父親からの言葉

 俺が凛の実家の現状を口にすると、凛は信じられないのか困惑を通り越して切れた笑いを浮かばせる。


「は、はははっ……な、なにを言っているのこーちゃん。エイプリルフールはとっくに過ぎてるよ。だとしても、その嘘は流石に冗談が過ぎるよ……そんな意地悪な嘘……」


 俺の崩さぬ真剣な表情に冗談だと苦笑いする凛の表情が暗くなる。

 凛の表情に陰りが差して、口元しか見えないぐらいに凛は顔を俯き。


「ほ……本当なの。お、お父さんが、死んだって……」


「こんな事冗談で言うはずがないだろ。去年の秋頃。死因は病死だ」


「病死……?」


「あぁ。膵臓癌だったらしい。発見した頃には手遅れだったそうだ」


 膵臓癌は癌の中で最も恐ろしい癌だと言われている。

 癌は差異無く全部が恐ろしいのだが、膵臓癌は自覚症状が乏しく、早期発見と治療も難しいと聞く。

 凛の親父さんが自覚した頃には末期、そこから衰弱は早かった。

 俺が見舞いに行った時は話すのもやっとの状態だった。


「…………そだ」


 ん、と俺が囁く様な凛の声に気づくと凛は顔を上げて。


「嘘だ……嘘だよそんなの……。信じられる訳がない!」


 凛は強くテーブルを叩くと気魄な表情で叫ぶ。


「こーちゃんだって知ってるよね私のお父さんのこと! 頑固で短気で意地っ張りで、100歳以上しぶとく生きるってぐらいに元気だった人が……。去年って事はまだお父さん56歳じゃん! そんな若くに死ぬわけないよ!」


 凛は信じがたい現状に拒絶反応を起こしているのか支離滅裂な事を叫ぶ。


「落ち着け凛。ここは防音になっているが度が過ぎた大声は隣に聞こえるぞ。それに、人は絶対に死ぬだろうが。どんなに元気だった人でも次の日絶対に生きているって保障はねえ」


 凛は唇を血が出んばかりに強く噛み自責の念に駆られた様な苦悶な表情をしている。

 凛の心境も分かる。

 相手は絶縁した親であるが、れっきとした血を分けてくれた実父だ。

 凛自身は実父に恨みはないみたいだし、自分が知らない所で亡くなっていれば心に傷は負うだろう。


 それに……俺だって信じられねえよ。あの人が死ぬなんて。


 俺は去年の事を鮮明に覚えている。

 

 凛の親父さんとは小さい頃からの付き合いだった。

 凛と関わればそれは付き合いがあるのは必然だが、よく俺達は、親父さんに怒られたりしていた。

 悪ガキだった俺達はよく悪戯をして困らせて、説教と称して拳骨もされた。

 正直、怒った凛の親父さん程怖い人は知らない。だが、怖いと同じぐらいにあの人は優しかった。


 俺が最後に親父さんに会ったのは親父さんが死ぬ1週間前だった。

 本当は早く見舞いに行きたかったが、丁度大事な仕事が重なり抜け出す訳にはいかず、仕事を終わらせて直ぐに病院に向かった。

 病室に入って親父さんの容体を見た時は本当に驚いた。


 昔は大きく見えた身体が華奢な程に細くなり、呼吸もするのも困難なのか酸素マスクも付けられている。

 心電図から心臓の鼓動と脈拍が弱いのも分かる。

 俺が病室に入るのに気づいたのか親父さんは必至に目を開け。


『康太くん……か。お見舞いに来てくれたんだね……わざわざ、すまない……』

 

