天才

野宮ゆかり

天才

天才という言葉が、嫌いだ。


「あのー、主役の高槻さんでしたっけ、彼女、天才ですよ」

大会の一日目が終わり、黄昏の空模様を映す頃である。審査員の先生方の立ち話が偶然耳に入り、はっとその方を振り返ってしまった。私の姿を認めると、噂をすればとばかりに歩みを寄せてきた。

背の高い、白髪の混じったどこかの劇団の主宰と、血のように赤いブラウスを、もう五十はありそうなのにパリっと着こなす劇作家。ほんの数歩ではあったけれど、大きな鬼が向かって来るようで、私は肩をすくめて釘付けになった。

「高校生なのにあんな演技できるなんてすごいわ。貴方の才能が羨ましくなるほどよ」

「いやぁ、驚いたね。こんなところに天才が眠っているなんて。是非ともうちの劇団に…って、高校生にはまだ早いか!」

酔っぱらったかのように気分を良くして笑う二人。前触れもなく笑いは止み、彼は続けた。

「君、すごい才能だよ。磨き上げたらとんでもない光を放つんじゃないか?これからも期待しているよ、たかつきすいさん」

「わざわざありがとうございます。…あと私、漢字は翡翠の翠ですけど、『すい』じゃなくて『みどり』です」

顎をちょっと前に出す程度の会釈をして逃げるように背を向け、足早にその場を去るしかなかった。


自分の名前も読めない奴に、私を評価する権利なんてない。

あいつらは知らない。私がどうして「あんな演技」が出来るのかを。

お芝居で食べている人たちにとっては、学生演劇なんぞガキの趣味が高じた程度だと思っているのだろう。

何が「磨き上げたら」だ。

もうとっくに磨き上がってるんだよ。磨き上がってこれなんだよ。

鞄の中の、今にもばらばらに崩れそうな台本に目をやった。鉛筆の書き込みはかすれ、重なり、滲み、もう何がメモされてるのかもよく見えない。

本番の反省を、特別黒いペンで書き込む。三ヵ月を共にした冊子が、黒く、黒く、まみれていく。

今日の舞台に悔いはなかった。

ただ一つ、あの二人を酔わせてしまったことを除いて。



鈍色の雲が空に蓋をしていた。二日目の朝、会場に着くと私を待ち受けていたのは可愛い後輩たちの―――賛辞の嵐であった。

「みどり先輩昨日かっこよすぎました!!」

「さすがうちの高校が誇る天才ですね!」

「翠先輩の後を継ぐなんてプレッシャーやばいです」

にこにこと、ぬけぬけと。

この子たちは、私と一緒に稽古を受けてきたはずだ。私の稽古中の汗も、涙も、全てその目で見てきたはずだ。部活が終わって陽が落ちてからも隣の公園で自主稽古に付き合ってくれたじゃないか。私が先生にこっぴどく𠮟られてやめてしまいたいと泣いた時、励ましてくれたじゃないか。


私の苦しみを全部知ったうえで、出てくる言葉が「天才」。

笑わせないで。

気力を注いだ努力の上に、もがきあがいて必死で咲かせた華をあなたたちは「天才」という一言で。

この世で最も美しく、気高く、都合のいい一言で片づけたのよ。

他人は私の華だけを見る。ちょうど今盛りの向日葵の花に人々が見惚れ、大輪を支える土に埋もれた根には気が付きもしないように。

私の三ヵ月の根は、誰の眼にも、触れなかった。

演劇のプロにも、長い時間を共にしたはずの戦友にも。


辛うじて声がでた「そんなことないよ」の言葉と共に、なんとか柔い視線で後輩たちを見つめ返した。

この子たちは、来年私と同じ思いをするのだろうか。

その時に根の存在に気が付くのだろうか。

彼女らのはるか向こうには、夏の主役の向日葵の大輪が、こんなはずじゃなかったと涙を流していた。

やはり、向日葵に雨は似合わない。



似通った作品を5つもぶっ続けで観たので、混沌とした霧の中にいるように、夢と現実の狭間で私は漂っていた。

みんなで、つながろう。

いじめは、やめよう。

いのちを、たいせつに。

うわべだけの清らかな言葉が端正に並ぶ。

深みの無いスカスカな台詞が行き場を知らずに客席の上を漂っている作品ばかり。

演劇とは自己表現だと開会式で偉そうに述べていたあの白髪の審査員は、こういう没個性的で、「模範的な」物語を大変お気に召されたように思えた。


刹那、私の身に雷が落ちた。

今にも会場が崩れそうなエレキギターの轟音。

否応なしに現実に引き戻された私の眼に飛び込んだのは――


これは。

これは何といえばいいのだろう。


一人の少女の「影」の話だった。

いくら少女に語り掛けても見向きもされず、遂にほかの生命の影に乗り移ろうとする「影」。しかしこの世のどんなものにも影は存在しており、行き場を見失った「影」は姿を消す。少女が気が付いたころにはもう手遅れで、彼女の身体は薄れ、遂に消えてしまうという話である。


