仕事の愚痴

タウタ

仕事の愚痴

「瑞希ー」

 すらっとした長身が店の中から出てくる。私は名前を呼んで手を振った。瑞希も手を振り、テラス席の間をゆっくり歩いてくる。モデルみたい。細身のパンツもウェストをきゅっと締めるタイプのジャケットも、瑞希だから似合うんだと思う。あんな高いヒール、子どもを産んでから……いや、産む前も履かなかったな。私には似合わない。瑞希は高校生のときから背が高くて格好よくて、私は密かに憧れていた。

「久しぶり。元気? 沙也加、そのスカートかわいい」

「そう? ありがとう」

 量販店の一九八〇円のスカートだけど、瑞希に褒められるとちょっといいものを着ている気分になる。店員さんが水とおしぼりを持ってきてくれたので、二人で春の限定パスタランチを頼んだ。デザートはクリームブリュレで、瑞希が紅茶、私がコーヒー。

 瑞希はハンドバッグからスマホを出してテーブルに置いた。そうだよね、いつ鳴るかわからないもんね。今日は途中でお開きにならないといいなぁ。

「今日、みうは?」

「旦那が見てくれてる」

「三歳だっけ」

「そう。気づいたら三歳になってた。子どもってこんなにすぐ大きくなるんだね。知らなかったよ。ちくわは元気?」

 ちくわはポメラニアン。瑞希のたった一匹の同居家族だ。瑞希は独身で両親とも離れて暮らしている。

「なんとかね。もう年だから足がちょっと動かなくなってるけど。これ、お土産」

「え、あ、ごめん。私何も持ってきてない」

「いいよ。お土産って言ったけど、消費しきれないから手伝ってほしいだけ」

 渡された紙袋はずっしり重い。中の箱にパイナップルの絵が描かれている。両親が送ってきたらしい。瑞希の両親はリタイア後に沖縄へ移住し、南国ライフを満喫していると聞いている。うらやましい。

「一人暮らしの娘にパイナップル丸ごと二個送ってくるなんて、うちの親ちょっとおかしいと思わない?」

「おかげでお裾分けしてもらったから、悪口は言えないよ。おじさんもおばさんも元気そうだね。いいなぁ、沖縄」

 私たちの世代はきっと年金はもらえないから、死ぬまで働かなきゃいけない。リタイアしてのんびり南国ライフなんて夢のまた夢だ。

「死ぬまでこの仕事続けるのかと思うと、ちょっと考えちゃうな」

 じゃあ転職するかというと、とっくに三十過ぎてるし、自慢できるようなスキルも資格もないし、難しいと思う。仮に転職できたとしても確実に給料は下がる。それなら今の会社にしがみついていた方がいい。

「仕事、つらいの?」

「ううん、違うよ」

 瑞希が心配そうな顔をするから、私は首を振った。産休も育休も取れる会社だ。育児短時間勤務の制度もあるし、業務量も調整してもらえる。上司にも同僚にも特別悪い人はいない。セクハラの話はたまに聞こえてくるけど、ニュースで見聞きするパワハラや過労死の会社に比べればものすごく恵まれていると思う。

「この間みうにね、お仕事って何? って聞かれたんだ」

 夫が休日出勤した土曜日だった。なんでパパいないの? どこに行ったの? と不思議そうに言うから、私は何気なく会社だよと答えた。みうは、自分が幼稚園に行く日はパパもママも会社に行く、と理解している。会社が仕事をする場所なのもわかっているらしい。鬼ごっこやお絵描きと同じように、「仕事」という何かがあるのも知っている。みうはずっとそこで止まっていた。初めて、一歩踏み込まれた。

