虚神インヴィジブルエンサー

マノリア

第一章 視えない影響者

第1話 日向 海果音

 過去の話をしよう。これは、あなたが暮らす世界とよく似た世界の話。


「おいヒカゲ!」


「な、なんでしょうか?」


 私の名前は日向ヒナタ 海果音ミカネ。季節はまだ寒さの残る3月初頭、23歳の私はIT企業で働いていた。その頃、私は上司から「ヒカゲ」と呼ばれていた。黒いショートカットの髪に黒い瞳、チタン製のメガネをかけた小柄で華奢きゃしゃな女。他人から見た私は暗い女だったのだろう。そんな私に、朝のさわやかな空気を台無しにする声で上司が迫る。


「このお客様、放っとくんじゃねえよ。メールに『何日までに』とか書いたくらいで返信が来ると思うなよ」


「はい、またメールしておきます」


 私はうつむき、目を逸らして呟いた。


「メールじゃダメなんだよ。電話しろ。メールでお客様に心が伝わる訳ないだろ。頭使えよ」


 「頭使えよ」は上司の常套句じょうとうくだ。私はメールでは心が伝わらない理由もわからないまま、受話器を震えた手で持ち上げた。私は電話が苦手だった。度を超した人見知りと不器用さでしどろもどろになるのだ。私はメールの署名を見て電話番号を打ち、発信ボタンを押す。電子音に緊張する私に、ほどなくして応答が返ってくる。


「はい、株式会社 月葉ゲツヨウです。葉月ハヅキうけたまわります」


「おッ、お世話になっております、株式会社システイマーの日向ヒナタです。えっと、社長様でいらっしゃいますか?」


 葉月ハヅキは社長の名前と聞いていた。社長と同じ苗字の女性の声に、私の第一声は上擦る。


「いえ、わたくし、社長ではございません。血縁ではありますがっっ」


 私の緊張に応えるように、相手も慌てているようだ。


「あ、さようでございますか。随分お若い女性の声でしたので、驚いてしまいました。申し訳ございません」


「いえ、とんでもありません。コホン、では改めまして、どういったご用件でしょうか?」


「あの、吉田様はいらっしゃいますでしょうか?」


「吉田ですね。少々お待ちください」


 長引く保留音と共に、心臓の鼓動こどうが高まってゆく。


「はい、お電話代わりました。吉田です」


 落ち着いた口調の担当者に、声の震えを悟られないように話し始める。


「お世話になっております。日向ヒナタです。ホームページ改修かいしゅうの件ですが、運用テストの進捗しんちょくはいかがでしょうか?」


「申し訳ありません。まだ確認中となっております」


 私はこの回答を薄々うすうす予想していた。連絡がないということは、相手の望む回答ができないということだ。


「そうですか、では完了のご予定はいつになりますでしょうか?」


「まだ、なんとも……年末でこちらも余裕がないもので」


「そうですか、今週中にご確認いただけない場合、3末さんまつリリースに間に合わなくなりますが」


「そこは間に合わせていただかないと、今年度中に予算を収められなくなりますので」


 予定通りに進まなくても、リリース日だけは厳守げんしゅというのが業界の常だ。


「承知しました。リリースの準備は進めますが、なるべく早くテストの結果をいただきたく。でないと、大きな修正はできかねますので、ご了承りょうしょうください」


「……そうですか。承知しました。よろしくお願いします」


「失礼いたします」


 電話を終えた私の手元には、無意味な線が書かれたメモ帳があった。通話をしながらメモを取るのが苦手な私は小さくため息をつく。


「何が、『間に合わなくなりますが』だよ。お前が甘いから先延ばしにされるんだよ」


 緊張が解けたかと思いきや、上司から叱咤しったを受ける。


「はい、すみません」


 私は説教を続ける上司の声をさえぎるように、頭を何度も下げながら、謝罪とは別のことを考えていた。


(私っていつも謝ってるな。疲れたなぁ。最近まともに休んでたっけ? 昼間は寝ぼけまなこのままで、寝る時間には眼が冴えて眠れない。翌日の仕事には支障ししょうが出る。その上要領ようりょうも悪い。でも、ここまで言われる筋合いはないよね。上司だからって部下をしいたげていいと思ってるのかな? いつも理不尽に傷つけられる。これはもしかして、パワハラっていうんじゃ……)


「ホント、気が利かねえな! なんだよその顔は! 暗いんだよ! 俺はお前のためを思って言ってるんだぞ!? 大体お前はコミュニケーションが下手なんだよ!」


 "お前はコミュニケーションが下手"、上司の言葉が私の頭の中にこだまする。


(人を傷付けるような人間が、普段は『コミュニケーションが一番大事』と偉そうにしている。他人に不快感を与えているのに、自分ではコミュニケーションが上手いと思ってるのかな? コミュニケーションに悩んでいる人同士ならうまくいくよね。だって、お互いに気遣うことができるから。じゃあ、本当にコミュニケーションが上手い人なんているの?)