誰だ。

「影」は誰だ。


パンフレットを必死にめくり暗がりの中に目を凝らす。そこに書かれていたのは

影:藤村 紫月

の文字だった。


違う。

あれは藤村紫月じゃない。

そんな名前を持っているわけがない。


「影」そのものであった。


髪の毛のゆらめき、吐息の淀み、指先までもが影だった。

影はそこに根付き、さも命芽生えた日からそう生きてきたかのように居座り、切れ長の目からぎろっとどんな影より濃い瞳が、こちらを睨みつけた。

眼差しが突き刺さり、時が止まった。心臓がどくどくとありえない量の血を吐き出していているのが分かる。

会場全体が影に呑み込まれ、衣擦れさえ許されない神聖な空間が存在した。

暗闇の中、私は誰に伝えるでもなく、朝露が葉から零れ落ちるかのように至って自然に言葉を漏らしていた。


「天才だ」




天才という言葉が、嫌いだ。

そう思っていた。しかし私は、酔っていた。

酔っていたのは私のほうであったのだ。

大きく咲いた自分の華に見惚れていた。

他人から「天才」ともてはやされ、形式ばった謙遜をした。

「そんなことないよ」と笑いながらも、私は私に酔っていた。


自分は天才だと、信じ込んでいた。


畏れるべき存在に呼び止められたのは、それから長いような、短いような数時間が流れた後だった。

「高槻翠さんでしょ」

『みどり』と初めから読んでくれるだけで、もう十分だった。

その声は鋭く、私の心臓を突き刺す。

呼吸も忘れて振り返ると、藤村紫月は私をあの時の眼差しで制した。

声で刺され、視線で刺され、完全に気圧された。

当の本人は、私のことなど気にするそぶりも見せず、ゆっくりと口を開いた。

「あなたのお芝居、観たわ」

もういいよ。もういい。

あなたが何を言っても、過去は戻らない。

好きなだけ罵ればいい。主役とは思えないとでも、私には敵わないわねとでも言えばいい。

ありもしない架空の才能に陶酔し、自分の才能を過信して挑んだ舞台なんだから。

やり直したい。あなたのせいで、一気に悔しくなったじゃない。

もっと、自分の実力を思い知って無謀なことなどしていなければ―


「あなた、天才ね」


一瞬身が固まった。

彼女はきっと、自身のあふれんばかりの才能は承知しているのだろう。

それを踏まえてのこの言いぐさだ。

流石に私がきょとんとしたのが伝わったらしく、彼女は軽く笑った。


「お芝居の天才だと思ったんでしょ」


それは私よ、当然。と言わんばかりに、漆の髪をなびかせて彼女は妖し気に微笑んだ。言葉にしなくても、周りに纏う空気が全てを悟らせた。

そういえば、「影」も台詞がほとんどなかった。それでも今の今まで気が付かなかったのは、声にしなくたって感情が伝わってきたからだろう。その力は、きっと才能だ。

生まれ持った華だ。

それを心底妬む私の瞳を見透かし、藤村紫月はこう言った。


「あなたは努力の天才よ」


努力。

あっけないくらいに私に似合う。思わず吹き出して笑ってしまうほどだ。

審査員も、後輩も、私ですら気が付けなかった、高槻翠の根。

大いなる根の存在に、自らよりも早く気が付いたのは天才少女だった。

強く逞しく私の下に張られた根が、今にも泣き崩れそうな自分の身体を受け止め、支えている。

毎日、自室に籠ってひたすら台詞を言いなおし、台本を黒く染め上げた。

自分の才能に酔いながら。

彼女にはかすりもしない力量でも、決死の覚悟で向き合い、涙と汗を沁み込ませた誰にも流されない根を得ていた。

「あなたにそう言ってもらえて嬉しいわ」

そう答える私の眼に、固く、明るい、輝きが戻る。

その瞳は、ダイヤモンドより美しい。


生まれながらにして華を持つ者、持たざる者。

それでも誰もが、どこかで大輪を咲かす。

これは、ひときわ美しい花を咲かせた二人の話。

向日葵の涙は太陽が拭い、輝くその先へと、光を浴びている。

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