第3話 『若作りの店主』
ナイフとフォークが止まらない。
ありあわせだという料理は、白身魚のムニエルに、鶏肉を揚げたものに、豚肉を煮込んだ料理に……。
ええぃ、知るか!
考えるよりも先に手を動かせ、そして口を動かして咀嚼するのが先だ。
男は、熱々の料理を口が火傷しそうになるのも顧みずに、次々と味わい続ける。
喉が乾いてきたので、爽やかなレモンの香りがする水を口にすると、口内が冷やされて、また熱々の料理が頬張れる。
この水がビールであればと当初は思ったが、違った。これでいい。
ビールで腹を膨らましてしまっては、この絶品の料理達を食べる量が減ってしまうのだから。
「美味い。美味いぞ! 店主! この店の料理はどれもが絶品だ!」
男は店主の向かいのカウンター席で、しばらく無言で貪るように食べ続けていたが、少し腹が満たされてきたことで冷静さを取り戻し、料理の味を絶賛する。
「お口にあったようで何よりです。私としても、今日は予約してくれていた人数よりもひとり少なかったので、余った材料を無駄なく使うことが出来てありがたい限りです」
女主人はそう言って、男に微笑みを向けてくる。
年の頃は二十歳前後だろうか? それにしては素晴らしく料理が美味い。こんな場末の店でこれほどの美味を味わえるとは思っていなかった男は、この出会いを神に感謝する。
「店主。この店は、普段は予約専門の店なのだろうか?」
男は、誰も客の居ない店内を一瞥し、年若い店主に尋ねる。
「あっ、いえ。もう店を初めて数年になりますが、私の商売が下手で、決まったお客様しか、まだいらして頂けないもので」
「それは本当なのか? これほどの美味を提供できる店は、いくらこのナイムの街でもそうあるものではないと思うのだが……」
男は、店主の女が言うことがにわかには信じられなかった。
「店主。俺の名はラーゼンという。『食い道楽のラーゼン』と仲間内で呼ばれているくらい、美味いものを食べる事に目がない。だが、そんな美味いものを食べ漁っている俺からしても、ここの店の料理は素晴らしい。格別だ。
これほどの店が埋もれてしまっているのは、この街、いや、この国の損失だ。もっと大々的に、いや、そこまでいかなくても、新聞の広告記事などでもいいから、宣伝をした方がいいと思うのだが……」
男――ラーゼンの言葉に、店主は「ありがとうございます」と言って微笑んだが、その表情は悲しげだ。
「申し遅れました。私はバルネアと申します。ラーゼンさんのご提案はとても素晴らしいと思うのですが、生憎と私一人が何とか食べていくのがやっとの状況ですので、そのような余裕はありません。この店も、週末に開くのがやっとで、それ以外の日は、よそのお店で日雇いで使って頂いているんですよ」
バルネアと名乗った店主は、苦笑し、恥ずかしそうに頬を掻く。
まだ若いと言うのに、このバルネアという女性はかなり苦労しているようだ、とラーゼンは思い、顎に手をやる。それは、彼がものを考える時の癖なのだ。
「それに、私は今でも幸せなんです。週末だけですが、夫が残してくれたお店で料理を振る舞うことが出来て、それを美味しいと言って食べてくださる人がいるんですから」
バルネアは本当に嬉しそうに微笑むが、ラーゼンは納得がいかない。
「そうか、旦那さんは亡くなられているのか」
「ええ。あっ、すみません。私ったら。歳の近い人とお話する機会が少ないものですから、つい余計なことを」
そんな事を気にすることはないとラーゼンは言おうとしたのだが、今の会話におかしな点があったことに気づき、首をかしげる。
「いや、俺はこう見えても二十八なんだが……」
「あら、それは失礼をいたしました。落ち着いた雰囲気なので、てっきり私よりも歳上なのかと思ってしまいました」
「……んっ? いや、ちょっと待ってくれ」
会話が微妙に、だが決定的にズレている。
「その、店主。貴女はどう見ても私より年下にしか見えないのだが……」
「ふふっ。もう、そんなにおだてても、もう一品サービスすることくらいしか出来ませんよ」
