第29話 名残の雨 -5
起きた時から降り続く弱い雨に眉を寄せる。秋も深まったこの時期、雨が降るごとに寒さが増していく。午後には神奈川の家に帰るから、今日は
雨なんて珍しくない。でも朝起きて雨に気付いて、あの何もない森で紅が一人で濡れているのを想像して、いてもたってもいられなくなった。
森の中で傘をさすのは難しかった。傘があちこちの木に引っ掛かる。初めのうちは傾けてやり過ごしていたが、やがて面倒くさくなって止めた。諦めて傘を閉じる。ここでは枝葉に遮られて雨の降り方が均等ではない。枝の先の大きな水滴がちょうど後ろの襟首に落ちて、ひぃと声にならない悲鳴を上げた。
下草の水滴でジーンズの裾は早々に濡れている。これは祖父母の家に戻る頃にはびしょ濡れだ。風邪をひくかもしれない。昨日、紅が早く帰れと言ってくれたのに台無しだ。
もみじに近づくと、木の傍にいた紅がこちらを見た。俺に気付いて、目を見開く。
「今日は来ないと思っていたぞ?」
駆け寄って来た紅が言う。濡れた髪が頬に張りつき、着物も水を含んで色が濃くなっている。歩くたびに前髪からぽたぽたと落ちる雫が寒そうで、手を伸ばして紅の前髪を掻き上げる。触れた肌は冷たい。俺が眉を寄せたのを紅は不思議そうに見る。
「
ぐいぐいと俺の腕を引いて紅はもみじの木の下に移動した。密集した葉に雨が遮られ、まだ辛うじて乾いている。濡れている、と表現された俺以上に、紅の方がよっぽど濡れている。俺はまだ雫が垂れるほどではない。
「紅のがびしょ濡れじゃないか。寒くないの?」
「私は平気だ。人とは違うのを知っているだろう? それより、青こそ何で来た。この雨と寒さは人の体には毒だろう?」
「え、いや、えーと」
問われても返す言葉は持っていない。だって俺は紅が雨に濡れても平気だと知っていたはずだ。理由を探してみても見つからない。
「紅に会いたかったから、とか?」
口から零れた言葉は明らかに可笑しい。でもこれが一番今の俺の状況に近い。紅は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「そうだな。私も青に会いたかった。けれど、もう帰れ。震えているぞ。それ、寒いからだろう?」
言われて、指先が震えているのに気付く。自覚したら急に寒さが増した。
「森の出口まで送る」
紅が俺の手を取って歩き出す。冷え切った俺の手と同じくらい冷たい手だ。体温を分け合えないのが少しだけ寂しい。来たばかりの道を戻りながら溜め息をつく。結局紅に心配を掛けただけだ。
振り返ると、黄色い葉の隙間にまだ見事な紅色が見える。立ち止まるとそれに気付いた紅が俺を見た。
「なあ、紅。来年また来るよ」
「今日みたいな無理は、するな」
「うん、だから今度は夏に来る。星座を覚えてくるからまた一緒に星を見よう」
痛みを耐えるように紅の目が細められる。そういえば一昨日も同じような顔をした。
「どうかしたのか?」
「何が?」
尋ねると、逆に問い返された。穏やかに笑う紅にはもう先ほどの影は見えない。すぐ顔に出る紅が笑っているのなら、あの表情はやはり気のせいか。
繋いでいない方の紅の手が俺の頬に伸びる。その動きを目で追っていると紅がふと表情を消した。
「青。キスしても良いか?」
頬に触れた手は冷たい。温度を感じるという事は、俺の方が体温が高い。
「人は温かいな」
嬉しそうに紅が笑う。
「なぁ、駄目か?」
黙ったままの俺を紅がまっすぐに見つめる。その真剣な瞳にはぐらかす言葉が出てこない。紅のそれは「恋愛感情ではない」と、頭から否定するのは違う気がした。
「いいよ」
寒さでかじかむ口からは掠れた声が出た。目を閉じると、唇に柔らかいものが触れる。やはり冷たい感触に身震いする。
「行くぞ、青」
すぐに離れた紅に、手がぐいと引かれた。紅は先ほどの表情は嘘のようにいつも通りだ。引っ張られるまま下草を踏みしめる。すぐに着いた森の出口に少し残念な気がした。
