か実益のあるものを得ることができるのだろうか……」
「そんなにうつむいてどうしたの?新人」
話しかけてきたのは同じサークルで先輩の三佳村という人でした。余程うなだれていたように見えたらしく、ものすごく心配されました。
「まあ、こんな大学辞めたって人生になんの影響もないと思うよ」
「いや、辞めないですよ。大丈夫ですって」
本当に?と僕の様子を伺い、嘘をついていないと分かって嬉しそうにしました。
三佳村さんは先輩ですが親しみやすさの塊のような人で、「尊敬」というよりも、歳の近い友達という雰囲気がありました。初めて会った人でも、彼女から出る独特な空気感で心の壁をまろやかに溶かし、仲良くなってしまう。これまでたくさんの威張り散らすのが得意な年上の人間を見てきましたが、そんな人に比べて彼女は誰より「正しい」人に見えました。
良い人というのはそれだけで何事にも変えがたい価値があるのです。
僕の入ったサークルは「科学サークル」という場所でした。もともと理系に強い大学なのですが、やはりサークルといえばテニスなどのスポーツサークルが人気で、このサークルは僕を含めて三人しかいません。なぜこの人数でサークルとして成立しているのかはいまだに謎のままです。でも授業以外まで研究したい人も少ないでしょうから、人数が少ないのは納得できます。
大学イコールサークルのイメージをぬぐいきれなかった僕は、運動が苦手だったのでここに入ったというわけです。
研究室に入ると、一人の男が巨大なフラスコの前で怪しげな実験をしていました。
「斗森君、また面白そうなことをしている」
「ダメですか?」
「いえいえ。法に触れない限りはね」
彼は斗森という男で、僕の幼い頃からの友人です。僕と同様の根暗で三佳村さんとは対極の存在でした。斗森は最近研究室でよくわからない研究を繰り返していました。フラスコでキテレツな色をした液体一と二を混ぜたあと、それを双眼顕微鏡で覗くのです。
「三佳村さん、最近ここいらで物盗りが出た、みたいなことってありませんか」
斗森が尋ねました。
「何それ。聞いたことないけど」
「そうですか、じゃあ気のせいかな。さっき物音が聞こえたような気がして」
「斗森君心配性だから。それより、研究は順調?」
それは問題ない、と斗森は返しました。それを聞いて三佳村さんは満足そうにしました。
「いやあ、サークル廃止寸前のところに二人が入ってきてくれて助かったよ」
斗森と僕は目を見合わせました。
「科学サークル。ねえ、興味ない?科学サークル。お願い入って、ねえお願いよ」
入学当初の三佳村さんが目に浮かびます。校門前であんなに頼まれたら、断るのは気が引けます。
「ちょっと前まではもう少し賑やかだったんだけどね、このサークルも」
「ちょっと前?」
私は思わず聞きました。
「サークルメンバーがいたんですか?僕ら以外に」
「いたよお!さすがに私一人じゃサークルとして認められないし」
三佳村さんは一呼吸置いて、言いました。「坂下君っていうね、おしゃべりな人がいたの。おしゃべりっていっても普段は寡黙で、心を許した人とは流暢に話す人でね。このサークルはその人と私で作ったもので……」
それから三佳村さんはその「坂下」という人のことを語り始めました。よほどその人が好きなようです。
「今はどうしてるんですか?その坂下さん」
「それは……」
先ほどまでの饒舌は見る影もなく、明らかに三佳村さんは言葉のキレが悪くなりました。話を終わらせたいように見受けられたので、僕達もそれ以上踏み込まないようにしました。
「あ、もうこんな時間。その話はまた今度ね。今日はもう解散しようか」
鍵を閉めるから、と研究室から出るように促されたので僕と斗森はその場を後にしました。
坂下裕人という生徒がある時から行方不明になっているという事実を知ったのは、それからしばらく経った後のことでした。普段はあまり会話しない一つ上の先輩や教授に聞いた話によると、誰になんの連絡もせずにぱったりと姿を消したそうです。最後に彼の姿が確認されたのは科学サークルの研究室でした。
「なるほど」
僕は斗森に言いました。
「どうりでサークルメンバーが少ないわけだ」
それからはその「坂下裕人」という人が気になって仕方がありませんでした。なぜそんな都市伝説的に消息を絶ったのか。そのことならあいつが詳しい、いや俺よりもあいつの方が……というようなたらい回しを食らい続けた結果、やはり最後に挙がるのはあの人の名前でした。
「彼のサークルで今も活動している人がいるでしょ、三佳村さん……だっけ?」
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