第7話 留学生の秘密 -1
次の講義への隙間の時間、
「
「んー、コーヒーと炭酸。気持ちはコーヒーなんだけど、量が飲みたいから炭酸とどっちにしようかなっと」
「飲みたい方にしとけ、ってことでコーヒー」
「ん、」
返事ともつかない返事をして青がカフェオレのボタンを押す。ガタンと鈍い音がした。
「涌永って、わりと大雑把な癖に、ほんとどうでもいい事で真剣に悩むよね」
缶を取り出すために屈んだ青を、呆れたように見下ろしているのは友人の
「どうでもよくないから悩んでんだよ」
「でも俺に言われるとあっさりそっちに決めるよね。つまりどっちでもいいんだろ?」
「どっちでもいいからどっちか選べないんだってば。だから、神名に決めてもらえて感謝してます」
気の抜けた笑みを向ける青に、明がひとつ溜息を落とす。青がプルタブに指を掛けたところでまた声が掛った。
「あ、ちょうどいいとこに。青、と明」
二人を下の名前で呼ぶ人間は学内にそう多くはない。振り返ると
「なぁ、来週の金曜日暇? 明も金曜はバイトないだろ?」
「金曜の夜なら平気だけど、何?」
誠二の言葉に明が応じる。
「合コンの予定があんだけど、来ない?」
「ふーん、どこで?」
「まだ決めてないけど、多分横浜」
「そう、なら行く」
あっさりと返事をした明に、サンキュ、と短く返して誠二の視線が青に向く。その時、後ろから声が掛った。
「ごめん、自販使っても良いかな?」
自動販売機の前で話しこんでいた三人に、青年がひとり声を掛けて来た。場所を塞ぐ三人に苛立つ様子もなく、振り返った誠二と目が合うとにっこりと笑う。
「あ、すみません」
慌てて三人は移動した。そそくさと食堂の外へと出たところで、誠二が振り返る。開け放したドアから自動販売機が見える。先ほどの青年の姿はもう無かった。
「さっきの人って薬学部の
「そうだね」
感想を述べる誠二に明が応じる。青年と面識のない青はひとつ瞬きをした。
「今の人、知り合い?」
「知り合いっていうか、有名。つーか青、本当に元杉さん知らないの?」
確認するように誠二が青の瞳を覗きこむ。そう言われて考えてみてもやはり思い当たらない。
「本当に、青って噂の類に疎いよな」
首を横に振ると、呆れたように誠二が言った。今日は良くそういう顔をされる日だ。さすがに少しムッとして、悪かったな、と返すと明が緩く笑った。
「まあ、そこが涌永のいいところでしょ」
「そうだな、悪い悪い」
明のフォローに、誠二はさして反省していなさそうに応じる。怒るよりも噂の内容が気になって、青は誠二に話の続きを促した。
「あの人は我が横浜国際大学の男の憧れ、稀代の遊び人、人呼んで『浜のカサノヴァ』だ!」
「誰が言ったの、その『浜のカサノヴァ』って。聞いた事無いよ」
盛り上がる誠二に、明が無表情で言った。その温度差を気にする風もなく、誠二は変わらず楽しそうだ。
「オレ。この前たまたまネットで知ったんだ。そのカサノヴァって人、ベネチア生まれの作家で生涯で千人の女とベッドを共にしたんだってさ。辞書にも女たらしって載ってるらしいぜ」
「そんなことだと思った。涌永に嘘を教えないでくれる?」
先ほど青に向けられたものとは比べ物にならない呆れた視線と、身震いするような冷たい空気が突き刺さる。しかし誠二は憶した様子も無くへらりと笑った。誠二のすごいところは空気を読めないわけではなく、読んでも気にしないところだ。明が疲れた溜息をつく。
「カサノヴァは冗談にしても、あの人が遊び人で有名なのは本当。三か月に一度は彼女が変わるとか、二股掛けてるとか噂は色々あるぜ」
他にも、と誠二が今まで見聞きした噂を並べる。確かに「遊び人」の称号に相応しい話の数々だ。
「やっぱイケメンは違うよな。羨ましい!」
「はぁ、すごいな、それ。でもなんか疲れそう。楽しいのかな?」
青が呟くと、誠二が明後日の方を向いて力説する。
「当たり前だろ! 百人斬りは男の夢だぞ!」
「川上が、わりと顔は良いのにモテないのはそういうところだと思うよ」
無情な明の突っ込みに、誠二のテンションが目に見えて落ちる。
「う、女の子に興味あるのは健全な証拠だ……」
誠二が言い訳がましく呟いたのをあっさりと無視して、明が言う。
「俺は、噂ほど酷い人ではないと思うけどね、あの人」
青と、誠二、二人の視線が明に集まる。
「一回、坂下教授の部屋で元杉さんと話した事あるけど、感じ良い人だったよ。少なくとも川上よりはよっぽど誠実そうだった」
