足利帝国

鷹山トシキ

第1話

 ⭐勇者 1ヶ月に5人殺さないと死ぬ。

 信長に倒されるはずが生存し、2015年まで存続。帝国の幹部になると犯罪が自由化される。  


 中学生の敦子あつこは自室で室町幕府について勉強していた。延元元年(1336年)5月、九州から東上した足利尊氏が湊川の戦いで楠木正成を破る。後醍醐天皇は比叡山に退去したが、正成とともに「三木一草」と称された後醍醐の武将ら(結城親光・名和長年・千種忠顕)もこの前後に相次いで戦死したため苦境に立たされることとなった。翌月入京した足利軍は光厳上皇を治天の君に擁立し、8月には光厳の弟豊仁親王(光明天皇)が即位する。和睦の成立によって10月に帰洛した後醍醐は幽閉され、11月2日に光明へ神器が譲与される。同月7日、是円(中原章賢)・真恵兄弟らが起草した『建武式目』の制定によって新たな武家政権の施政方針が示されたが、室町幕府の実質的な成立はこの時期とされる。北朝から権大納言に任ぜられた尊氏は「鎌倉大納言」と称され、鎌倉将軍(鎌倉殿)を継承する存在と見なされた。


 翌月21日、後醍醐が大和国吉野に脱出し、南北両朝の並立状態が始まる。翌延元2年(北朝建武4年、1337年)8月、鎮守府将軍として東北にあった南朝方の北畠顕家が西上の途に就き、明くる延元3年(北朝建武5年、1338年)1月には青野原の戦いで幕府軍を撃破したものの、その後の連戦の末ついに5月に戦死し(石津の戦い)、また事実上南朝方総大将であった新田義貞も閏7月の藤島の戦いで敗死した。こうして主将と奥羽に勢力を築いた有力武将の2人を失った南朝方の劣勢は覆いようもなく、北朝・幕府方優位の趨勢の下、尊氏は建武5年(1338年)8月11日に征夷大将軍に任ぜられた。


 室町幕府の滅亡は、元亀4年(1573年)7月に織田信長が15代将軍義昭を京都から追放した時点とするのが一般的である。もっとも、義昭はその後も将軍を解官されてはおらず、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を保持していた。信長以前には、天文22年(1553年)8月に13代将軍義輝が三好長慶に敗れ近江国朽木谷に逃れてから永禄元年(1558年)11月に和議を結び入京するまで、長慶が将軍を擁立しない独自の政権を京畿に打ち立てていた例もある。義昭追放後もこれを庇護する毛利氏との交渉で信長もその復帰を了承しており、幕府が存続(復活)する可能性もあったが、義昭の信長に対する人質要求により実現せず、結局義昭が政権に返り咲くことはなく、結果的に元亀4年の追放時点に遡及して(中央政権としての)幕府の滅亡が確定したともいえる。


 義昭は天正16年(1588年)1月13日に関白豊臣秀吉に従って参内して、忠誠を誓うまで征夷大将軍であったと『公卿補任』は記録する。義昭は将軍職辞任後、朝廷から准三宮の待遇を得、秀吉からも貴人として最後まで遇された。現任将軍の存在という面を重視すれば、この天正16年1月を幕府終期と見ることもできる。


「敦子〜ご飯よ〜」

 階段の下から母親、逸子いつこの声がした。

 足利帝国のせいで牛原うしはら家は貧困を強いられていた。足利帝国の幹部になれば贅沢な暮らしを出来るが、庶民は地元から出ることも出来ずにいた。

「派遣なんてもうこりごりだ」

 食卓で、水を飲みながら父親の永吉えいきちは言った。

 庶民は酒、煙草、ギャンブル、女遊びなどが禁じられていた。

 永吉は派遣会社『SHEEP』からホルモン工場に派遣されている。作業着についた血なまぐさい匂いに敦子は吐き気を催した。

 このままいけば、私もパパと同じをすることになるのかな?敦子はトイレに駆け込んで吐いた。

「もしかして、つわりか?」

 永吉が冗談を言う。 

 テロリストにでもなって帝国を倒そうかな?


