心恋し我が人生

ちくわノート

 私は人生史上最大の難問に直面していた。当然、数学や物理などの単純な問題ではない。更に複雑怪奇、進退両難の命題なのだ。こう綴ると数学や物理の偉い教授方に怒られるかもしれないが、私にとってはそれほど由々しき事態だということを分かって欲しい。

 私は彼女を一目見た時に、私の世界は一瞬にして色づき、今まで生きてきた世界が非常に退屈なものだったということに気づいた。彼女が笑うと大輪が咲いたように周囲が華やかになり、彼女の姿を見るだけで私の心臓は私の体を突き破ろうとせんが如く暴れだした。

 そう、恋をしたのだ。

 その事に気がつくと私は古本屋に駆け、恋の関連書籍を買い漁った。書籍を大量に抱えたことで、前が見えず、ふらふらと歩いていたところに、我が親愛なる悪友の立花に出会ったことは一生の不覚であった。

 

 恋・・・・・・異性に愛情を寄せること、その心。恋愛。

 

 三日三晩、恋について調べ尽くし、考え抜いたがさっぱり分からなかった。私の頭の中は四六時中、恋という単語と彼女の笑顔がぐるぐる回り続けていた。

 しかし、このまま何もせずにいる私ではない。私の優秀な脳細胞を総動員させ、彼女とお近付きになる方法をどうにか編み出した。この時の私はさながらフェルマーやファラデーにでもなった様な気分であった。計画を完成させた次の日に、寝不足が祟って試験で過去最低点を獲得したのはまた別の話である。

 私はこの計画をさっそく実行しようとしたのだが、一抹の不安が私の胸をよぎった。なにせ、私は恋愛というものを生まれて初めて経験をしているのだが、これは決して失敗は許されぬ任務なのだ。我が完璧なる計画が通用しない可能性も考慮せねばなるまい。そうして私は悩んだ結果、敢え無く我が友、立花に相談することを決断したのだった。

 この男、立花はいかにも軽薄で、普段から何も考えていないような間抜け面をしているが、色恋沙汰にはほぼ必ずこの男が絡んでいると言っても過言ではない。まさに恋愛のプロフェッショナルなのである。

 私が彼に恋愛の相談をしたい、と持ちかけた時には彼はぱっと顔を輝かせ、そうかそうか、とうとうお前が等とよくわからないことを言いながら意気揚々と承諾してくれたのだが、私が完璧なる計画を説明し終える頃には顔をしかめて頭を抱えてしまっていた。

 話をするために喫茶店に来ていたのだが、頼んだ熱々のコーヒーは手がつけられることはなく、すっかり冷めてしまった。彼は何も言わず、コーヒーに砂糖をどばどばと入れると、一気に飲み干した。

「どうだ? 我ながらなかなかの出来だと思うのだが」

「簡単に言えば彼女が悪漢に襲われているところをお前が颯爽と駆けつけ、悪漢を撃退、晴れて彼女と結ばれるってことか」

 彼ははぁー、と大きくため息をついた。

 私の計画に感嘆しているのか、それともこの計画にまだ僅かな穴があったのか彼の表情からは読み取れない。

「いつ彼女が襲われる?」

「いずれ」

「なんで彼女が襲われる?」

「なんでも」

「そもそもお前が悪漢を撃退できるほど腕っ節が強いとは思えないのだけれど」

「今から鍛えるさ」

 彼は目頭を抑えながら一言「却下」と言った。

 私は予期せぬ答えに動揺して飲んでいたコーヒーを噴き出した。

「何故だ! どこが悪かった?」

「全部だ。お前が考えるとろくな事にならん。俺がプランを考える」

 立花はコーヒー塗れになった顔をおしぼりで拭きながらプランとやらを説明し始めた。

 私は憮然として彼の計画を聞いていたのだが、成程、聞けば聞くほどなかなか素晴らしい計画である。

 私はその計画を実行することに決めて帰路に着いたのだが、途中にある古本屋の前で立ち止まった。そうして、少し悩んでから『ゼロから始めるボクシング入門』という本を買って帰った。


 ○


 書き忘れていたが私は一介の学生である。そして、意中の彼女は私の同級生なので、会うには全く困らない。

 私は計画実行日、朝から計画のシミュレーションを行っていた。

 彼女の前でさりげなく財布を落とし、彼女がそれに気がついて、「財布落としたよ」と財布を拾って私に手渡す。すると私は「拾ってくれたお礼をしたいから今度お茶でも行かない?」というのだ。一連の流れは昼夜を問わず、何十回、何百回と練習した。もとより失敗などありはしない。

 しかしながら、彼女はなかなか一人になることはなく、結局、彼女が一人になったのは放課後のことであった。私は待ちくたびれて睡魔に襲われていたが、彼女が一人になった瞬間、睡魔を滅多打ちにし、追い払った。

 彼女が立ち上がったのを確認すると、私は今だ、と敢然に立ち上がった。そうして私は胸をむんと張り、彼女を追い抜かすと、さりげなくぽろっと財布を落とすことに成功した。

 ふむ、ここまでは順調である。さてここからどうするのだったか。そうか、台詞だ。あの台詞を言わなくてはならない。

 私はくるりと彼女に向き直り、口を開いた。

「お、お、お詫びに! わ、私、お茶でございます!」

 彼女は私と床に落ちている私の財布を交互に見てから、愛くるしいまん丸な目をぱちぱちとさせ、首を傾げた。

 私は初めてみる至近距離の彼女に幸福と緊張と不安となにやらよく分からない感情がごちゃ混ぜになりながら返事を待った。

 しかし、彼女はどうやら困惑をしているらしい。

 はて、いったいどうしたのか、と考えていると私の視界は一気に真っ暗になり、意識が途切れた。


 ○


 気がつくと私は医務室で横になっていた。そして、見覚えのある顔が私に心配の声をかけた。立花である。

 どうやら立花は一連の流れを見守っていたらしい。そして聞くところによると私は緊張しすぎるあまり、息を吸うのを忘れて酸欠になったというのだ。

 なんと、情けないことだろう。

 そして、その醜態を彼女にみられていた事実に気がつき、私は自分の顔が熱くなるのを感じた。

「ああ、なんということだ。彼女に幻滅されたに違いない。私は明日からどうやって生きていけばいいのか」

 私は自暴自棄になり、医務室の窓から飛び降りようとしたが「よせ。ここは一階だぞ」という立花の静止で私は踏みとどまった。ならば、と私は屋上へ向かおうとしたが立花に羽交い締めにされてしまった。

「ほうっておいてくれ!私はもう絶望してしまったのだ! 生きる希望を失ってしまったのだ!」

「馬鹿をいうな、彼女は気絶したくらいでおまえを嫌うような女なのか!」

「そんなことあるはずもない。ただ私は自分の情けなさに絶望したのだ」

 などと、もみくちゃになっていると突然医務室の扉が開いた。

「あ、よかった。目が覚めたんだ」

 彼女の声を聞き、私は再び気絶しそうになった。


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