「オレよりは、って酷くね? つーか、明も元杉さんにたらされちゃってるんじゃないか。やっぱすごいなあの人。この冷酷な明君をこうも簡単に落としちゃうとは」
うんうん、と何かに納得している誠二に明の溜息が落ちる。
「俺が冷たいのは、川上にだけだよ」
きっぱりと断言されて、何事にもめげない誠二もさすがにほんの少し寂しそうだった。
時刻は夜の11時を回ったところだ。それでも横浜駅周辺はまだ人で溢れている。ネオンが煌々と灯る雑踏の中、青と明は女子三人と話す誠二を後ろで見ていた。駅へと向かう人々が道端で留まる一団を迷惑そうに避けて通る。青が邪魔にならないように道の脇へと寄ると、同じように明が歩いてきた。その後ろでは誠二の前の女の子の一人が、わかりやすく明を目で追っている。飲みの最中もしきりに明に話し掛けていた。彼女は明狙いだろう。
「神名は連絡先聞かなくていいの?」
青が明に問いかける。
「そういう涌永は聞かなくていいの?」
質問に、まったく同じ問いを返され、青は少し考えてから首を振った。飲み会はそれなりに楽しかった。けれど、いかにも誠二が好みそうな少し派手なタイプの女子大生達は、正直青は得意ではない。自分が地味な方だと自覚する青は、どうにも華々しい女の子たちには気後れしてしまう。
「俺はいいや」
短く答えた青に明が視線を向ける。
「俺もいい。そもそも彼女とかに使う金無いし」
「ああ」
言葉裏に「なるほど」という含みを持った相槌を返す。明は月曜から木曜の夜と土曜の昼は定食屋、土曜の夜はバーでアルバイトをしている。大学の近くで一人暮らしの明は生活費をそのアルバイトで賄っているのだ。
明の家庭は少し複雑だ。十九歳で明を産んだ母親と、母親が実父と離婚した後、明が十歳の時に母親と再婚した義理の父親、その義父との間に生まれた歳の離れた妹がいる。その新しい家族と上手くいっていないのかと思えばそうではなく、母親と義理の父親と妹の三人に家族水入らずで過ごしてほしい、というのが明の一人暮らしの理由だ。
だから実家から大学まで一時間というそう遠くはない距離で一人暮らしをしている自分の生活費は自分で稼いでいる、というのが明に聞いたいきさつだ。血の繋がらない父親との関係は良好で、仕送りをするように言ってくれているのを断っているらしい。
青は家に帰れば食事が出て、アルバイトで稼ぐのは自分が遊ぶお金だけ、という身の上が、明を見ていると少しだけ恥ずかしくなる。ただ明の自立した姿を尊敬する反面、少し頑なであるとも思う。義父との関係が良好であるのならもっと甘えても良いと思うのだ。血が繋がっていなくても明も家族の一員なのだから。
ときおり連日の授業とアルバイトに疲れているのか、青白い顔で講義中に眠る明を見ると心配になる。だが、そんなに時間が無いはずなのに、明の方が青より成績が良いのは謎だ。
「マリナちゃんが二人の連絡先も知りたいってさ~」
酒の所為、だけではなく浮かれた誠二が二人の前にやってくる。隣には先ほどまで一緒に飲んでいた女子大生がいた。ゆるく波立つ長い金の髪に、深い緑色の瞳。背が高く、完璧と表現してもさしさわりのない見事なプロポーションは海外の女優のようだ。彼女は大学を期に日本に留学したという。はじめは戸惑ったが日本語が上手で会話に難はなかった。
「せっかくお会いしたからお友達になりましょ。私、日本で友達百人目指してまぁす」
時々イントネーションと発音が独特なですます調は親しみがわく。目が合うたびに口角を上げて笑うところも好印象だ。
明がスマホを取り出す。青も少し悩んだが、特に断る理由も無いためスマホを出した。それぞれの連絡先を教え合う。その日は、そこで解散になった。
女の子たちを見送って、男性陣だけになった後に誠二が言った。
「マリナちゃん、マジ美人だよな。顔綺麗だし、胸おっきいし、細いし~」
語尾にハートがたくさん付きそうな浮かれた調子だ。お前らもそう思うだろう、という期待に満ちた目で二人を見つめる。
「え、ああ、うんまぁ、美人だった」
「なんだよ、青。その曖昧な返事」
不満そうに口を尖らせる誠二に、そんなことない、と弁解するように青は笑う。今日来た三人の中で、確かにマリナはずば抜けて美形だった。それは青も認める。ただでさえ女の子が好きな誠二がこれほど浮かれるのも分かる。
ただ、何か違うのだ。自分でも上手く表現は出来ないが、どこか手放しで受け入れられない違和感がある。そのため連絡先を教えるのも戸惑った。しかし明もあっさり彼女に教えていたから、警戒しているのは自分だけのようだ。青は、気のせいだと思うことにして軽く息をついた。