 明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。


 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。


 足利義材は、応仁の乱で西軍の盟主に擁立された義視の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に土岐成頼を頼って美濃へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍義尚は守護大名や奉公衆を率い、六角行高(高頼)討伐(長享・延徳の乱)のため近江へ親征するが、果たせないまま長享3年(1489年)3月に近江で病死する。


 義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政や管領細川政元などは、堀越公方・足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。しかし、日野富子が甥(妹の子)である義材を後援し、翌延徳2年(1490年)正月に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定した。富子は義政の御台所、義尚の生母で、将軍家に嫁いで40年近くになり、その間将軍に代わって政務を取り仕切ることもあった。将軍家を代表するような人物でもあった彼女の支持は義材の将軍就任に大きな意味を持ち、実際に義材の家督継承を朝廷へ報告したのも彼女であった。


 この決定に反対した政元や伊勢貞宗らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した。貞宗は前将軍の義尚が幼少時から側近として仕えて養育に尽くし、日野富子の信任が厚かった。また、その父・伊勢貞親は文正の政変の際に義尚のために義視殺害を義政に進言したことがあり、義材の将軍就任後に後難を恐れたためと言われている。これは、応仁の乱で義尚を支持した人々が共有する危機感であった。


 ところが奇しくも同じ日、日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた小川御所(小川殿)を譲渡することを決めた。将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は義材を軽視するものと激怒して、翌5月には富子に無断で小川御所を破却し、その所領を差し押さえた。富子が清晃のために小川御所を譲渡しようとした背景には、いきなり権力の座に就いた義材や義視が暴走しないように牽制する意図があったとされる。その後、富子はこれを義視の約束違反と反発して義材との距離を置くようになり、義視の病死後も関係は改善されなかった。


 7月5日、義材は正式に朝廷から将軍に任命され、義視も准三宮の地位を与えられ、しばらくは父子による二頭体制が続くかと思われた。だが、11月に義視が腫物を患い、必死の看病も虚しく、延徳3年(1491年)1月7日に死去した。将軍就任間もない義材にとって、大乱中に西軍の盟主として政治的経験を積んできた義視は頼もしき存在であり、その死が与えた影響は大きかった。そのため、義材は自身の政治的立場を固めるため何らかの方策を考えざるを得ず、近臣たちと相談のうえで出した結論が、反抗的な大名を討伐し権威を高めることであった。


 義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、丹波、山城など、畿内における国一揆に対応するため、延徳3年4月に近江の六角行高討伐の大号令を発し、軍事的強化を図った。この六角征伐は細川一門をはじめ多くの大名が参加し、圧倒的な武力で行高を甲賀へ、さらに伊勢へと追い払い、成功裡に終わった。また、政元がこの征伐に反対したことや、征伐中に政元の武将・安富元家が六角軍に大敗したことから、義材は政元への依存を減らすため、以後はほかの大名を頼るようになった。


 明応2年(1493年)正月、義材は河内の畠山基家(義豊)を討伐するために大号令を発し、再び大名たちへ出兵を要請した。これは元管領であった畠山政長が敵対する基家の討伐のため、義材に河内への親征を要請したことに起因する。政長は応仁の乱で従兄弟の畠山義就と家督をめぐって激しく争い、義就の死後はその息子の基家と争いを続けるなど、畠山氏は一族・家臣が尾州家と総州家で二分して争っていた。義材は二分された畠山氏の家督問題を政長優位の下で解決させるため、そして政元への依存を減らすため、政長の願いを聞き入れる形でこの出兵に応じた。そして、京には義材の命令を受けた大名が多数参陣したが、政元は河内征伐に反対し、この出兵に応じなかった。


 政元は先の六角征伐に続いてこの討伐にも反対していたが、それには次のような理由があった。畠山氏は細川氏と同じ管領に就任しうる有力な大名家であるが、その畠山氏が二分され勢力が減退してゆくのは政元ら細川氏にとって好都合であった。そのため、応仁の乱で政元の父・細川勝元はこの家督争いに介入、尾州家の政長を支持して総州家の義就と争わせることで畠山氏の力を削ごうとした。だが、義材の河内征伐により、政長のもとで畠山氏が再統一されると、再び強大化した畠山氏が細川氏を脅かす可能性があった。再統一された畠山氏は同じく畿内に勢力を持つ政元にとって、「新たなる強敵」の出現に他ならなかった。