「ほら、早く帰れ」
正面には民家の壁に挟まれた小道が続く。細い雨はまだ降り続いている。
「青、本当に病気になるぞ?」
歩き出さない俺に、紅が心配そうに眉を寄せる。
「手、」
「手?」
呟いた俺の声を紅が繰り返す。繋いだままの手に二人分の視線が集まる。紅が手を放さないから、俺も振りほどく事はしなかった。
「あ、ああ、そっか。悪いな」
慌てて放そうとした紅の手をぎゅっと握る。やはり紅の様子が可笑しい。
紅は俺と出会ったことで孤独を覚えてしまった。帰れば家族がいて学校に行けば友達が居る俺とは違う。日々の生活に追われて紅の事を時々しか思い出さなかった自分とは。紅は俺の身を案じて帰れというが、きっとその中に色々な気持ちを隠している。
いっその事連れて帰れればいいのに。神社になら根付くだろう。ただ、紅ほどの大きな木を根ごと持って帰るなど、ただの高校生が出来る事では無い。結局、次の約束をする他は思いつかなかった。空いている手でもう片方の紅の手を捕まえて向かい合う。
「紅、絶対また来るから」
まっすぐに目を見て言うと、紅は一瞬泣きそうに顔を歪めた。でもすぐに微笑む。
「ああ、さよならだ」
「じゃあ、またな」
名残惜しいけれど、紅の別れの言葉に手を放す。歩き出すと、紅は手を振って見送ってくれた。
慌ただしい毎日に、あっという間に時は過ぎた。何よりも、去年の俺は自分が今年受験生だという事をすっかり忘れていた。高校三年の夏休みにふらふら遊んでいる暇などない。でも紅との約束を破るわけにはいかない。
将来はわからないけれど、少なくとも今は神社を継ぎたくない俺は、大学に入るため勉強中だ。昼過ぎに祖父母の家についたその足で、じいちゃん、ばあちゃんへの挨拶もそこそこに、参考書を一冊抱えて家を出た。紅のところで勉強するとは思えないが、なんとなく持っていた方が気が休まる。
いつもと変わらない住宅と田んぼに挟まれた道を進む。青々した稲が風が通るとさわさわと波のように奥へ奥へと揺れる。まるで風が目に見えるようだ。澄み切った空には入道雲が浮かび、まさに『夏』というような爽快感がある。
でも相変わらず暑い。じりじりと肌を焼く日差しを参考書で遮る。喉が渇いて自動販売機の前で立ち止まった。炭酸を一気に流しこみたい。だけど、紅は炭酸が苦手だ。結局見たことも無いパッケージのスポーツ飲料を買った。
住宅の隙間の小道で、ほんの少し低くなった温度に一息つく。何度か道なりに曲がり、森の入口へと辿り着く。しかしそこだけはいつもと違っていた。入り口が閉鎖されている。ロープ一本の簡易なものだが、そこに括りつけられた板には『立ち入り禁止』の文字が印字されていた。
嫌な、予感しかしない。
ロープを跨いで森へと入る。木々は相変わらず気合いを感じる力強さで緑の葉を伸ばしている。さくさくと下草を踏みながら進むと、直ぐに視界が開けた。端から端まで歩くと十分はかかるこの森が、すぐに、消えた。トンネルを抜けると雪国だった、という小説があったなと場違いに思う。
目の前には、なにも無い。木が切り倒され、土の地面が覗く。見通しの良くなった向こう側に、民家の壁が見えた。工事用の車両が二台止まっている。ようやく停滞していた脳が状況を理解して、冷水を浴びたように背筋が凍った。
紅のもみじの木があったと思われる辺りを見たが、そこには掘り返された地面が覗くだけだ。まだ僅かに残っている森に戻り、もみじを探す。もしかしたら残っているかもしれない。そんな薄い期待を抱いたものの、やはりもみじの木は見つからなかった。
残った森をもう一度端から端まで歩いて、その場に膝をついた。そもそも紅がいるならもう俺に気付いているだろう。紅が出てこないのがもうここには居ない証拠だ。湿った土からじわりと膝に水分が染みる。草の臭いがやけに鼻についた。
