Back Again

ワタリヅキ

Back Again


「はぁー、人間ってなんて大変なんだろうなぁ。元の姿に戻りてぇなぁ」

 そう呟いてから、ここが満員電車の中だったことを思い出す。

 時すでに遅し。隣でスマホ操作をしていた女子高生二人がこちらを見てヒソヒソ話しを始め、関わると面倒な人物だと思われたのか、周りにいた人々も心なしか距離を空けるように離れていく。

――しまった、つい声に出してしまった。それも結構な声量で。

 野生に居た時の感覚で声を出してはいけない。そして、声を出す時は内容に最も注意を払わなければならない。

 それは、人間社会に出てきて一番最初に教わった、最も重要な掟だった。常に肝に銘じていた筈なのに、日々の疲労でつい気が抜けてしまった。

 鼓動が高鳴り、冷汗が出てくる。

 額に滲んだ汗をポケットに入れていたハンカチで拭う。時刻は23時。仕事を終えアパートへ帰る電車の中だった。

 二、三度咳払いをし、なんとかその場を切り抜けようとしたが、背中には冷たい視線が向けられているような気がしてならなかった。

 人間に長い間疑いの目を向けられると、術が解けて正体がバレてしまう。そうなったら万事休す。もはやここまでか、そう思った時だった。


「あら、高橋君じゃない」


 後ろから、声が届く。

 まさかに僕に話しかけているとは思わなかったから、その声の主が僕の肩をパンっと叩くと、思わず叫び声を上げてしまった。

 電車内にいっそうの緊張感が広がったのが分かる。

「偶然ね、私のこと覚えてる?」

「えっ」

 振り向くと、そこには見たことのないスーツ姿の女性がいた。細身で髪の長い、いかにもキャリアウーマンといった外見だ。僕の知っている全ての人間を思い出してみるが、彼女の外見にも声にも、全く心当たりはなかった。

 人違いじゃないんですか、と声に出そうとした刹那、目の前の彼女が僕にしか分からないくらい小さく顔を横に振り、少し口角を上げて見せた。何も言わなくていい、と言うかのように。訳が分からなかったが、彼女のその仕草に敵意は感じられなかった。

「高橋くん、大学生の時から変わらないね。元気そうで安心した」

 そう言った彼女の声は僕に話しかけているというよりは、車内にいる他の人たちに向けて説明しているかのようだった。

 僕はどうして良いかわからず「久しぶり、ですね」とひとまず話を併せておくことにした。

 やがて、電車が次の駅に到着すると、彼女は僕の腕を掴み「ねえ、この駅前に素敵なお店があるの。ちょっと寄っていかない?」と言って僕をホームへ無理やり連れ出そうとした。

「お、おい」

 さすがに抵抗したが、彼女は「いいから、いいから」と言ってその勢いのままに僕をホームへと引っ張り出す。

 突然のことで思うように抗えず、僕はつられて電車を降りてしまった。

『扉が閉まります。ご注意ください』

 構内アナウンスが流れ、さっきまで乗っていた電車の扉が閉まる。車内の人たちが窓越しに僕らを見ていたが、やがて電車はホームからゆっくり動き出し、そしてみるみるうちに闇の中に吸い込まれていった。

 僕と、正体不明の彼女とをホームに残したまま。

 

 ***


「……あなたは、誰なんですか」

 初秋の少し冷たい空気を吸い込み、意を決して僕は彼女に問いかけた。

 彼女はさっきまで同じ口調で「ごめんね、突然のことで戸惑うよね」と、あたかも本当に幼なじみであるかのような親しげな笑みを浮かべ「あの状況から君を助けるには、こうするしかなかったんだよ」と釈明した。

「僕を、助ける?」

 状況が掴めないまま、何と返事をすればいいのか分からず狼狽えていると、「ほら、さっきの電車の中で、君は周りの人間たちから怪しまれているみたいだったから」と彼女は言った。

