第94話 バッカスの祭
やがて町に夕暮れが近付き、外が騒がしくなり始めた。アイリスが楽しげに出窓から外を覗きながら、
「シャルル、フランシス、あのモチーフが動き出しそうよ!」
と、言った。
モチーフと言うのは、あの蛇や獅子の事だろう。
「どれどれ?」
と、三人して外を覗く。確かに、人が集まりだし、モチーフの中に人が入って行くのが見えた。
「そろそろ外に出ましょうよ!」
姫様ハイテンションですね。かく言う俺も、さっきから祭に心が疼いている。
「行くか」
と、言うオリヴィエの音頭に、皆一斉に立ち上がった。やっぱり皆さんワクワクしてたんですね。
なにが起こるかわからないので、一応レイピアをはして、マントを羽織り、部屋の外に出る。階段を下り、受付を横切って、外の匂いを嗅いだ。
仄かな葡萄酒の薫りは、どこかで祭が始まっている証拠だろうか。
「お、猫さんたち旅人かい?」
と、聞かれて振り向くと、目前にはワインボトルを抱えた男が立っていた。そうして、おもむろにボトルを振って、俺の顔めがけて葡萄酒を振りかけた。
俺が呆然としていると、
「いるかい?」
男は台車を持ち出した。中には、ワインボトルが山のように積み込まれている。
「ありがたい」
俺たちは礼をして、それぞれ一瓶づつボトルを取り出した。
「コルクは開いてるぜ」
と、男は親指を立てた。そうして、闇に消えていった。何者だったんだ。
やがて、蛇と茨の飾られた荷車が前方に見える。そこに乗った娘たちは、荷車を囲う者たちに、ワインを降り注いでいる。
「メルシィ・バッカナール!」
皆口々にその言葉を発している。それに倣い、俺たちもそう言いながら、道行く者に葡萄酒をかけてかけられた。既にヴェストに葡萄酒が染み込み始めている。マントなど意味がない。
「め、メルシィ・バッカナール!」
アイリスが声を張り上げ、俺に葡萄酒をかけてくる。なぜ俺なんですか。
「メルシィ・バッカナール!」
お返しとばかりに、俺はアイリスに向かって葡萄酒をかけようとする。しかしそれは突然目前にあらわれたオリヴィエによって邪魔されてしまった。
「なんだよ隊ちょ──」
「メルシィ・バッカナール」
俺の頭に葡萄酒を注ぎ、オリヴィエはしてやったりの顔をする。既にその鼻は赤く、かなり酔っている事がわかる。
皆ふらつき始めている。そろそろ中に入った方が良くはないか?
と、油断していると、やって来た荷車から葡萄酒を注がれる。初めは綺麗に塗られていた獅子や蛇のモチーフも、ワインにまみれ、ぐしゃぐしゃになっている。
「隊長、この祭はいつまでも続くんだ?」
と、俺がオリヴィエに尋ねると、
「夜が更けるまでさぁ」
とろんとした声で返された。これはもう危ない。レッドカードだ。
「誰かまともなやつはいるか!?」
俺は声を張り上げた。
「私が大丈夫」
アイリスが声を上げた。さすがと言いたい事だが、姫様、度重なる曰く失態で信用はがた落ちです。
だが、大丈夫だと言うので、任せる事にした。他の銃士たちは地面に伏していたり、ふらふらとどこかに行きそうになっている。
本当に、なんて危険な祭なんだ。
「俺が隊長を抱えて宿の部屋に運ぶので、姫様はどこかに行きそうなフランシスを止めておいて下さい」
祭の賑やかさに紛れ、俺は言った。
「わかったわ」
アイリスがフランシスの腕を掴み、言う。
回りでは未だ”メルシィ・バッカナール”と言う、神を讃える言葉が飛び交っている。宿の扉を開くと、俺たちの様子を見た受付の娘が、慌ててカウンターから出てきた。
「大丈夫ですか?」
と、声をかけてくる。なんて優しいんだ。
「部屋まで運ぶのを手伝って貰うと嬉しいのだが……」
その言葉に甘えて俺が言うと、
「わかりました」
と、オリヴィエのもう片方の肩を抱いた。
「メルシィ・バッカナール……」
虚ろな声で、オリヴィエは呟く。
「はいはい、祭は終わりですよ」
俺は言う。やがて二階の部屋に行き着くと、寝台に、オリヴィエを投げ出した。
「こんな乱暴で大丈夫ですか?」
と、娘が聞くので、
「大丈夫大丈夫。腐っても銃士隊隊長です」
俺は答えた。
そうして、急いで階段を下り、外に出る。アイリスと合流すると、今度は倒れているマウロを抱え上げた。
「お? どうした?」
赤い鼻でマウロは答える。
「歩けるか?」
俺が聞くと、
「なんとか」
との返事が返された。俺は開いたままの宿屋の扉を指差し、
「二階に行くと部屋の扉が開いているから、大丈夫か?」
と、問いかけた。
「お、おう」
マウロはふらつきながら、宿へと歩いて行った。途中で転ばないか心配だが、宿では言付けを頼んだ娘がいる。恐らく大丈夫だろう。
残るはフランシスとアイリスだ。
「姫様、大丈夫ですか?」
「えぇ、なんとか!」
メルシィ・バッカナールと言う合言葉が飛び交う中、声を交わす。
「フランシスを引っ張って来られますか?」
「もう倒れそう!」
「わかりました、向かいます!」
声を頼りに、宿の近くにいるだろうアイリスたちを探す。彼らは、案外すぐに見つかった。急いで回り込み、フランシスの肩を掴んだ。
「え、また夢?」
目覚めたフランシスが言葉を紡ぐ。
「そんな訳ないだろう。宿に戻るぞ」俺は言った。「姫様も、もう戻りましょう」
「そうね」
案外、姫様素面ですね。良く見ると、顔も赤く染まっていない。
こうして、俺たちは祭の終わりを見る事なく、宿へと向かった。
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