力の抜けた足を叱咤して立ち上がる。転んで、体を支えた掌に傷がついた。そのまま、家へと帰る。いそいそと遊びに出た俺が、すぐに帰ってきた事、なによりも相当酷い顔をしていたんだろう。弟とアイスを食べていた母さんが驚いた顔をして立ち上がった。
「ごめん、ちょっと具合悪いから寝る」
そう断って部屋へと向かう。その前に一度振り返った。
「ここからコンビニに行くまでに、脇道に入ると森があったよね。あそこ工事してたけど、何?」
「え、ああ、あそこはショッピングモールになるって聞いたわよ。それより、本当に大丈夫? 熱中症じゃないの?」
「平気。ほら、飲み物も持ってるし」
さっき買ったスポーツドリンクを見せる。寝るから静かにしてて、と言いおいて部屋を出た。
一人になって畳の上に横になる。参考書を放り投げた。表紙と中の紙がぐしゃりと折れる。きっと後で悔やむだろう。でも今は拾い直す気にはならない。
「紅」
呼んだ名は蝉の声に負けて部屋に消えた。どうして気付かなかったのか。去年の夏から今日までに、何度もこうなる事を知る機会はあった。この春からショッピングモールの建設がはじまる事だって俺は知っていた。ただ、それがあの場所だということに少しも思い至らなかった。
秋、最後に紅に会った日を思い出す。弱い雨の日だった。珍しく大人しい紅を不思議に思った記憶がある。紅は、俺の頬に手を触れ、キスをして、それから「さよなら」と言った。俺はまたここへ来る、と言ったのに、紅はまた来いとは言わなかった。
紅は去年の夏以降、人間が何度か森に来たと言っていた。おそらく工事の業者だ。俺だと思って人が来るたび見に行っていたようだから、その人達の話を聞く機会もあったはずだ。多分、あの時には紅は全てを知っていた。
それに気付いて、森に入った時と同じように一瞬で体が冷えた。室温は高い。暑いはずなのに、寒い。紅は何を思って日々消えていく森を見ていたのだろう。夏から秋の間、一日一日俺が来るのを待っていたように、一日一日自分が消える日をカウントしていたのか。不快さに喉の奥が詰まる。胸に溜まる空気を押し出すように口を開けた。
「馬鹿やろ」
どうして何も言わなかった。知っていたなら何か出来たかもしれない。嘘をつくのが下手な癖に必死で隠して。でもその下手くそなポーカーフェイスの裏に全く気付かなかった俺はもっと大馬鹿だ。ヒントはいくつもあった。あの時紅を問い詰めていれば何か変わっただろうか。でも、時間は戻らない。紅がいないという事実は変わらない。
泣きたい、はずなのに乾いたままの目から涙は出てこない。ただただ胸の内にどろどろと何かが溜まっている。体は重くて畳についた背中に鉛が入っているようだ。ぼんやりと天井を見つめる。
俺は生まれて初めて本当の、後悔、をしている。あの時こうしていれば、なんて考えても意味はない。そう思うのに、何度も何度も頭の中で繰り返す。息が苦しくて、気持ちが悪い。
「紅、」
何か言いたいのに続く言葉は出てこない。たまらなくなって両手で目を覆う。意味も無く叫びたかったけれど、下唇を噛んで耐えた。誰かが来ても今の自分を説明する言葉は持っていない。切れた唇から口内に広がった血の味に苛立ちが増す。
本当に連れて帰れば良かった。一人では無理なら、父さんでも母さんでも知る人全てに声を掛けて、もみじの木を一緒に掘ってもらえば良かった。たとえ現実的に不可能でも、せめてそう紅に伝えれば良かった。
キスして抱きしめて有るだけの親愛の情を示して、紅に一緒に行こうって言えば良かった。それが恋愛か友愛か今の俺には分からないけれど、そんなのは後で考えればいい。紅が好きなのは本当だ。
どうしたらよかっただろう
キンと鼻の奥が痛い。けれど涙は出てこなかった。全てが、もう遅い。
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