十三番目の賢者

綾里悠

序章 記憶のない少女

記憶のない少女 #1

 ……オオ、オオォォーーンン!!……


 夜の静寂を引き裂いて、地を揺らすような咆哮が辺りに響き渡った。


 その獣の声を聞いた瞬間、サラは、反射的にバッと体に掛けていた毛布を跳ね飛ばして、ベッドから起き上がっていた。



 サラは小柄な少女だった。


 見た目の年齢はようやく十三、四歳といった所で、女性と呼ぶにはまだあまりにも未成熟な体つきだった。

 身長は150cmにも満たない。華奢な手足にも、薄い胸や細い腰の回りにも、女性特有の柔らかな脂肪はほとんど見られなかった。


 しかし、そんな幼さの残る体つきながら、見た者が思わずハッと息を飲む程に美しい容姿をしていた。

 首の後ろで簡素に三つ編みにまとめた長い髪は、日に透けるとキラキラと輝くまばゆい金色だった。肌は新雪を思わせる透けるような白さで、頰にはバラ色の血潮が息づき、未だ紅を引いた事のない唇は淡い桜色をしていた。

 人形のように愛らしく整った顔立ちの中でも、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳は、特に印象的だった。南海の海の水を掬ったかの如き鮮やかで明るい水色。その美しさは、見る者に宝石を彷彿とさせた。


 サラは、そんな、可憐で儚げな、触れれば今にも壊れてしまいそうなガラス細工の繊細さを感じさせる美少女だった。



 サラは、裸足のままパタパタと窓に駆け寄ると、開け放たれていた窓から、獣の咆哮の聞こえた方角を見た。

 山間の僅か五十戸ばかりの小さな村の北の端に火の手が上がっている様が、半月の月明かりに見て取れた。

 その炎が生み出す赤い光の中に、巨大な黒い影が蠢き、辺りには村の人々が逃げ惑っている。


 そんな小さな村の明らかな非常事態である光景をジッと見つめるサラの目には……

 一欠けらの恐怖もなかった。


 サラは、グッと拳を突き上げ、ピョンと窓から離れた。そして、ベッドのそばの棚の上に置かれていた二振りの剣をベルトと共に掴み取り、そのままバンとドアを開けて、部屋の外へと飛び出していった。


「ようやく出たな、魔獣! よーし、やっるぞー!」



「あっと、いけない! 靴、靴!……あっ! 服、服!」


 魔獣の姿を見て勢い良く部屋を飛び出した筈のサラだったが、何度か忘れ物をして、バタバタ階段を登ったり降りたりしていた。


「……サラちゃん。本当に行くのかい?」


 そんなサラに声を掛けたのは、その家のお婆さんだった。

 サラがこの村を訪れてから魔獣が出るのを待っていた三日間、宿屋などない小さな村で空いている部屋を滞在用に貸してくれていた人だった。

 息子夫婦が町に出ていってしまい、夫にも何年も前に先立たれて、一人暮らしをしているとの事だった。そのため、サラを孫のように思って、食事や寝床などいろいろと世話をしてくれていた。


「うん! お婆さんは危ないから絶対外に出ちゃダメだよ!」


 サラは、心配そうな目でこちらを見ている腰の曲がった老婆に元気に答えた。トントンと、つま先で床を叩いてブーツを足に押し込み、剣を収めたベルトの上に、バサリとコートを羽織る。


「私が必ず、あの魔獣を倒してみせるよー! そしたら、お婆さんも、安心して暮らせるようになるよね!」

「……だ、大丈夫なのかい、サラちゃん?」

「大丈夫、大丈夫ー! 」


 サラは、バン! と家のドアを開けながら、顔だけ老婆に振り向いてニッコリと笑った。


「だって、私ってば、『世界最強の美少女剣士』だもんねー!」


 そして、サラは、何のためらいもなく、魔獣の出現で騒然とする屋外へと駆け出していった。

 が、すぐに、バタバタと戻ってきて、逆方向へと駆け抜けていった。


「方向間違ったー! こっちだったー!」


 ちなみに、サラの言った『世界最強の美少女剣士』というのは、当然の事だが、単なる「自称」である。



「うわぁー、おっきいなぁ! こんなおっきい魔獣は、初めて見るかもー!」


 火の手の上がっている方向に走っていくに連れて、村を襲っている魔獣の姿が次第にはっきりと見えてきた。

 どうやら村の北の端にある家と納屋が、全長10mはゆうにある巨大な魔獣に襲われて、半壊し炎上している様子だった。その炎で夜空は赤く染まり、辺りにはみるみる煙と物の焼ける臭いが立ち込めてくる。