「旦那の話だったから、コンピュータがちゃんと動くようにするのがお仕事だよって正直に言ったの。妙に感心した調子で、お仕事ってコンピュータなんだねぇって言ってた」

「じゃあ、みうは今、世の中の職業全部システムエンジニアだと思ってるの?」

「そうみたい。ジャムおじさんがパン屋さんなのはわかってるけど、パン屋さんとお仕事は別物だと思ってる」

 すごい細分化された世界観、と瑞希が声を立てて笑う。

「笑い事じゃないよ。今は勘違いしてるけど、すぐに仕事に種類があるのに気づくんだよ。それで、ママのお仕事は何? って聞かれるんだ。やだなぁ」

 もっとすごい仕事がよかった、なんて言うと同業者に怒られるかもしれないけど、自分の子どもに説明しやすい仕事がよかった。新卒で入社してまじめに働いて、それなりに成果も出してきた。仕事自体は嫌いじゃないし、自分に合っていると思う。でも、三歳児は私の業務を理解できるだろうか。仮にみうが理解しても、同級生が同じように理解できるとは限らない。幼稚園でしゃべってお友だちに気持ち悪がられたり、いじめられたりしたらどうしよう。同じクラスの親には学校の先生やケーキ屋さんがいる。それに比べて私のママは、とがっかりされたらどうしよう。

「胸を張って一言でズバッと言える仕事ならいいのになぁ。消防士とか」

「まったく沙也加のキャラじゃないね」

「うん、言っておいて何だけど、自分でも思った」

「聞かれたら正直に言うしかないよ。嘘つくわけにはいかないでしょ」

「でもさ、」

 私はちょっと身体を屈めて声を落とした。さすがにランチタイムのカフェで大きな声でする話ではないと思う。

「一日中、どうやって殺すか考えて、殺して殺してデータ取ってのくり返しだよ?」

 データを解析して次の殺し方を考える。いかに効率よく、いかに確実に、いかに素早く殺すか。それが私の仕事。入社以来ずっと同じ。何百何千と殺してきた。こんなに殺してるんだから、死んだらもちろん地獄行きだと思う。みうはまだ天国も地獄も知らないけれど、いつかママは地獄に落ちると気づく。それも悲しい。

「そんなの伝え方次第だよ。ママは悪い奴と戦ってるって言えばいいじゃない」

 なるほど。瑞希の意見は一理ある。確かにあいつらは悪い奴だ。純粋に、残らず死んじゃえばいいと思う。

「胸張って殺せばいいのよ。最近は多様性がなんとかって言うけど、絶対みんな死ねばいいと思ってるんだから」

「多様性ねー。あれ面倒くさいんだよね。環境がどうとか、苦しめずに殺さなきゃいけないとか」

 環境と効率はあんまり相性がよくない。一体ずつ刺し殺すわけにはいかないから、どうしても毒物に頼る。それも一体ずつ盛るわけにはいかないから、気体になる。効率はいいんだけど、影響の範囲をしぼれないのが難点だ。苦しめずに、というのも難しい。

「苦しいに決まってるよ。だって麻酔してるわけじゃないんだよ? みんなのたうち回って死んでくよ。あーあ、私のこと恨んでるんだろうなぁ」

「何それ。そんなの考えてるわけないじゃない。昔から思ってたけど、沙也加ってやっぱり面白いわ」

 瑞希がけらけら笑う。そうかな。面白いかな。友だちから面白いって言われた記憶がない。よくも悪くも私は普通の子だった。顔も体型も勉強も運動も全部普通。美人で、スタイルがよくて、勉強も運動もできた瑞希の方がよっぽど「面白い」子だったと思う。「面白い」からちょっと浮いてたけど。

「お待たせしました。ランチセットのサラダです」

 店員さんが小さなガラスボウル二つと、フォークやスプーンのかごをテーブルに置いた。お箸があってうれしい。フォークでレタス食べるの苦手なんだ。いただきます。生野菜にドレッシングをかけただけなのに、人が作っただけでおいしく感じる。

