所 花紅

 しらじらとした月光に照らされて、豆腐にも似た白い長方形の建物が彼らの前に鎮座していた。


「うわー、結構キレイじゃーん。もっとボロボロだと思ってたのに」

「ねえねえ、ここって確か、アスベストだったんでしょ? 大丈夫なの?」

「別に長くいるわけじゃないから、大丈夫だろ」

「じゃ、クジ引きするぞー」


 浮かれたような声に、彼らは一斉に歓声を返した。


 〇 ● 〇


「穴、だね」

「――ああ、穴だな」


 上代あやめの簡潔な感想に、三塚志郎も簡潔に返した。


 それは正しく穴だった。


 年季の入った飴色の床に、ぽっかり開いた黒い穴。

 板張りの廊下は、体重をかけるごとにぎいぎい軋んだ。長方形の板を乱雑に打ち付けただけの粗末な壁からは、時折ひゅるりと隙間風が吹き込んで首筋を舐める。とうにガラスの割られた窓枠は雨風に晒され、黒カビが広がっている。

 玄関から階段を上がってここまで、そんな感じでボロボロだったので、廊下に穴があったところでおかしくはない。


 だが志郎は、その穴に違和感を覚えた。


「なんか、すっごい綺麗な穴だね」

「だよな」


 穴の外周は、それはそれは綺麗だった。

 直径は五センチくらいだろうか。コンパスで円を描いたように、ここでボーリングを行ったように、整った美しい円形をしている。

 自然にできた穴にしてはあまりに綺麗なそれは、廊下の真ん中にぽかりと口を開けて二人を待ち構えていた。


「佐藤君達の仕業かな? 私達を驚かそうとしたのかも」

「それにしたって、みみっちいだろ。卓也達ならもっと派手にするぞ。血糊ぶちまけるとか、こっそり隠れて驚かすとか」

「だよねー」


 志郎を振り返らずに頷きながら、あやめは軽やかな足取りで穴に歩み寄った。蟻のように点々と黒カビの散った廊下に、膝をつく。

 志郎はその場から動かず、ビデオカメラであやめの背を追った。膝をつき、穴に顔を近づけて中を覗き込むようにする彼女の姿を、カメラ越しに見る。

 俯いた時に顔にかからないよう、耳に髪をかきあげる姿にドキリと心臓が跳ねた。


 小学校、中学校と学校が違かったので、あやめの事はよく知らない。

 ただ、スポーツ部らしいスラリとした手足と、走る度に襟足で揺れるショートカット。何より明るく人懐っこい性格に、志郎は知らず知らずに惹かれていた。

 だから今日、二人組を決めるクジであやめが当たった時は凄く嬉しかった。

 高校の友人達と一緒に、五年前に廃校になった小学校に肝試しに行く、なんて怖そうで嫌だったが、あやめと組めただけでも来た甲斐がある。


 最初こそ会話はぎこちなかったものの、階を上がるうちに二人は打ち解けてきて、他愛ない会話を楽しめるようになっていた。ポーカーフェイスを崩さないようにしながらも、志郎は内心で歓喜の声を上げていた。


「……ねえ三塚君、何も見えないよ?」

「懐中電灯で照らしてみりゃいいだろ?」

「あ、そっか」


 頷いてライトを穴に向けるあやめは、全く物怖じしていない。

 その背をなんとなしに眺めていた志郎の背筋を、ひゅるひゅる、と隙間風が撫でた。ぶるりと身を震わせる。何十年も雨風に晒されて老朽化しているせいで、この廊下の壁は隙間が多くて嫌になる。

 夏だから寒いわけではないが、背後から息を吹きかけられたみたいでギョッとするのだ。


「……うーん、それでも何も見えないよ」

「ライトで照らしてもか?」

「うん。こっち来てよ、三塚君も見てみる?」


 あやめの問いに首肯し、足を踏み出す。途端にミシリ、と床が鳴った。びくりと志郎は足を止める。このまま体重をかければ、床が抜けそうだ。


「三塚君、こっちの床は大丈夫だったよ」

「ああ。……っと、雰囲気はあるけど嫌になるな」

「本当だね。確かここって、床とか壁にアスベスト使われてて、それで廃校になったんでしょ? まあこんなにボロボロだし、廃校になってもおかしくないよね」

「んっとにな。あちこちボロいくせに、床とか天井が壊れてないのがすげえよ。さすがコンクリート」


 踏み抜かないよう注意しながら、そろりそろりと歩いてあやめの元へ辿り着く。

 ビデオカメラをあやめに預けて膝をつき、志郎は恐る恐る顔を近づけて穴の中を覗き込んだ。


「本当だ……何も見えないな」

「ね、真っ暗でしょ」


 あやめがライトで穴の中を照らしてくれるが、その中は確かに暗いままだ。もしかして穴の下に黒い厚布でも張っているのだろうか。誰がやったか知らないが、わざわざご苦労な事だ。