 俺達が怯える程の怒鳴り声をあげていた親父さんから発したとは思えないぐらいにか細い声だった。


『すまないなんて寂しい事言わないでくださいよ。親父さんとは長い付き合いなんですから。こっちこそ今までお見舞いに来れなくてスミマセン。気分の方は良いですか?」


『は、は、は……この様を見れば分かるだろ……俺はもう駄目みたいだ……自分の身体だから分かる……もう俺は死ぬ、って……』


『そんな悲観的にならないでくださいよ。全然……元気じゃないですか……』


 あの時の俺は現実から目を背ける様な発言しか出来ず、人の死を前に目頭が熱くなった。

 人は……こんな簡単に弱くなるのかよ……と死の現実を思い知る。

 体力的に親父さんは長くは話せない。だから親父さんは率直に俺に尋ねて来た。


『なあ……康太君……。私が入院している間に……りんは帰って来たかな……』


 俺は息を呑んだ。

 親父さんと娘であり俺と幼馴染の凛は妊娠の事で大喧嘩をして絶縁している。

 その後に親父さんと凛の交流は一切無いと聞いている。

 親父さんの病気と容体を凛は知っているのかは分からない。

 本当なら、少しでも親父さんに喜んで欲しいから嘘でも帰って来てると言えばいいのだろうが、嘘を言って親父さんに希望を持たせて、「なら凛を連れて来てほしい」と言われれば親父さんを悲しませてしまう。だから俺は素直に答えるしか出来なかった。


『いえ。今日実家に戻った際に途中でお袋さんに会いましたが……帰って来てないと言ってました』


『…………そうか』


 驚く事に親父さんが浮かべた表情は悲しい表情ではなく安堵と言った微笑みだった。

 

『少し残念であるが……良かったと思う……。凛に俺のこんな弱弱しい姿を見られたくないからな……。だが、あいつがもし俺の姿を見たら清々するかもな……あいつ俺の事恨んでるだろうし……』


 親父さんは気丈に笑う。この人は昔から頑固で自分の意思を曲げない。

 それで人に恨みを買われる事もあったのか、凛が自分を恨んでいると思っている。


『……そんな事ないですよ。あいつはそんな人の弱っている姿を見て嘲笑う様な屑ではありません。多分、親父さんの病気を知らないだけで、知ったら血相変えて飛んでくるぐらい、親父さんの事を大切に思っているはずです。多分、仲直りの口実が思い浮かばなくて今まで帰って来てないだけですよ』


 俺は勝手な慰めしか言えなかった。

 俺ももう10年以上アイツと会っていないからアイツがどう思っているのか知るはずがない。

 幼馴染だからって全て分かるってわけではない。だから、あいつが裏で教師と付き合っていたなんて知るはずがなかったのだから。

 親父さんは苦笑して。


『そうだったら、いいな……。だが、俺にも責任がある……。お母さんが何度も凛を探そうと言った。だが、頑固な俺はそれをしなかった。結局、警察に捜索届すら出さなかった……』


 親父さんは弱々しく震える拳が握られた手を挙げ、俺に言う。


『なぁ……康太君。俺の頼みを聞いてはくれないだろうか……』


 真っすぐ俺の目を見据えての親父さんの頼みに俺は了承の意味を込めて親父さんの手を強く握る。


『はい。俺に出来る事ならなんでもします』


『……ありがとう。もし、もしだが……何かの巡り合わせで君が凛と会ったら伝えて欲しい———————』




 まるで昨日の様に蘇る親父さんとの最後の会話。

 

 親父さん。この再会は貴方の巡りあわせなのかもしれない。

 だから俺は言うよ。最後に貴方から託された言葉を。


 俺は俯き涙を堪える凛に親父さんの言葉を伝える。


「親父さんからのお前宛の伝言だ。よく聞いておけ、凛」


 俺の前振りに凛が顔を上げると、俺は口を開く。


「すまなかった」


「……………え」


 凛は予想外の言葉だったのか目を開く。

 だが、この言葉だけで終わるはずもなく、俺は言葉を続けた。


『俺はお前に辛い選択を強いてしまった。若かろうが子を授かれば母親だ。なのに、俺はお前に自らの子を殺す様に強要してしまった。子を守りたいのは母親としての本能なのに、俺は全く考えてやれなかった。子供が産まれても俺達がお前をサポートしてやれば子供は育てられただろう。だが、学生の内に妊娠してしまった事に俺は激情を募らせてしまい、中絶を促してしまった。すまなかった……』


「…………どうして……どうしてそんな」


 凛は自分の顔を手で覆う。

 無理やりと涙を堪えようとしているのだろうが、指の隙間から涙が零れている。


『お前がこの言葉を聞いている時には俺はこの世にはいないだろう。だが、この言葉だけは伝わって欲しい。お前が何処にいようと俺の大事な娘だ。どんな形でも良いから幸せになって欲しい。それが、俺がお前に望める最後の願い。頑固で意地っ張りな父親でごめんな。だが、俺はお前の事を一番愛している。俺の最愛の娘なんだから、凛』