「怪しまれちゃいけない存在でしょ、君って」

 彼女はそっと微笑んだ。

 まるで弾丸で撃ち抜かれたかのような衝撃が全身を襲う。鼓動が高鳴り、寒気立つ。

 まさか、この女には僕の正体がバレているのか。

「一体、あなたは何者なんですか?」

 両足に力を入れ、そう訊ねる。

 すると、彼女はフッと吹き出し「何者なんですか、か。実にストレートな質問ね」と笑う。「君はもっと用心深く生きるべきよ」

 そう彼女が言った時だった。

 その瞳が、いや、彼女の全身が、俄に霞んで見えたのだった。僕と彼女との周辺が眩しく光り、白い靄に包まれたように感じる激しい目眩に襲われながらも、僕はたしかに、そうして間違いなく、彼女の本当の姿を一瞬だけ垣間見たのだ。

 きっと、時間にすれば一秒にも満たない刹那で、次の瞬間には、僕らの周りの靄は跡形もなく消え、元通りの駅のホームにいた。

 彼女は何も口にしないまま、僕を置いて唐突に改札の方へ歩き出そうとする。

「お、おい。待てよ。まだ話の途中じゃないか」

 慌てて追おうとした時、彼女は左手を宙に何度か振った。バイバイするかのように。すると彼女の姿は数十枚の葉に変わり、風と共に宵闇へ舞ってしまったのだった。

 あっと思った時にはもうその姿はなく、僕は一人夜のホームに取り残されていた。

 今のは幻だったのだろうか、いや、そうではない。僕は間違いなく彼女を見ていた。そして彼女の、本当の姿を。


  ***


 数日後。

 いつもの通勤電車で帰路についていた時、偶然にも電車の中に彼女の姿を見かけた。あの夜、突如姿を消して以来のことだった。

 彼女はやはりスーツ姿で、どうやらこちらの存在には気付いていないようだった。

 また逃げられないように、僕は出来る限り自然に彼女へ近づいて行き、彼女の肩に手を載せた。

「この間はどうも」

 僕がそう言うと、不意を突かれたように驚いてこちらを振り返った。

「あら、また会ったわね」と、動揺を隠すように明るい口調で言葉を返す。

「突然いなくなるなんて、ひどいじゃないか」と僕が抗議すると、彼女は口元を緩ませ

「あなたとの会話はあれで終わり。終わったから、私はいなくなっただけ」と返した。

「いいや、まだ話は終わってない」僕ははっきりと言った。「大事な話は、これからだろう」

 そうして、僕は元恋人の名前を口にした。

 すると、彼女の瞳に動揺の色が見えた。

 間違いない。僕は確信した。やはりあの時一瞬見えたのは幻覚ではなかった。お互い人間に化けて見た目の姿は違っているけれど、元々は同じ生き物だったということだ。

 僕は深い溜息をつき「駅前の素敵なお店」と呟いた。

「えっ」

「駅前に、素敵なお店があるって言ってただろ。まだ、紹介してもらってない」

 僕がそう言うと、彼女はそっと微笑んで「あれは、あの場をやり過ごす為の適当な口実よ」と言ったが、しばらく考えるように目線を逸らすと「でも、駅前にある素敵なお店は知ってるわ」と加えた。

「じゃあ、そこで話をしよう」僕の提案に、彼女は首を縦に振った。

 まもなく列車は次の駅に到着し、僕らはその近くにある飲食店で、おそらく多様な内容の会話をすることになる。これまでのこと、そしてこれからのこと。

「最初に声をかけてくれた時から、俺のことに気付いていたのか」

 ずっと気になっていたことを訊ねると「まさか、偶然よ」と彼女は笑って返す。

「でも、運命って、きっとそういうものでしょう」

 瞳に映る彼女の微笑みに、僕はある種の感情を抱いていることに気付いていた。どうやら、運命というのは本当にあるらしかった。

「ありがとう」

 まだ伝えていなかった言葉と共に、僕はその運命とやらに感謝していた。



Fin.

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