「本当に綺麗な子だったよね」
青とは対照的に、はっきりした明の同意に嬉しそうに誠二が頷く。
「な、そーだよな! この手厳しいロリコンな明君にまで認められるなんてさすがマリナちゃんだよな。ほら、青。明でさえキレイって言ってるぞ」
「川上、それどーゆー意味?」
急激に冷えた明の視線が誠二へ向く。ぴしり、と場の空気が凍る音を青は聞いたような気がした。誠二は気付いた様子は無い。いや、気付いていない振り、かもしれないが。青から見ると、時々誠二はわざと明を怒らせているように見える。
「だって明、シスコンだろ」
「そこは否定しないけど。けど、妹にはあくまで純粋な家族愛だから。子供に如何わしい感情を抱いてる訳じゃない。人聞きの悪い事言わないでくれる」
「シスコンは否定しないんだね、明君」
「それは事実だから仕方ない」
あっさり肯定した明に、誠二がつまらなそうに口を尖らせる。
「あー、明も青もほんと可愛い弟妹がいていいよな。オレなんて女王様なねーちゃんと可愛くない弟しかいないってのに」
「誠二って双子なんだろ? すごい見たい」
青の言葉に明が同意する。ますます誠二がふてくされた。
「絶対ヤダ。オレとそっくりなくせにあいつのがモテるんだよ。顔は同じなのに不公平だ。弟のくせに」
ぶつぶつと不満を並べる誠二に、青と明は顔を見合わせる。その二人を見咎めて、誠二がまた口を尖らせた。
「お前らは、可愛い弟妹で心が満たされてるから彼女がいなくてもそんな余裕でいられるんだ。俺には愛が足りないんだよ。愛が。だれかオレにも愛をくれ! マリナちゃーん!」
夜空に向かって演説をはじめた誠二に明が深い溜息をつく。さてどうしたものか、と青が誠二を見ていると、肘のあたりが引っ張られた。
「帰るよ」
一言、そう言い置いて、明が駅へ向かって歩き出す。明の背中と、いまだ夜空と対話している誠二を見比べて、青も駅へ向かって歩き出した。
「お前らも、オレに愛が足りない!」
背後で叫ばれた言葉に、明がうるさいなぁ、と呟いたのが聞こえる。その声は本当に迷惑そうだ。けれど、明は誠二を邪険に扱う割には、次に会う時には何もなかったように話し掛けてくる誠二と普通に会話をするのだ。それがなんとなく可笑しくて、青は気付かれないように小さく笑った。
本日の講義が全て終わり、さて帰ろうか、と廊下を歩いている時だった。青は、向かいから歩いてくる見知った顔に歩みを止めた。短い髪と、青は絶対に着ないようなピンク色のシャツがジャケットから覗いているのは川上誠二だ。
「誠二」
声を掛けても、返事はない。もう一度大きな声で呼びかけると、ようやく誠二が顔を上げた。
「ああ、青、ひさしぶり」
学部の違う誠二とは、そう頻繁に顔を合わせる訳ではない。最後に会ったのは、あの合コンをした日だ。
「久しぶり、って誠二、もしかして体調悪い?」
どちらかといえば鈍い青は、人の顔色などそう気にした事はない。そんな青でさえ心配になるほどに、今の誠二の顔色は悪い。
「あ? そうかな。別になんてことないけど。そんなことより青、オレ、この前マリナちゃんとデートしたんだ。とうとう春の予感かな~」
「そーなんだ。上手くいくと良いな」
今にも倒れそうなのにテンションは高い。なんとも不思議な誠二に青はとりあえず応援する。マリナからは合コンの翌日に「また遊びましょう」と連絡が来たきりだったのですっかり忘れていた。そういえば彼女に感じた違和感を思い出す。
「なあ、マリナちゃんと会ってどうだった?」
「どうって?」
「あ、いや……」
まさか、マリナを気に入っている本人に、彼女はどこか可笑しくないか、とは訊けない。言葉を探して口籠ると、誠二が何を勘違いしたのか晴れやかな笑みを浮かべた。
「やっぱり、お前羨ましいんだろ。マリナちゃん美人だしな! でも、譲んねぇよ!」
「あ、そうそう。綺麗な子と一緒で羨ましいなぁって」
あはは、と空々しい笑みを浮かべる青に気付いた様子は無く、誠二は嬉しそうだ。
「上手くいったら、マリナちゃんにお前にも女の子紹介してもらえるよう頼んどくな。と、オレちょっと崎原教授に用あるんだ。じゃーな」
そう言い残して、誠二は青の背中をバンバン叩いて去っていく。教授の部屋に行くのに足取りは軽い。顔色が悪いのは心配だが、このテンションの高さでは問題はないだろう。後ろ姿を見送って、青も家に帰るべく歩きだした。
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