 顔を上げると、懐中電灯を片手でもてあそんでいたあやめが小首をかしげてみせた。


「ねえねえ。三階にあったお守り袋も見つけたし、そろそろ戻らない? 私達が最後だし、きっとみんな待ってるよ」

「だよな。じゃあさっさと戻るか」

「そうだね」


 あやめの提案を承諾して、志郎は立ち上がる。確かに肝試しのクリア条件である、「お守り袋を見つける事」は達成している。後は帰るだけだ。

 持ち上げたカメラを廊下の奥に向けて、一歩足を踏み出す。


 ――シュォッ。


 人が音を立てて息を吸い込むような、微かな音が背後から聞こえた。

 振り返るが、そこは先程の廊下の光景と全く変わらない。気のせいか――と前を向こうとし、気がついた。


「ねえ、穴……増えてない?」


 あやめの呟きが、薄暗い廊下に落ちる。彼女も気づいたようだ。ぽかりと口を開けていた穴の隣にもう一つ、同じような穴が空いている事に。


「三塚君、あれ……なんだろう?」

「見落としてたんだよ。暗いから」


 懐中電灯の明かりがあるとはいえ、その光が届かない所は薄暗い。月明りもあるとはいえ、壁際や廊下の奥には黒々とした深い闇がわだかまっている。

 だから、きっと見落としていたんだろう。影になっていて、ちょうど二人から見えなかっただけ。それだけのことだ。一つの穴に気を取られて、すぐ隣にあったもう一つの穴に気づかなかっただけかもしれない。


 な? と懐中電灯を向けてあやめに笑いかける。口元が引きつらないように力を入れた。


「そう……そうだね。うん、暗いもんね、きっとそうだよね」

「ああ。だってほら、ここってコンクリ製だろ? それの破片かなんかで見落としただけだって。それかほら、木目の黒いとこあるだろ、それと見間違えたんだよ」

「うん。そう、そう……だね」 


 あやめの頷きは、無理やり自分を納得させているような、不安気な色を含んでいた。


「……早く出よう、上代」

「うん……」


 二つの穴から無理やり視線を引きはがして、前を向いた瞬間だった。


 ――シュォッ。


 また、例の音がした。反射的に志郎は振り返る。喉の奥から、蛙が潰れたようなうめき声が漏れた。

 穴が開いていた。月明りに照らされた、不気味な模様の壁の木目に。五センチくらいの、綺麗な穴が。自分達から、ほんの三十センチしか距離が離れていない壁面に。


 無かった。こんな所に、穴なんて、無かった。穴の開いたその木目を志郎は覚えている。うねうねとした木目が渦を巻いているようで、変わっているなと思っていた。つい数秒前の事だ。だから覚えている。そこに穴は無かった。なのに、どうして。


 志郎の心臓が、蹴り上げられたように激しく動いた。背筋を氷塊が滑り落ちて、ぞわりと全身に怖気が走る。

 はっ、はっ、と荒い呼吸を繰り返す志郎の隣で、か細い吐息と共に無理やり押し出すような、小さな声が聞こえた。


「ねえ、三塚君。……これも、気のせい、なのかなー」

「…………」


 何も答えられなかった。ただ、あやめの方に懐中電灯を向ける。

 丸い光の中に映るあやめの顔からは、血の気が引いていた。引きつった笑みを浮かべる唇は、色を失って震えている。硬く強張った頬が、彼女の胸にじんわりと広がる恐怖をごまかしているようだった。