バルネアは嬉しそうに微笑むと、豚の内臓の煮込み料理を出してくれた。
「そうか。そうなのか……。信じられんが、この料理の完成度は、確かにある程度の年季の入った料理人でなければ難しそうだ」
ラーゼンは半信半疑だったが、差し出された煮込み料理を口に運び、その旨さに言葉を失う。
「これは、ずるいだろう。腹が膨らんで来たところに、こんな美味い料理を出してくるなんて。最初からこれを出してくれれば、何杯でも……。
いや、違うな。先に出してくれた料理があってこその充足感なのだろうな、この煮込み料理の味をここまで深く感じられるのは……」
ラーゼンは大衆食堂ではあまり見られない、コース料理と同じ満足感をこの雑多と思える料理の構成に感じて、その巧みさに唸る。
「店主。立ち入ったことを尋ねるが、貴女は大きな料理店でコース料理を作っていた経験もあるのだろうか?」
「はい。とはいっても、若い頃の話ですが」
このうら若い女性の姿をした料理人の口から、若い頃と言われることにはやはり違和感を覚えるが、ラーゼンは話を続ける。
「その、大衆食堂で提供されるような料理以外も、貴女は作れると判断してよろしいのだろうか? そうであれば、貴女の腕を見込んで、一つ相談したいことがあるのだが……」
「はい。どのようなご相談でしょうか?」
ラーゼンの突然の提案にも、バルネアは動じない。
それは卓越した料理技術に裏打ちされた自信の表れであるとラーゼンは考える。
「無理だと思ったのなら断って貰って構わない」
ラーゼンはそう前置きをして、腰の財布から、大銀貨を三枚取り出し、それをテーブルの上に置いた。
「これは料理に対する支度金だ。これを使って、来月に迫った私と私の妻の結婚記念日の料理を作って欲しい。無論、料金は別に支払う。どうだろうか? この要望に応えてくれるだろうか?」
ラーゼンの出した支度金は、それだけでこのナイムの街の一般家庭の一月半の収入に等しい。決して、大衆食堂の料理人に依頼する内容ではない。
「お受けする前に、いくつか確認したいことがございますので、お金はそれからで結構です」
しかし、バルネアはにっこり微笑む。
それに加え、金をひとまず仕舞って欲しいと口にした事に、ラーゼンはバルネアに抱いていた好印象を更に強めた。
金に目がくらんで、分不相応の仕事をするような人間ではやはりないようだ。
「何を確認したいのだ?」
先程から、つい口調が普段のそれになってしまっていることにラーゼンは気がついていたが、庶民ではおいそれと出せない大金を軽く提示した後だ。今更取り繕うつもりはない。
「食事を終えてからで結構ですので、結婚記念日の日取りと、ラーゼンさんと奥さんの好みをいくつかお教え下さい。それと、どうしても食べられない食材があれば、それもお答え頂けますか?」
バルネアは物怖じせずに尋ねてくる。
こちらが庶民ではないということは分かっているはずだが、それで態度を変えないのも好印象だとラーゼンは思う。
「ああ、助かる。私と違い、妻は少々偏食家なのでな」
今日の目的は、久しぶりに熱々の料理を食べることに加え、結婚記念日を何処の店にするかの下見だったのだが、まさかそれが一度に解決するとは思わなかった。
正直、こんな本通りから外れたところにある、繁盛もしていない大衆食堂の主人に料理を頼む事に不安がないとは言えない。
だが、ワクワクするのだ。
そう思わせる料理技術と人柄が、このバルネアと言う料理人にはあるとラーゼンは判断した。
バルネアとの打ち合わせを終えて、支度金を渡し、それとは別に食べた料理の代金を支払うと、ラーゼンはバルネアに、
「当日を楽しみにしている」
と世辞でもなんでもなく自分の気持ちを伝えた。
そして満面の笑みで「お任せ下さい」と答えるバルネアの姿に、ラーゼンは最高の結婚記念日を確信するのだった。
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