 その朱に染まった夜空を背景に、漆黒の巨大な獣の影が蠢いていた。

 それは、家の屋根に届く程の大きな体や、闇を思わせる真っ黒な毛並みと鮮血のように赤い目、そして、刃物のごとく長く伸びた爪と牙をのぞいては、普通の狼と同じ姿形をしていた。


「狼の魔獣、かあ! 強そうだなぁ!」


 サラは、山間の小さな土地に肩を寄せあうようにして木造の家が並ぶ村の中を、一陣の風のように駆け抜けていった。



 魔獣。

 そう呼ばれる異常な生物がこの世界に現れはじめたのは、サラの聞いた話によると、もうずっと昔の事らしい。

 人々は、そんな、普通の生態系から逸脱し、人間社会に脅威をもたらす異質な存在に、長く悩まされてきた。

 しかし、その実態は、未だほとんど明らかになっていなかった。

 ある者は、それは古代魔法文明が生み出した生物兵器の名残だと言った。またある者は、光の女神に背きこの世界を滅ぼそうとする悪しき存在なのだと言った。

 そのどちらが正しいのか、あるいはどちらも正しくないのか、サラには分からなかった。おそらく、この世界の大半の人間がサラと同じ認識だったろう。

 それでも、魔獣は、いつの間にか、どこからか、生まれ、人々の前に現れて、家畜や農作物、または人間そのものを狙って、容赦なく襲いかかってくるのだった。



 サラは、まだあまりこの世界の事を知らなかった。

 ただ、旅を続けていく中で、行く先々で人々が語った内容から、大まかな歴史は把握していた。



 かつて、この世界には、高度に発展した文明が存在したらしい。

 そこには、今とは異なる力があった。魔力を使用した魔法によって、世界の何もかもが動いていた。

 現代の人々はそれを、「古代魔法文明」と呼んでいる。

 しかし、そんな、魔法により著しい発展を遂げた文明は、ある時、突如として崩壊した。

 「世界大崩壊」と呼ばれる災厄が起こり、世界は、古代魔法文明ごと、消滅寸前の所までいってしまった。


 世界大崩壊が起こった原因は、今も分かっていない。なにしろ、その時世界のほとんどが滅びてしまったので、真実を知る手がかりが残っていないのだ。

 古代魔法文明の都市間における戦争があったという説もある。光の女神を信仰する宗教においては、神々の怒りに触れて裁きが下ったと教えられている。


 結局、理由は不明であるが、世界はかつて一度滅びかけ、そして、後少しで全てが消え去るという寸前で、なんとか崩壊をまぬがれたらしい。

 しかし、その世界大崩壊により、それまで隆盛を極めていた古代魔法文明は滅亡してしまった。

 そして、新しい世界……今の世界に現れた人間は、完全に魔法の力を失っていた。

 人類は新たに、手を動かして物を作り、足であちこちを歩きまわり、自分の肉体の力でもって、新しく一から生活を始めた。

 「魔法の時代」に代わる「力の時代」の到来である。

 そうして、長き年月が流れ、未だ古代魔法文明には遠く及ばないものの、新しい人類は、世界各地に様々な国や文化を発展させてきたのだった。



 今は、新暦2997年。世界大崩壊から、もうすぐ三千年が経とうとしていた。

 その三千年という節目との因果関係は不明だが、現在、世界各地で魔獣の出現と被害が急増していた。



 巨大な狼型の魔獣は、納屋を壊し、そこに居た家畜の牛を襲って食べていた。

 隣接する家屋も、魔獣の巨体で破壊され、そこから火災が発生したようだった。



 小さな村の貧しい農家にとっては、労働力である牛や馬、食料を生み出す鶏などは、大変貴重な存在だ。そんな家畜を狙って、もう何度も、狼型の魔獣は村にやって来ていた。

 幸い、まだ人間に被害は出ていなかったが、小さな村の家畜が食い尽くされれば、いずれ人間にも危険が及んでくる。

 村の人々は、早急に魔獣を何とかしなければと慌てた。

 しかし、山奥の小さな村には、当然ながら、魔獣を倒す力はなかった。

 領主に陳情して兵を派遣してもらうのが最善策だったが、領主の館のある場所まで何日もかかる上に、領主がこんな山間の小村のために無償で兵士を送ってくれる可能性は低かった。

