22曲目 ブルーメモリー②
そんなこんなで、全国大会が三日後に迫った日曜日の昼下がり。
相変わらず伊吹と翔太の仲は最悪のまま、全国大会がいよいよ間近に迫ってきている中、その日は突然やってきた。
その日、俺は部活開始の二時間前、午前十時に合わせて白仙学園に向かった。
早めにお弁当を食べて、そのまますぐ自主練をしようと思ったからだ。
ただ、バスから降りて初等部第一体育館の前に立った時。
………なにか、嫌な予感がした。
何がとはわからない。ただ、いつもと何かが確実に違う。
ざわざわする胸を抑えて、早歩きでで体育館に向かう。
その時だった。
”●●●●●●●●!!!“
激しい怒号が、体育館前の廊下まで響いてきた。
まさか、まさか!
慌てて重い扉を開くと、広い体育館の真ん中に伊吹が立っていた。
伊吹の足元には、床に尻餅をついた翔太。二人の周りには黄色と青のバレーボールが散乱している。
肩を激しく上下させた伊吹が、翔太の胸ぐらを掴んで激しく怒鳴りたてる。
“●●●●●●!!“
気持ちが昂りすぎているのか、何を言っているのか聞き取れない。
その時。心の底から身を震わすような恐怖が湧き上がってきて、僕は動けなくなった。
………これ、いつもの喧嘩じゃない。
今となっては恥ずかしい話だけど、その時、僕はようやくそう気付いたんだ。
その時まではずっと、気づけなかった。
“どうせいつものだろ、いつもの喧嘩“
僕らがそう、たかをくくってたから。全国大会出場を決めて、浮かれていたから。喧嘩?まあ、そのうち自然に収まるだろって、めんどくさく思って目を逸らし続けたから。
伊吹と翔太。
二人の関係は、とっくに壊れていた。
止めなきゃ。止めに行かなきゃ………!
どちらかが、手を出す前に………!
そう思うのに、僕の足は地面に根を張ったように動かない。
膝が震える。冷たい汗が、背中を伝う。
いつもは気軽に肩を叩ける仲間の後姿が、今は得体の知れない怪物のように思える。
喉が渇いて、掠れた息が口から漏れた。
僕がそんなふうにしてるうちに、今度は翔太が伊吹を押し倒した。
“●●●●●●!!“
いつもは冷静な翔太も、この時は声を荒げ、わけのわからない言葉を叫びながら伊吹を突き飛ばした。
伊吹も伊吹で、何度も吹っ飛ばされてもめげずに翔太につかみかかり、身長差なんて気にさせない勢いで再び翔太を押し倒す。
床を通じて、ドン、ドンという鈍い振動が僕の体に響いた。
そうしてしばらく二人が押し合いへし合いしたのち、
翔太がその、“決定的な一言“を口にした。
結果から言えば、僕はその言葉を聞き取れなかった。
ただ一つ、確かなこととして、その言葉がその次の伊吹の行動の決定打になったということ。
その言葉が翔太の口から放たれた瞬間、一度体育館から音が消えた。
伊吹の動きも、二人の激しい息づかいも。
刹那の静寂が世界を包んだ、その後。
ドパァン、という一発の破裂音がその静寂を破った。
翔太が床に倒れ込むのがスローモーションで見えた。
その際、床に置いてあったカゴの角の尖った部分に額をぶつけ、赤い飛沫が床を濡らしたのも。
何が起きたのか。
僕の頭は理解するのを拒否した。
何が起きたのか。
何が、何が。
いつかの晃の言葉が、延々と頭の中をかけめぐる。
“俺は無理だわ。普段の伊吹なら信じられるけど、狂犬の時のあいつはなにし出すかわかんねぇもん“
伊吹はただ、ぼうっと突っ立っていた。
その小さな握り拳は震えていて。
そして、床には倒れ込んだままピクリともしない翔太がいた。
彼の額の流血が、床に水溜りを広げていく。
“おい伊吹てめぇ何やってやがる!!!“
しばらくして僕の背後から聞こえた、夏弥の絶叫で僕は我に返った。
夏弥が翔太に駆け寄る。気付けば僕の横には、今にも泣きそうな顔をした晃や、険しい顔をした一輝先輩がいた。
“なに、これ………!?ねぇ優真、何が起きたの!?“
わからない。分かりたくなんてない。
監督に半分引きずられるようにしてきた伊吹がこちらにやってくる。
監督は何か怒鳴りながら、伊吹の首根っこを持っていた。
対して伊吹は、返り血で汚れたジャージの裾で一度だけ目元を拭った後、
“………しね“
僕とすれ違った時、涙に枯れた声で、そうつぶやいた。
★
翔太はそのあとすぐ病院に運ばれ、精密検査だかなんだかでしばらく部活に来れない日が続いた。
どうやらあの時、伊吹は翔太の「頭」を殴ったらしい。故意にか、事故かはわからない。そして、あの時翔太が倒れた先にカゴがあったのは運が悪かったとしか言いようがない。
けれど、幸い翔太の頭には何の損傷もなく、一週間もすれば彼は何事もなかったかのように第一体育館にいた。
ただ彼の額には「五針くらい塗った」という痛々しい傷だけが不気味に走っていた。
事件の二日後、本来ならば東京の大きな体育館でボールを追いかけていたはずの日。
僕は栃木の片田舎で、どんよりと曇った空を見上げていた。
本当なら、今頃この目には眩しいほどの白いライトが映るはずだったのに………
頭の中では、さっきの倉本先生の言葉が反芻されていた。
“やはり暴力沙汰を起こした部活を何事もなかったかのように全国大会に送り出すことはできない、というのが学園長先生の意向です。君たちの“大会に出たい“という気持ちは痛いほどわかります。けれど、起きてしまったことは変えられない“………
