第9話 留学生の秘密 -3

 土曜日の昼下がり、ベッドで漫画を読んでいたあおいはスマホのバイブに顔を上げた。ディスプレイには「マリナ」の文字が表示されている。まさか連絡があるとは思わなかった。どうしたものか、と考えている間にもスマホは震え続けている。仕方なく通話を押した。


「もしもし」

「あ、青さん、今どこですか?」

「どこって、家だけど」


唐突だが、既に家の場所は知られているし、嘘をつく意味も無い。素直に答えると、マリナは、境内にいますから来てください、と弾んだ声で言って勝手に通話を切った。

 一瞬頭が白くなったがどうやらマリナは既に神社にいるらしい。無視をすればさらに面倒が大きくなる。ひとつ息を吐いて青は立ちあがった。


 境内に入ると、マリナと一姫の姿が見えた。一姫は何処か不穏な表情だ。しかしそんな一姫を気にした風も無く、マリナは青を見て手を振った。満面の笑みで手を振られ、迷った末、青もとりあえず手を上げる。


「なんなんだ、急に」


近づいて問いかけると、マリナが意味ありげに青を見た。


「私、決めました」


何を、と問う前に、マリナが青の右手を持ち上げて両手で包み込んだ。青より僅かに冷たい体温が伝わってくる。


「私、青さんを誘惑しまぁす」

「はぁ、」


あまりにも急な話に思考が追い付かず、ぼんやりした声が出る。隣で一姫が溜め息をついた。


「……って、はぁ?」


ようやく脳みそに意味が染みて、今度は驚いた声が出る。


「どういうわけか、青さんには私の魔力が効きませぇん」

「魔力……って、男を操るっていう?」


そうです、と頷くマリナは思いのほか真剣な顔をしている。つられて青も息を飲んだ。


「サキュバスのプライドにかけて、私の虜にならない男がいてはならないです。夢中にならないなら、夢中にさせまぁす」


ひどく楽しそうなマリナに言葉が出ない。代わりに一姫が口を挟んだ。


「おい、調子に乗るなよ小娘」

「調子になんてのっていません、真面目でぇす」


 文字通り真面目な顔で返されて、一姫が肩を落とす。その様に一姫が何かを諦めてしまったのを青はひしひしと感じた。でもここは頑張ってもらわないと自分の身が危うい。青が何か言おうと口を開きかけたところで、マリナに先を越された。


「貴方、青さんの恋人ですか?」

「「は?」」


一姫と青、二人の声が重なる。


「馬鹿を言え、何故わらわがアオなんぞと恋仲にならんといかんのだ」


一姫は心の底から、ありえないわぁ、と思っているのを体中で表現している。青も一姫と恋人なんてごめんだが、そこまでして否定されると少し傷つく。それはこっちの台詞だこの野郎、と返したくなったが、言ってしまえば二次災害が起きるのは確実だ。どうにか心のうちに留めたが口の端が引きつったのは見逃してもらいたい。


「恋人ではないなら、私が青さんを誘惑しても問題無いでしょう。私がムカつくのは青さんが好きだからではないですか?」

「だから、違うと言っている。お前がアオの精気を吸おうとしているのを知って黙って見ていられるか」

「平気でぇす、青さんの精気は吸いません。約束しまぁす」


マリナが、それなら問題ないですね、と嬉しそうに言う。


「日本の言葉にも、ありました。ええと、人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて死んでしまうんですよね?」


にこにこと笑うマリナに、一姫がふっと小さく息を吐く。そしてマリナに負けないくらいに、にっこりと良い笑顔を浮かべた。青は嫌な予感に身を震わせる。


「うん、頑張れ、アオ」


やっぱり飽きやがった!

訊くまでもなく、面倒臭くなったらしい一姫が、青にいい加減な言葉を放る。


「おい、ひ、」


青が皆まで言い切る前にさっと一姫の姿が消える。残されたのは笑顔のマリナと、顔を引きつらせた青だけだ。


「これで、問題無いですね」

「いや、有る。っていうか、無理だから」

「何故ですか? そんなに私のこと嫌いですかぁ?」


 マリナがしゅんと項垂れる。人では無いとはいえ女の子だ。さすがにそんな顔をさせてしまったと思うと罪悪感がある。あー、とかうー、とか意味のない言葉でおろおろしていると、マリナの瞳にだんだんと水気が増してきた。


「あ、ああ、き、嫌いじゃない。嫌いじゃないけど」


先日のやり取りで、意外に悪い奴ではないと思ったのも事実で、本心嫌いではない。しかし口説かれるのも困る。が、嫌いでは無いだけに泣かれるのはもっと困る。混乱する青に、マリナがぱっと顔を上げた。


「嫌いでないなら、大丈夫でぇす! 私、頑張ります!」


頑張らなくていい迷惑だ、なんて声に出してしまえば今度こそ泣いてしまうだろう。どうにか諦めさせるソフトな言い方を探していると、マリナが嬉しそうに微笑んだ。


「これから、よろしくお願いしますね、青さん」


ぺこり、とご丁寧にお辞儀までされてしまい、そもそも恋愛の駆け引きに疎い青に、気のきいた言い回しなど出来るはずもない。ましてこんなに嬉しそうに笑われてしまっては否定も出来ない。我ながら情けないとは思うが、拒否出来ない代わりに肯定もしない事でせめてもの抵抗をする。

 ますます騒がしくなりそうな自分の身の上に、青は心の中でひっそりと涙を流した。


「ごめんな、誠二」


とりあえず今出来る事は、春が来なかった誠二に何か奢る事くらいだ。

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