つまらないけれど

エリー.ファー

つまらないけれど

 私は、この場所で田中を名乗ることにする。

 よくある苗字であるし、きっと誰も疑わないだろう。

 私のことを知らない人しかいないのだから、誰にも迷惑をかけることはない。

 嘘ではない。ばれないのだから。

 傷つけてはいない。きっと、信用されることもないのだから。

 計画をたてて生きていく気はない。

 だから。

 だから、私の悪ふざけを神も許してくれるに違いない。

 神に会ったことはないが、神と仲良くなれる自信だけはある。

 何故だろうか。分からない。分からないが、妙な自信。

 父親も母親もどちらかというと、ネガティブな人だった。

 私に似ていない。

 いや、私が似ていないのか。

 とにかく。

 私は田中になった。誰の意思でもなく。私が私のことを決めたのだ。鈴木でもよかったが、田中にした。意味はない。

 近くに湖があって、そこで釣りをしている双子がいた。話しかけようかと思ったがやめた。

 私はなるべく傷つかないように行動しようと決めた。決して、うまくいくことばかりではないことを知っていたし、そのことを真正面から受け止める気にもなれなかったのである。

 釣りを一緒にやってみたいと思ったのは事実だ。でも、私の手に釣りの道具はなかったし、釣りがそこまで魅力的に思えなかったのも事実だ。前のめりではなかったのである。

 ドミノ倒しであれば、前のめりになれたのだろうか。買い物だったら、前のめりになれたのだろうか。

 私は、少しだけ自分のことを嫌いになった。

 好きになるための要素は、そこかしこに溢れていて、嫌いになることはとても新鮮だった。


 田中とは、なんなのだろう。

 どこにでもいる存在で、きっと哲学などないのだ。

 忘れられるくらいがちょうどよい。

 しかし。

 本当に忘れられてしまったら悲しいのだ。目立ちたがり屋の引っ込み思案というのは、いつだって時間と勝負をしている。

 透明な瓶の中に閉じ込められた思考と状況は、田中からほど遠くそして空しいものばかりである。

 緊急着陸するような心持を凍えてしまわぬように抱えているはずが、気が付けば田中。

 これで、二度三度、繰り返して名乗る田中。

 水滴をとりきると、私も知らないような田中が出現する。不思議なものである。田中らしいものであるとは分かっていたはずなのに。

 田中でなくともよかったかもしれない。そう、鈴木とか。

 名乗らせればよかった。

 一度だけ、他の誰かに聞かせてしまえばよかった。


 釣りを繰り返す。

 誰に勧められたわけでもない。しかし、気が付けば竿を握っている。

 さようなら。

 別れの歌を聞かせておくれ。

 時間がないから一人で死のう。

 田中でも、鈴木でもない私だからできる裏技。

 これは人生か。

 人生に近い何かなのか。

 田中と鈴木の中間で私を名乗るのはそこまで難しいことではない。きっと渦巻く混沌の果てに見える作り出された時間なのだ。

 はす向かいでなければ、この問題に取り組む暇もなかっただろう。

 さようなら。鈴木よ、田中よ。

 これは誰の目にも触れることなく消える戦についての説明である。

 しかし。

 誰の心にも残らないことは明白なのである。それがまた悲しくて悲しくて。

 これもまた、いずれ誰かに話さねばならない。

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