BRING IT ON BIRDS
文子夕夏
第1話:背後より
文字通りの日本晴れとなったその日は、「新しい事を始めるに打って付けの日」であった。遙か高空を――もしかすると天体まで――見通せるような快晴は、個々人が持つ殻を破るに相応しい精神高揚効果をもたらした。
「……おぇっぷ」
花ヶ岡高校一年生、
前世はアレクサンドリア図書館を破壊したアウレリアヌス軍の一員に違い無い小美優も、悲しいかな人並みの知的欲求は持ち合わせていた。呪いにも近しい嫌書反応を如何にして克服すべきか? 現代文の教科担当でもある担任に相談したところ、次のような回答が返って来た。
「秋沙はまず、何でも良いから好きな本を見付けるところから始めたらどうだ。最近流行りの映画、あったろう、犬が出て来るの。アレも原作は半世紀以上前の小説だぞ」
「でも先生、どうせ文字を読んだら吐き気を催すだろうし、『映画で良いじゃん』って思っちゃうんです。どうして文字を読まなくちゃいけないんですか」
「そんなのは知らんよ。酔い止めでも飲んで読みなさい。とにかくだ、ちょっとの文章を前に喚く奴より、長文を難なく読める人間の方がずっと人生が広がるぞ」
人生が広がる――担任にそう断言されては反論も出来ず、同時に「多分、そうなのだろう」と納得した小美優は、この日、友人からの誘いを断腸の思いで断り、卒業まで縁の無いものと確信していた図書室へとやって来ていた。
「……あの、すいません」
ひとまずはカウンターの図書局員に声を掛ける事にした。借りたい本に見当を付けていない(付けられない)彼女にとって、局員の言葉は神託に他ならない。
「……保健室なら一階だが」
局員は文庫本に栞を挟み(局員は男子生徒だった。無骨な顔に似合わず、ファンシーなウサギの絵が栞に描かれていた)、訝しむように小美優へ言った。事実、小美優の顔色は紙のように白く、嗅ぎ馴れないインクの匂いと四方八方の書籍から放たれる圧によるダメージから来ていた。
「違うの、そうじゃなくって。本を探しているんだけど、読んだ事が無くて」
同学年という安心感の影に……「本も読めない女」と言い触らされる事への危機感が潜んでいた。一方、「ふむ?」と局員が慣れた手付きでパソコンを触り出す。現在蔵書している書籍を総覧出来る優れものだった。
「話題作とか、そういった感じか?」
「そういうのでもなくって」
「図書局のお勧めなら、そこのポスターにある通りだ」
「そ、それでもなくて」
マウスのホイールを軽やかに動かす指が止まった。局員はただでさえ厳めしい顔を一層強張らせ――。
「すまん、何を探しているか教えてくれないと手詰まりだ」
太い首を傾げたのである。小美優はいよいよ恥も外聞も捨てる事にし、やや局員の方に身を乗り出した(一瞬、局員の頬が赤らんだ)。
「私ね、読んだ事が無いの」
「……?」
「要するに、本というものを一回も読んだ事が無いの」
珍獣でも見るかのような目付きで局員が問うた。
「漫画も?」
「うん」
「……絵本は?」
「……多分」
じゃあ帰ってくれ、お前のいる場所じゃ無い――とは言わず、唯、局員は困ったように宙を見つめ、それからすっくと立ち上がった。
「ちょっと待っていてくれ」
一〇分後。小美優は、例えば寒空に焼き芋を抱える人のような笑顔で図書室を後にした。胸には二冊の文庫本を抱き締め、財布には生まれて初めて作った貸出カードが収められている。
こんな私でも、本と携わる事が出来たんだ!
一六年の歳月を費やし、秋沙小美優は人生初の読書家デビューを果たしたのである。娘の読書嫌いにはほとほと困り果てていた両親が、即座に心臓麻痺で卒倒しかねない吉事であった。
「読書が苦手な人でも読みやすい、と思うのを見繕ってきた。二冊まで選んでくれ」
強面を通り越し、裏街道で違法行為に勤しんでいそうな顔の男子生徒は、その実、小美優に大変な紳士的態度で接してくれただけではなく、「気兼ねしないで、つまらなかったら返しに来れば良い」と助言までした。
ふと、小美優の脳裏に局員の顔が浮かぶ。すぐにかぶりを振って「違う違う、あの人は図書局員としてやってくれただけ!」と邪念を払った。が、油断するといつの間にか、局員に文庫本の感想を述べている自分を想像してしまう。
何と素敵で、何と困った事か!
ニマニマと廊下を行く彼女は、そのまま何事も無く帰路に就いた――。
訳では無かった。
「…………っ!?」
最初に……背後から紐を掛けられ、思い切りに首を絞められるような不快感があった。咄嗟に首元へ手をやるも、感じたものを裏付ける実在物は無かった。
続いて、強い乾きに似た緊張感を覚えた。花ヶ岡の門を潜る前に受けた面接試験、それとは比にならない激痛じみた焦燥は、思わず小美優を振り返らせ――。
「……」
諸々の根源と対峙させるに至った。
「…………あの、何か用ですか」小美優は問い、すぐに自身の言葉が不可解極まり無く思えた。背後に立っていた根源――三年生の女子生徒は一言も発しておらず、黙して此方を見つめているだけだった。当然ながら「ちょっと良いかな?」と声を掛けられてもおらず、小美優の質問は即ち……。
「あ、いえ、すいません……」
自意識過剰の不審者、その証左であった。そして、彼女の覚えた種々の感覚、もしくは自己防衛反応が果たして正しかった事を、三年生の次の発言が立証した。
「あら、私、何か言ったかしら」
ゆっくりと、それでいて三年生は着実に小美優の元へ歩み寄った。
「まぁ、どうでもいいけれど、貴女、ちょっと顔を貸してくれる?」
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