ほんの三週間前、歓喜に湧いた白仙学園記念ホール。
ただ今、そこに残ったのは、虚。
何もない。
何も残らない。
“そんな暗い顔するな。君たちならきっと来年も全国行けるさ“
空気最悪な四年生組に、一輝先輩は勤めて明るく振る舞った。
本当は、先輩が一番悔しいはずなのに。
今まで散々迷惑かけて、ようやく全国かと思えばそれを最悪な形で壊して、最終的にはこやって気まで遣わせて。
なんて、不甲斐ない後輩なんだ。
“先輩、すみませ………“
“来年って、先輩に来年はないじゃないですか!!“
僕の謝罪に、夏弥の言葉が重なった。
彼は拳を震わせて、目に涙を溜めていた。
そうだ、僕らの中で一番先輩に懐いていたのは夏弥だった。
一輝先輩はうーん、と考えるふりをした。
“まあ、このチームではな。でも、全国大会は中学バレーにもある。俺はそこをゆっくり目指すとするよ“
★
一輝先輩と他の後輩たち帰り、翔太もクラブチームの方の練習があるといって抜けていった後。
僕と、晃と、夏弥だけが体育館に残った。
伊吹はいない。あの日以来、彼は一度も体育館に顔を出していなかった。
夏弥が力任せにボールを床に叩きつける。
“………………許せねぇ、あいつっ………!!“
晃がきまづそうに顔を伏せる。
“今まで!散々自分勝手やって!散々周りに迷惑かけて、先輩まで悲しませて!!“
だん、だん、とボールが床に叩きつけられては床に散っていく。
夏弥のこんな表情を、僕はこの時初めて目にした。
いつもはどちらかといえば明るく、仲間思いで、こんなふうに誰かを激しく責めることも、罵ることもしない。
なにより、伊吹が先輩に嫌がらせをされたとき、真っ先に伊吹の元に走って行くのはいつも夏弥だった。
“………なにが狂犬だ、いい風に名前ついてっけど結局ただの自分勝手じゃねぇかよ。そんな奴をかばえるほど俺そんな心広くねぇ“
夏弥が吐き捨てるようにそう言ったとき、体育館の扉が大きな音をたてて開いた。
三人の目線が一気に扉へ向く。
”………あの………“
一つの人影が、恐る恐るといった感じで姿を現す。
そして僕らの姿をその瞳に捉えると、遠くからでもわかるほど顔を曇らせた。
………タイミング、最悪だ。
“………伊吹“
真っ黒な髪と、真っ黒の大きな瞳。
小さいながらもいつも堂々としている立ち姿。
何百回、何千回と目にした光景だ。
たった三日空いただけなのに、とても長い時間あっていなかったような気がしたのが不思議だった。
伊吹は体育館の入り口で、一枚の紙を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
その瞳は僕ら三人の姿を捉えて離さない。
………ああ、彼はきっと言葉を選んでる。
薄い唇を噛み締め、何から言おうか、迷っている。
謝るのか。なんて言うのか。
もし彼がそこで泣きながら大声で謝罪し、勢い余って土下座でもしてくれたなら、俺は少し怒って、そしてその三日後ぐらいに仕方なそうなフリをして彼を許そうと思っていた。
彼が意を決した様子で口を開く。
そう、そうだよ。謝ってくれ、伊吹。
お前がしたことは、決して許されることじゃない。
後で何かで埋め合わせたり、どうこうできることじゃないけど!!
完全に元には戻らないかもしれないけど………
でも、もしお前が今ここで謝ってくれるなら。心から、今の気持ちをぶつけてくれたなら。
最低でも俺だけは許してやるから………!
けれど、伊吹の口から声が飛び出す前に夏弥が言葉を重ねた。
“今更なにしにきたんだよ、凶犬“
驚いて夏弥を見る。
夏弥はさっきの苦しそうな表情の上に、薄ら笑いを浮かべていた。
初めて見る、夏弥の表情だった。
“いまさら謝罪か?みんなのショックが落ち着いた頃にのこのこ出てきてごめんなさい、それで許されるとでも思ったか?
はっ、俺ら相っ当舐められてんな“
伊吹が顔をこわばらせる。
違う、と微かに伊吹の唇が言った気がした。
でも声にならなかった言葉は伝わらない。
夏弥の中で何かが外れた瞬間だった。
夏弥は足元に転がっていたボールを乱暴に掴むと、思い切り伊吹に投げつけた。
ボールは直線を描いて体育館のドアにぶつかった。
割れるような大きな音が鳴る。伊吹がびくっと肩を震わせた。
“………ふざけんなよお前“
“………!!“
“ふざけんなって言ってんだ!伊吹、お前いい加減にしろよ!!帰れ!!二度とここに戻ってくんな!!“
そのとき、僕は直感的に思った。
ああ、壊れてしまった、って。
僕の大切な、バレーボール部が。
“………言われなくても、出て行ってやるよバカ!!“
伊吹はそう言うと、僕のとこまでツカツカと近づいてくると、握りしめていた一枚の紙を僕の胸に押し付けた。
“………優真、これ、三島先生に渡しといて“
“!?伊吹、待て!!“
ドアの奥に伊吹の後ろ姿が消える。
重い扉が、大げさな音を立ててしまった。
震える手で、しゃくしゃにされた紙を広げる。
【退部届】
その文字が滲んで見えたのは、きっと僕だけだ。
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