 俺は自分でも驚いた。

 一年の前の親父さんの最後の言葉を一言一句覚えていた事に。

 親父さんの信念の籠った言葉が俺の記憶に深く刻み込まれていたのかもしれない。


 そして俺が親父さんから託された凛に向けての言葉を言い終えた時。

 凛は必死に堪えていた涙腺が崩壊をして、大粒の涙がポタポタとテーブルに落ちる。

 

「どうして……どうしてお父さんが謝るの……お父さんは何一つ悪くないよ……悪いのは全部、全部私なのに……ごめんなさい、ごめんなさいお父さん……。馬鹿な娘で……。お父さんともう一度会いたかったよ……!」


 親父さんの死。そして親父さんからの本心を聞いた凛は俺の前で咽び泣く。


 親父さん。俺の言った通りだろ。

 凛は親父さんを恨んじゃいない。本当は親父さんと仲直りしたかったはずだ。

 だが、貴方達は本当に親子だよ。意地っ張りな所が似ている。

 もし互いに歩み寄れば仲直り出来たのかもしれない。

 けど、それを生きている間に知れれば良かったのにな……。


 どんなに悔やんでも時は巻き戻らず、死人は蘇らない。

 俺とこいつの過去の確執は一旦忘れ。

 親父さんの死を悲嘆する凛が泣き止むまでずっと傍にいた。 


 凛は飲み放題コースの時間一杯泣き続け、最初の飲み物と食べ物の後は何も注文はしなかった。

 10分の1も元手を取り返せずに大損だったが、終わる頃には凛の涙は枯れていた。


「ごめんねこーちゃん……折角奢ってくれたのに、私の所為であんまり食べれなかったでしょ……」


「そうだな。おかげで居酒屋に行ったのに腹が空いちまって困るわ。けど、そうなるって予想していたから、別に迷惑だなんて思ってねえよ。俺も、親父さんの言葉をお前に言えて胸のしこりが落ちたみたいにスッキリしているしな」


 俺と凛は夜風を浴びながらに道を歩く。

 その道中で凛は立ちどまり、


「ねえこーちゃん。ありがとね、お父さんの死と……最後の言葉を伝えてくれて。もしこーちゃんから言われなかったら私はずっと知らないで生きていたよ」


「親父さんとの男の約束だからな。そんで。お前はどうするんだよ?」


 俺の曖昧な質問だが、凛はその質問の真意を察したのか。


「…………今度一度、実家に帰ってみようと思う。墓参りはしないとね……」


「…………そうか」


 娘が墓参りに来るなら親父さんも浮かばれるだろう。

 だが凛は自らを憫笑する様な表情をして。


「けど、お母さんからは怒られるだろうな……。門前払いされるかもしれないね。けど、もう意地を張るつもりはない。許して貰えないかもしれないけど、本気で謝ってみるよ」


 凛は言い終えると失笑して。


「けど……もっと早くにそうしておけば良かったって後悔だらけだよ……今も昔も……私は大馬鹿だよ」


 俺たちはその後歩き、交差点に差し掛かった所で凛は俺と逆方向の道を指し。


「それじゃあ、私はこっちだから。今日はご馳走様でした、古坂課長」


「自分で言っててお前にそう呼ばれると違和感あるな。夜道は気を付けて帰れよ」


 そう言って俺達は別れた。

 

 凛は家に誰かいるのだろうか……旦那さんとか。

 いや、旦那がいるなら俺の誘いに乗るわけないか。

 そもそも、あいつは自分を田邊と名乗っている……旧姓のままって事は結婚していないのか。

 

「そう言えば、親父さんが亡くなったって話ですっかり聞くのを忘れてたぜ」


 俺は親父さんの死を伝える事ともう一つ、凛に聞きたい事があったことを思い出す。


「アイツに……鈴音って娘がいるのかってよ」


 凛を追いかけてもいいが、アイツは親父さんの事で感傷に浸りたいだろうから、暫く1人にしていた方がいいだろうから。今度聞けばいいか。

 

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