「私ももっと勉強してたら、瑞希みたいな生かす方の仕事できたかな」

「私だって殺してばっかりだよ」

 瑞希があんまりさらっと言うから、私の方が驚いた。そんな、殺すだなんて。

「え、でもそれってわりと頻繁に起こるじゃない。瑞希が殺してるんじゃないよ?」

「ああ、そっちの方はね。悲しいけどよく起こる。そうじゃなくて、意図的に殺したい人もそこそこいるって話よ。長期連休終わってしばらくしてからとか。ほどよい距離に中学と高校があるからさ」

あ、そっちの方か。瑞希によると、ほどよい距離は大事らしい。あんまり学校の近くだと同級生に目撃されるかもしれないし、遠すぎると行くのが大変だから。気持ちはわかるけど、そんな理由で何人も対応しなきゃいけない瑞希はもっと大変だ。

「話聞いて、説得して、たいていは駄目だから殺すしかないよね」

 瑞希はナイフで器用にレタスをたたんでいる。薄い生ハムが一瞬で切れる。あざやかだなぁ、とつい見てしまう。瑞希がまばたきをするたび、きれいにカールしたまつ毛がぱちぱち音を立てそうだった。

「苦しくないように、とは思うけど無理ね。苦しいに決まってるよ。だって、死ぬんだから」

 瑞希は私よりずっとずっと苦しませずに殺さなきゃいけない。私よりずっとずっと恨まれているかもしれない。

「たまにだけどさ、さくっとやっちゃってよ、みたいな奴が来るのよ。人ひとり殺すんだから、さくっといくわけないのにね」

「やだ、そんな人いるの?」

 命をなんだと思ってるんだろう、と言いかけて、やめた。何百何千殺してる私が言える台詞じゃない。でも、鎖骨の間をぐーっと押されたような嫌な感じがする。

「料金割り増しするからとにかく早く、とかね」

「お金って……割り増ししなくてもそれなりにかかるでしょ?」

「まあね。タイミングにもよるけど」

 瑞希が身体を乗り出したので、私も耳を寄せる。あ、へぇ、ふうん。思ったよりは、って値段だけど決して安くはない。一瞬、ほんの一瞬、単価が同じだったら私は大金持ちだと思った。あまりに人でなしなので口が裂けても言えない。

「変だと思うよ。生かすための仕事なのにさ」

 瑞希はレタスを三枚も四枚もナイフの先でそろえ、フォークで一突きした。低い声は息が多く混じっていて、怒っているのに泣いているみたいだった。瑞希はえらい。殺しにくくなるだけなのに、ちゃんと話を聞いて説得する。私は話も聞かないし説得もしない。機械的に殺していく。さっきの大金持ち思考に輪をかけて、自分が人でなしに思えた。

「私、ただ殺すだけだ。せめてお祈りとかしてあげた方がいいかなぁ」

「お祈り! やだ、想像したらすごい面白い! 沙也加のそういうところほんと好き!」

 瑞希が爆笑している。なんか元気になったみたいだからいいけど、ちょっと笑いすぎじゃない? 私、そんなにおかしいこと言った?

 一応、会社では年に一回供養があって、私もまじめに手を合わせている。ごめんなさい、安らかに眠ってくださいと頭の中で唱えるけれど、形だけだ。普段死ねばいいと思いながら殺してるのに、そのときだけごめんなさいなんて虫がいい。

「入社したばっかりのときは、ちょっと罪悪感もあったんだけどね。麻痺しちゃったなぁ」

 今は平然と殺せる。

「どんなに麻痺しても、瑞希と同じことはできないな。同じ命で、殺すのも同じなのに、どうしてだろう」

「同じじゃないからよ。命には重いのと軽いのがあって、軽いのはガンガン殺せちゃうわけ。命は平等なんて嘘。平等じゃないから、わざわざ平等ですって言うの」

 すごく納得した。そうだよね。命って平等じゃないよね。どうしても生かしたくて臓器を移植したり何時間も手術をしたりする命と、いらないからって屋上から飛び降りたり包丁で刺したりする命がある。それをはっきり言える瑞希はすごい。どうしても生かしたい命と、どうしても殺したい命と、両方見ているから気づくんだろう。私は殺して殺して殺してばっかりだから、わかってなかったんだ。

