星の間にこの歌を

蓬葉 yomoginoha

世々経とも


 荒い呼吸のまま彼女は、乱れた髪の毛と着物を整えて、立ち上がった。


朝経ともつね様」

「……」


 別れの時だった。しかしこの感情は恐らく、この憂世うきよにおいて私以外の誰も知らぬものに相違そういない。


まことに……」

「はい」

「真に、お前は、空へ昇ってしまうのか」

「……」


 彼女の元に通うようになってからもう長い時間が経つ。それこそ、彼女との間に断ち切れぬほだしが生まれてしまうほどに。それは感情であり、時間であり、生命でもある。


 それなのに彼女は、にわかに言った。


 私は、月の遥かの空よりやってきたのです。人並みになったならば戻って来いという、約束なのです。


「なあ、お前はそれでよいのか」

「よい、悪いではないのです。そうですね、言うなればこれは、さだめなのです」

「しかし……」

「安心してください。牽牛けんぎゅう織女しょくじょためしもあるでしょう。たとえこの身は昇るとも、私は必ずあなたを忘れはしません」

「……」

「信じられませぬか?」

詮方せんかたないことだろう。たとえお前がそうであっても、いったい何の証があるのか」


 愚かな言葉だったかもしれない。私はお前を信じ切れていないのだと言うようなものなのだから。


「……わかりました。それならば、こうしましょう」

 すると彼女は長い髪の毛をぷつりと抜いて、しとねに置いた。それらは色を変え、集まり、やがて青、黄、赤、白、黒の糸になった。

「これは」

「あなたと私をつなぐ糸だとお思いください。これを持っている限り、私は必ずあなたに会いにゆきます。世々よよとも、七月ふみつき七日なぬか牽牛けんぎゅう織女しょくじょが逢うその日に」

「……」


 その糸を私は束ねて、星月夜ほしづきよから部屋に差し込む月光げっこうかざした。


「あなたを憎んで、嫌って、この世を去るのではないのです。それは、どうか……どうか信じてほしいのです」


 彼女は綺麗なその瞳から、一滴の紅涙こうるいをこぼした。褥に赤い染みが浮かんでいる。彼女の思いに嘘はないのだと、私は確信した。


「それなら、私はこの花を」

 庭に生えたつばきの枝を手折って、私は手渡した。彼女はあでやかに笑んだ。


 彼女の冷ややかな手を握り、顔を見ぬまま瞳を閉じる。

 瞳の裏の暗闇、彼女の玉のように綺麗な声が、ひとつ古歌をなぞった。


 ― 世々よよとも 絶えむものかは 七夕に 麻ひく糸の ながきちぎりは


 七夕に手向たむける五色の麻糸が長いように、牽牛織女の長い契りは、幾星霜いくせいそうを経ても絶えはしないでしょう。


 その歌は、まるで私たちの未来を示すようなものに思えた。







 目を開くと、夜は去ってしまっていた。空に有明ありあけの月が浮かんでいる。白いその月を見上げる私の心地は、他の男のそれとは似て非なるものだった。


 彼女はもうそこにはいなかった。ただしとねに、五色の糸があるだけだ。

 私はそれを束ねて、紙に包んだ。


「ちちうえー」

 まだ歳ふたつの息子がこちらにかけよってきた。慌てたように乳母めのとが入ってくる。

元丸もとまる

御屋形おやかた様、申し訳ございません。元丸様、御父上の迷惑ですよ」

「よいよい」

 頭を撫でると、彼は部屋を見回して小首を傾げた。

「ちちうえ、ははうえはいらっしゃらないのですか?」

「……」

「ちちうえ?」

「母上は、お伊勢いせ参りに行ったのだよ」

「はーさようですか」

「さあ、今日も学問に励みなさい。和泉殿、頼んだぞ」

「はい、御屋形様」

 乳母に連れられて、元丸は私の部屋を出て行った。



 紙に包んだ糸を唐櫃からびつに仕舞い、中庭に出る。あの子を忘れ形見に、一年を過ごす事が、彼女をしの唯一ゆいいつか。


 目にも耳にもさやかに見えぬ初秋、これより来る、うら悲しい季節も耐えてみせようと、私は溜息を吐いた。



 

――――――――――

作者より

これは序章です。

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