 自分もきっと同じような顔をしているんだろう。志郎は懐中電灯を握り直したおした。手のひらにかいた汗で、ぬるぬると滑るのが嫌だった。


「……一、二の、三で、ここから、逃げよう」

「…………うん」


 何が起こっているのか分からない。だから、早くここから逃げよう。ここから逃げて、卓也達と合流しよう。

 慌てて出たらビビリだと笑われるだろうが、それでもいい。馬鹿にされて笑われて、自分も一緒に笑いたかった。笑って、この訳の分からない恐怖を吹き飛ばしたかった。

 あやめもこくりと頷く。

 すうっ、と志郎は息を吸う。一、二の、と震える声で数える。


「……三!」


 叫んで身体を反転させる。今から向かおうとしていた廊下の奥へ、志郎とあやめは脱兎の如く駆け出す。

 志郎の少し前をあやめが走る。スカートの裾が激しく揺れていた。怯えながらも姿勢良く走る姿は見惚れるくらい綺麗だが、そんな場合ではない。

 この廊下の先は確か階段だったはずだ。証拠のお守りは既に持っているし、このまま階段を駆け下りて外に出てしまえば問題ない。

 ギシギシギシギシ、足が廊下を踏みしめる度に板が軋んで悲鳴を上げる。その合間合間に、シュォッ、シュォッと規則的にあの音がする。


 ああうるさい。だが、階段を駆け下りて外に出てしまえば、こっちのもの――


「…………ひっ!?」


 ふいに、引き攣れたような音があやめの喉から飛び出た。

 勢いよく駆けていた足が止まった。だらんと、身体の横に手が落ちた。力の抜けた指から懐中電灯が落ちて、重い音を立てる。あやめは中空を見つめて、呆然とその場に棒立ちになった。


「上代!? どうしたんだよ、上代! 早く」

「ねえ! 気づかないの、三塚君!!」


 逃げないと、と続けようとした志郎を向いて、あやめは叫んだ。絶叫とも言っていい、悲痛な声だった。

 こぼれんばかりに開かれた目に涙が滲み、震える唇の隙間から見える歯は小刻みに震えている。


「気づかないって、なんだよ! そんなのいいから早く逃げないと!!」 


 声を荒げた志郎の背が、ひゅるりと隙間風に撫でられる。

 またぶるりと身体を震わせ――


「……あ……」


 気がついた。

 気がついてしまった。


 どうして、隙間風が入ってくるのだ。どうして、ミシミシと廊下が鳴るのだ。入ってくるはずがない、鳴るはずがない。


 だってこの校舎は、鉄筋コンクリート製な筈なのに。


 アスベスト問題で五年前に廃校になって、ついに今年取り壊されるから記念に肝試しをしようと、それでこっそり来たのだ。

 壁に目立ったヒビもなく窓ガラスも奇跡的に割れずに残っていて、凄いな綺麗だなと、つい一時間前に話したばかりなのに。

 こんな、こんな不気味な木目模様が目立つボロボロの廊下がある校舎では、断じて無い。その筈なのに。どうして今、見知らぬ木造校舎の中にいるんだ。


「……っ!」


 もう一つ、志郎は気がついた。足から震えが駆け上ってきて、たちまち全身が震えだす。懐中電灯の丸い光が小刻みに震えて、壁に映されたあやめの影が歪んで踊った。


「なんで……なんで……気づかなかったんだ!?」


 校舎が木造なら、入った瞬間すぐに気づくはずなのに。違和感があるどころの話ではない。

 なのになんで気がつかなかったのだろう。二人が入ったのは二十分ほど前。だが気づいたのは今だ。なぜ、なんの違和感無く木造の校舎内を歩いていたんだろう。

 思い返せば自分達は、木造校舎とコンクリート校舎、二つの校舎について話していた。そしてそれに、二人とも全く違和感を覚えていなかった。


 己の行動を思い返して、志郎は気味の悪い恐怖に襲われた。幽霊など見てない、妖怪なんてものも見てない。だが怖い。得体の知れないこの穴が怖い。何が起こっているのか分からないのが怖い。

 とにかく、今彼らができることは素早くここから撤退する。それだけだ。


 ――シュォッ。


 強ばった足を動かそうとした瞬間、すぐ真後ろで、音がした。

 反射的に志郎はさっき走り抜けた方向を振り返り、


「――――――っ!」


 声にならない絶叫を上げた。ぶわりと全身の毛穴が開き、冷や汗が一気に吹き出す。


 ――穴。

 ――穴、が。


 そこには床中にびっしりと穿たれた穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴天井にも隙無く穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴壁にも窓にも暗いぽっかりとした穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴穴おぞましい程に吐き気がする程に偏執的なまでに、そこに穴があった。