「どうしよう。もう、みうに命は平等だよって言えないかも」

「いや、そこは言おうよ。三歳児がいきなり命は平等じゃないって言い出したら、幼稚園の先生が困っちゃうよ」

「あっ、それはそうだね。クラスでいじめられたら大変だし」

 瑞希は空になったサラダの器にナイフとフォークを入れて、けらけら笑っている。瑞希の器にはドレッシングがたまっていて、クルトンがふやけていた。瑞希、クルトン嫌いなんだ。私は自分の器に張りついていたスライス玉ねぎを片づけた。

「今だから言うけど、ずっと沙也加がうらやましかった。思ったことすぐ言うのは私といっしょなのに、私はクラス中から白い目で見られて沙也加はみんなに好かれて、不平等だと思ってた」

「そうなの? 私は瑞希がスタイルよくて美人なの、ずっとうらやましかったよ。なんで私は顔も体もぺったんこなんだろうって思ってた」

 瑞希は笑顔のままテーブルに肘をついて、指を組んだ。ネイルもないし、指輪もしていない。つるっとしたこの手で、瑞希は命を扱う。生かしたり殺したりする。ナイフでレタスをそろえたり、クルトンだけ脇へよけたりする。そんな当たり前のことが、なんだかとても神秘的に思えた。

「ないものねだりするのは、みんな平等なのね」

「そんなところ平等でも、しょうがないのにね」

 さっきと違う店員さんが来て、サラダの器を持っていってくれた。話戻すけど、と言って瑞希は水を飲む。

「沙也加の仕事はすごいよ。ほんとに。たくさん殺してるけど、その分たくさんの人を助けてる。私も助けられてる。いつもお世話になってます。沙也加が直接関わってる製品じゃなくて悪いけど」

「こちらこそ、いつもお買い上げくださりありがとうございます。ちくわがいるから気を遣うよね。置き型も結構効くでしょ?」

「うん、おかげでしばらく見てない」

 瑞希の視線が逸れる。私の右肩を通り過ぎて後ろへ向かっている。振り返ると、二十代くらいの男女が席につこうとしていた。女の人はお腹が大きい。懐かしい。私もみうがお腹にいたときは、あんな感じだった。

「大きいな。二人入ってるかも。お母さんちょっと太り過ぎ」

 瑞希がむぅと唇を突き出す。

「職業病だねぇ」

「元気に生まれてきてほしいのよ。私の患者じゃなくても」

 ああ、瑞希はやっぱり生かす側なんだ。アスファルトにチョークで線を引いた向こうにいる。私はきっとその線を超えられない。でも、私がこっち側でがんばった結果、瑞希が言うみたいに誰かが助かってるなら、それはそれでアリだと思う。

 きゃっ、と悲鳴が上がった。女の子が二人、椅子をガタガタさせながら立ち上がる。足元を黒い楕円形が駆け抜け、道路へ出ていった。歩道ではスーツのおじさんが大袈裟に避けている。完全に主観だけど、男の人の方が虫が苦手な割合が高いと思う。

「珍しい。飲食店はだいたいチャバネだけど、あれクロだったね。ストロングGスマッシュをお勧めしたい」

 かつてない低温噴射でゴキブリの動きを鈍らせ、確実に薬剤を吸わせる新製品。ゴキブリ特有の素早さを封じることで、噴射時間の短縮に成功した。追いかけ回さなくてよくなるから、薬剤の散布範囲が狭いし量も少しで済む。お掃除かんたん。人にもペットにも環境にもやさしい。

「沙也加も職業病だよ

「なんかこう、スイッチ入るんだよね」

「殺意の?」

「うん、カチって。懐中電灯みたいに」

 私が懐中電灯のスイッチを親指で押す仕種をすると、瑞希は声を上げて笑った。愚痴も悩みも絶えないけど、なんだかんだ仕事は楽しい。

「お待たせしましたー。ほうれん草と桜エビのパスタです」


Fin.

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