 上司をやり過ごして仕事に戻った私は、落ち込みから抜け出せず、度々手を止めては遠くを見つめる。気付くと窓の外はすっかり暗くなっていた。いつの間にか定時を過ぎていたようだ。沈んだ気持ちのまま時間を浪費ろうひし、その日は大して仕事を進めることができなかった。


「おつかれさまです……」


「おう、おつかれ」


 疲れ果てた私は家路いえじに就く。電車で揺られる中、運良くシートに座ることができた。他人が怖い私は、できるだけ身体を縮め、隣に座る人から少しでも離れようとしてしまう。そして、メガネのレンズを通して虚空こくうを見つめ、自然とため息をこぼす。身に着けているグレーのスーツはくたびれ果て、私自身のことを表しているようだった。


 私は底が抜けそうなスカートのポケットからスマホを取り出した。手持ち無沙汰ぶさたになるとそうする癖がついていた。スマホとは「Suiteスイート Materialマテリアル Phoneフォン」の略称で、"電話用具一式"を意味する携帯端末のことだ。手のひら大の長方形の板に、一面タッチパネルを備えている。私はスマホの検索エンジンに「パワハラ」と入力していた。表示された結果は――


「パワハラ上司の横暴に付き合うのはもうごめんだよ」


「課長め、そんなに怒鳴らなくてもいいじゃん。パワハラで訴えてやろうかな」


 ソーシャルネットワークサービス、「コトリゴト」への書き込みだった。みんな苛立いらだちをそこにぶつけていた。


(うわぁ、やっぱりみんなそう思ってたんだ。この国はパワハランドだよね)


 更に検索結果をスクロールさせる。


「残業しろって、それパワハラですからー!」


 私はその書き込みを鼻で笑ってしまった。


(残業かぁ、そんなの当たり前だと思ってたな。そうか、ここなら好きなことを言っていいんだ!)


 私はそれまで興味が持てなかったコトリゴトをスマホにインストールした。説明によると、コトリゴトは独り言をさえずりあって想いを共有するというコンセプトなのだそうだ。アカウントを作った私は、思い付きで指を滑らせる。


「人間はざっくり2種類しかいないと思う。コミュニケーションが下手で悩んでる人と、コミュニケーションが下手なことに気付いてない人。下手なことに気付いてない人の方が得してるんじゃない? そんなの不公平だよ」


 書き込むと少しスッキリした。なんだか悩んでいたことがくだらなく思えてきて、笑いがこぼれてくる。


「くすくす…………フンフンフン♪ ……」


 仕事帰りの人でごった返す満員電車の中、下を向いて鼻歌を歌う私を気に留める者は誰ひとりとして存在しなかった。物心ついた頃から、私は自分の存在感が薄いことを知っていた。それは私にとって救いでもあった。私は事あるごとに歌うことで、精神の安定を保っていたのだ。


(そうだ、私なんかのことを気にする人なんていないんだ。ちっぽけな私がいくら仕事で失敗しても、大したことはないんだ!)


「……ゲレィッ♪」


 自然に唇と喉が動いた。電車は自宅の最寄り駅に到着する。私は立ち上がると共に、はっきりと声に出して歌っていた。


「……ゲレィッ♪ ……ユーキャーンゲレィッナーァァァウ♪」


 ホームに降りた私は、混み合うエスカレーターを避けて階段を上った。


「むねの、いたみ、おまえはまだ、きづかず♪ たびのおわーりー、いまはだれーもー、しらなくていいー♪」


 振りかぶってタッチ式の改札に定期券を叩きつけ、その勢いでくるりと回転しながら改札を抜ける。


「おまえのー、せなーかー♪ ちいさくー、なれーばー♪ はじめてー、なみーだー♪ おとすだろーぉぉぉっ♪」


 小刻みに足を運び、人を縫うように素早く階段を下りる。


「イッツマァイ、デェスティニーィィィッ♪」


 駅の出口で夜空に向かって咆える。それでも周りの人々は、私に目も耳も貸さない。


「オーンリーラァネンラーン♪ みるまーえにぃぃ♪ ネーバボォントゥラーヴ♪ はーしーるーのさぁぁ♪ ラーネェェンラネェンラーァン♪」


 自宅を目指して全速力で走る。この時私は、自分の言葉が人々を動かすことになるとは思ってもみなかった。


「ラーナラーナラーァァァァァン♪ ……」

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