 とりあえず、使者は送ったものの、なしのつぶてで一向に返事のないままに、魔獣は何度も村を襲い、家畜を殺して食べてゆく。

 人間に被害が及ぶまでもなく、これ以上大事な家畜を食べられては、貧しい村人達の生活は成り立たなくなってしまう。


 そんな、皆が途方に暮れている所に、フラリとどこからか村にやって来たのが、サラだった。

 サラは村人達から事情を聞いて、即座に言った。


「私がその魔獣を倒すよ!」


 村人達は、半信半疑ながらも、今は藁にもすがる気持ちで、この自称「旅の剣士」であるところのサラに、魔獣の退治を頼む事にした。

 そうして、サラが村に滞在して、三日目の夜、くだんの魔獣がついに姿を現したのだった。



 サラが駆けつけていくと、魔獣に襲われている家の周りには、既に村の自警団の姿があった。

 自警団は、この小村において掻き集められた若い男達で成り立っていた。

 手に手に、薪割り用の斧や畑仕事用のカマやクワといった、武器というには頼りない、日々の生活で使用している器具を構えて、魔獣が家畜の牛を貪っている納屋を遠巻きに取り囲んでいる。

 魔獣と戦うのではなく、その動向を警戒して様子をうかがうのが、彼らに出来る精一杯だった。



 その時、サラの耳に女性の叫びが飛び込んできた。

 魔獣を中心とした自警団の円陣のとある箇所で、騒ぎが起こっている。

 見ると、赤ん坊を抱いた一人の女性が、魔獣に近づこうとしているのを、自警団の男達が必死に止めていた。


「坊やが! 私の坊やが!」


 女性が夢中で腕を伸ばす先に視線を動かすと、ちょうど自警団の円陣と魔獣との中間地点付近に、地面にペタリと座り込んで泣きじゃくっている、三、四歳ぐらいの小さな男の子の姿があった。

 どうやら母親とはぐれて逃げ遅れてしまったらしい。恐怖と混乱でその場にへたりこんだまま、ワンワン泣き続けていた。


「これ以上近づくな! 魔獣に襲われるぞ!」

「でも、私の坊やが! 誰か、誰か坊やを助けて!」


 自警団の男達も子供を助けたいのはやまやまなのだろうが、魔獣に気づかれて自分まで襲われてはかなわない。二次被害を恐れて、誰もその場を動こうとしなかった。


 と、子供の母親らしい女性と自警団の男達がもみ合っている内に、納屋に居た牛を食べ尽くした魔獣が、騒ぎに気づいたのか、グルリとこちらと振り返った。

 血のような真っ赤な目が、5m程先にポツンと座り込んでいる男の子を捉える。

 魔獣は、小さな家程の大きさもある巨体をブルルと震わせると、巨大な前足を振り上げて、子供に近づこうという動きを見せた。

 母親は甲高い悲鳴をあげ、自警団の男達は辛そうに顔を歪めた。


「どいてー!」


 サラはとっさに、円陣を作っている男達を押しのけて、皆の前に飛び出していた。

 そのまま、一分のためらいも見せず、一直線に地を駆けて子供に向かう。

 魔獣も、それに気づいて、子供に近づくスピードを上げた。ズシン、ズシンと、黒い足が地面を踏みしめ、そして、最後の一振りは、子供の真上に振りかざされた。

 まさに子供が魔獣の足に踏み潰されようという時、サラは、その隙間に滑り込みながら、ガシッと両手で子供を抱え込んでいた。

 そのまま通り抜け、子供を胸にしっかりと守って抱いたまま、二回、三回と横に転がったのち、スタッと起き上がる。

 サラが地面を蹴って大きく後方に飛び離れた瞬間、先程まで居た場所に、魔獣の追撃が、土をえぐる勢いで振り下ろされていた。


「はい! もうはぐれちゃダメだよ!」


 サラは、疾風のように走って戻ってくると、しっかりと胸に抱きかかえていた男の子を母親に渡した。


 そんなサラを、せっかくの獲物を取られたのが癇に障ったのか、魔獣がズシンズシンと地面を揺らして追いかけくる。

 それを察して、サラは、辺りに居た自警団の人間を手を振るって必死に追い払った。


「逃げて! 早く! もっと離れて!」

「お、俺達も援護を……」

「要らないから! 邪魔だから! 後は私に全部任せて!」


 自警団の男達は、旅の剣士を自称しているものの、見た目はか弱い小柄な少女であるサラ一人に凶暴な魔獣を任せるのをためらっていたが、その当人のサラに言われて、赤ん坊と小さな男の子を連れた女性を守りつつ、慌てて引いていった。


「よし!」


 サラは、チラと視界の端に避難していく人達を捉えて確認したのち、迫り来る巨大な狼の魔獣に向き直った。

 バサッと着ていたコートを翻し、左の腰に提げていた剣をスラリと鞘から抜き払う。

 肩に掛かっていた金色の三つ編みをピンと指で弾いてのけると、体の前に両手で剣を構えた。


「さあ、来い、魔獣! 私が相手だよー!」


 サラの宝石のようなつぶらな水色の瞳が、強い闘志を秘めてギラリと輝いた。

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