 隣で絹を裂くような悲鳴が上がった。あやめのものだ。

 集合体恐怖症という、同じような形状がびっしりと密集しているものに恐怖を覚える病があるらしい。もしその症状を持った者がこの場にいたら発狂していただろう。最も、自分もこの光景でその恐怖症になりそうだが。


 ――シュォッ。


 ぼっ、と、現実逃避をしていた志郎の足元に穴が、一つ。


 それで現実に引き戻された。どこか麻痺していた恐怖が、打ち寄せる大波のように大きく迫る。すとん、と腰から力が抜けそうになって、志郎はみっともなく震える身体を叱咤した。

 今へたり込んだら、二度と立つことはできない。そんな確信があった。


「か、かみ、上代! 上代!!」

「やだ、やだ、助けて、やだ、三塚君、助けて、やだ……!」


 腰が抜けたのか、あやめはその場に座り込んでいた。名を叫んで肩を揺すぶるが、あやめの身体は硬直したように動かない。

 ぼたぼたと涙も涎もこぼしながら、やだ、やだとうわごとのようにか細く呟くだけだ。


 ――シュォッ。


 音。その方向に懐中電灯を向ける。それは階段の方だった。志郎達が逃げようとした方向。まだ穴に侵されていないはずの廊下。懐中電灯の光が届くギリギリの範囲に、すっかり見慣れた―見慣れたくなかったが―


 綺麗にぽっかり開いた穴があった。


 シュォッ、とまた音がして、その隣に穴が開く。

 駄目だ、あっちには行けない。退路が断たれた。あの穴をまたぎ越して逃げるのは嫌だ、怖い。

 ぬるい風が頬を撫でる。志郎は懐中電灯を向ける。すぐ真横に、ガラスがすっかり無くなって、真四角に口を開けた窓枠があった。

 街灯の無い真っ暗なそこが、今の志郎には救いの神に見えた。


「上代、あそこから逃げるぞ! 立て!!」

「待って、置いてかな、で……足、力入らな……っ」

「頑張れ、すぐそこだから!! おぶってやるから掴まれ、早く!」


 顔をぐしゃぐしゃにして泣くあやめに背を向けてしゃがむ。震える腕が肩に回った。柔らかい足を自分の両脇に引き寄せて、足に力を込めて立ち上がる。火事場の馬鹿力なのか、あやめの身体は羽のように軽かった。

 例の音はまだ聞こえない。今のうちに、早く。

 あやめを背負ったまま、窓枠から身を乗り出して下を見る。月明かりがちょうどそこを照らして、下の様子がよく見えた。自分達がいた場所は二階だが、高さはそこまでではない。幸いなことに、着地地点は中庭で、草木が生い茂っていた。


 人を一人、背負ったまま飛び降りれば、自分にどれほどのダメージが行くか分からない。コンクリートではないようだが、もしかしたら死ぬ可能性もある。

 それでも、この不気味な場所から逃げる事ができるなら、それでもいい。最悪自分が死んでもあやめさえ助かれば、それで。


「みつっ、三塚君! 後ろ!!」


 シュォッ、と音がして、あやめが悲鳴を上げた。

 迷っている暇は無い。覚悟を決めて、志郎は窓枠を超えて宙に躍り出た。風を切る音が耳元で聞こえる。

 助かった、助かったのだ。あの場所から、逃げる事ができた。

 近づく地面を見つめて、志郎はほっと顔を緩めた。


 ――シュォッ。


 音が、した。


 草木が、中庭が、一瞬で消える。いいや消えたのではない。穴だ。穴が開いた。大きい。中庭全体に大きな穴が開いた。月光すら飲み込む暗い穴。


 着地できない。穴に吸い込まれてしまう。無明の暗闇が近づく。心臓が跳ねる。恐怖が蘇る。耳をつんざく絶叫をあやめがあげる。背中であやめが滅茶苦茶に暴れる。

 手や足が志郎を打ち据える。どこか掴まれる場所、ああ最悪だ、どこにも取っかかりが無い。唇を噛む。怖い。怖い。怖い。


 あれはなんだ。自分達はどうなる。どこへ行く。伸ばした手がどこにも届かない。


 ああ、ああ、畜生。あの穴に嵌めら




 ――――シュォッ。

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所 花紅 @syokakou03

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