透明なぼく
藍川澪
第1話
ぼくのランドセルは赤だった。制服はセーラー服を着た。ぼくは「わたし」と名乗り、日々を過ごしていた。
ぼくはずっとそこにいたけれど、ぼくとは名乗らなかった。名乗れなかった。ぼくとは何なのだろう。ランドセルが黒い奴、黒い詰襟の学ランを着ている奴には「ぼく」と「おれ」が許されるけれど、ぼくには「わたし」しか許されなかった。だからぼくは息を潜めて、黒い瞳孔の奥からそっと世界を見つめていた。
ぼくが出ていけない世界は窮屈だ。男と女で線引きされる。足が速くないと嘲笑われた。足の速い少年たちは、定期的に鈍臭いぼくを教室の隅に追いやって嘲笑った。お前たちよりぼくの方が、ずっと多くのことを知っているのに。大人は少年たちを叱らなかった。なぜだろう。ぼくを賢いと褒めることはしても、足の遅いぼくを守ることはしないんだな。
ぼくは心の中では少年たちを笑い返していた。足の速さなんて、大人になれば価値基準のうちに入らない。みんなかけっこの選手でも目指していればいいんだ。ぼくは少年たちが嫌いだった。無知蒙昧で図体ばかり大きくて、下半身にしか興味がなくて、乳離れできない馬鹿な子どもたち。
ぼくのセーラー服は、はじめの三年間どうにも馴染まなかった。明らかに大きかった、いや、ぼくが小さかった。他のセーラー服の奴らは背が高く、手が柔らかく、よく群れていた。少年たちをちらちらと横目で見ながら、くすくす笑っていた。ぼくはなぜ笑うのか、よく分からなかった。少女たちはぼくの知らないところで打ち合わせをして、夏服に着替えた。ぼく一人が黒々とした冬服のままだった月曜日は、針の筵に座っている心地だった。明日から夏服にしたいと言ったら、家人には嫌がられた。ぼくだって針の筵に一週間座らされるのはごめんだ。なぜ理解してくれないんだ。あなたも昔は少女じゃなかったのか。
ぼくは少女の中には入れてもらえたけれど、群体としての性質は嫌いだった。群れを形成するくせに、好機と見れば自分は抜きん出ようと画策する計算高さも嫌いだった。やがて少女たちが少年たちを見る時のまなざしの意味を知った。それも嫌いだった。あんな馬鹿な生き物のどこがいいんだ?
ぼくはたぶん、少女たちと同一になることを見えないところで拒否していた。ぼくのフィジカルは正直に答えてくれた。ぼくに月が巡らないことをひどく心配されたが、ぼくはそんなもの必要なかった。背が伸びて、セーラー服がやっと馴染んでくる頃、ぼくの上に月が降り立った。悪臭を放つ血の塊がぼくの体から出てきて、こんな醜悪なものがぼくの中にはあるのかと思った。ぼくが女になったことを、家人には喜ばれた。ぼくは全くうれしくなかった。ぼくは女になんかなりたくなかった。男にもなりたくなかった。ぼくはただ、透明でいたかった。赤でも黒でもない、セーラー服でも学ランでもない。ただ、透明なぼくでいたかっただけなのだ。
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