 結局、義材は政元の反対を振り切り、2月15日に討伐軍を京から河内に進発させた。そして、2月24日に義材は河内の正覚寺に入り、ここを本陣とした。大名らもまた、畠山基家が籠城している高屋城(誉田城)周辺に陣を敷き、城を包囲した。そのため、基家方の小城は次々に陥落し、3月の段階で基家は孤立を余儀なくされ、義材や政長の勝利は目前となった。


 だが、政元は畠山氏の再統一を避けるため、政長の宿敵たる基家と結託した。すでに政元は河内征伐の開始直前までに基家の家臣と接触しており、興福寺の尋尊の記録では基家の重臣が河内征伐の直前、「将軍が攻めてきてもこちらは何ら問題はない。なぜならば、伊勢貞宗以下、大名らとはすでに話がついているからだ」と豪語していたと記している(『大乗院寺社雑事記』明応2年2月23日条)。政元は義材に不満を抱き始めた伊勢貞宗をはじめ、赤松政則といった大名、そして日野富子までを味方に引き入れ、叛乱計画を着々と練っていた。

 

 4月22日夜、政元はついに挙兵を決行した。清晃をすぐ遊初軒に迎え入れて保護し、義材の関係者邸宅へと兵を向けた。その兵によって、23日には義材の関係者邸宅のみならず、義材の弟や妹の入寺する三宝院・曇花院・慈照寺などが襲撃・破壊された。更に当時の記録によると、富子が先代(義政)御台所の立場から直接指揮を執って、政元に京を制圧させたと記録されている。


 同日、政元は義材を廃して清晃を新将軍に擁立すること、また政長を河内守護職から解任すること公表し、事態を収めようとした。そして、4月28日に政元は清晃を還俗させて義遐よしとおと名乗らせ、11代将軍として擁立した。義遐はのちに名を義高、義澄と改めている。


 この報を聞いた義材や諸大名、奉公衆・奉行衆ら将軍直臣は激しく動揺し、その上伊勢貞宗から義材に同行する大名や奉公衆ら将軍直臣に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」が送られると、大名や将軍直臣は27日までにほとんどが河内から京都に帰還してしまった。その後、直臣は京の義遐のもとへと参集し、大名も畠山政長を除いて義材を支援した者はいなかった。


 赤松政則は政元の決起直後、先の六角征伐に積極的に協力し義材と親密な関係にあったことから、「政元ではなく義材に味方するのではないか」と囁かれていた。だが、政則は政元の挙兵前に彼の姉と結婚していたため、緊密な関係を構築していた。それゆえ、政則は最終的に政元へ味方することを決したのであった。


 周防・長門守護・大内政弘の息子で、父の名代として河内出兵に参加していた大内義興も政元に味方している。なお、閏4月1日に京都にいた義興の実妹が若狭国の武田元信配下に誘拐される事件が発生しており(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)、細川政元・武田元信が応仁の乱の時に義視・義材父子を擁して最後まで西軍として戦った大内政弘が義材に加担するのを阻止するために、義興の妹(=政弘の娘)を人質に取って、政変に同意させたとする説もある。


 しかし、大名らが帰還したとはいえど、義材にはまだ政長の兵8,000がおり、残された軍勢も依然として意気盛んで、徹底抗戦の構えを見せていた。閏4月3日に武田元信が若狭から上洛して政元に合流し、赤松政則と大内義興が義遐を義材の猶子にして後を継がせる仲介案を出して事態の収拾を図ろうとしているが、これは失敗している。


 23日、政元は挙兵を朝廷へ報告した。その理由として、自分が義材に河内征伐を反対したのに受け入れられなかったことを掲げ、ゆえに挙兵して義材を廃し、義澄を擁立したのである、と説明した。


 一方、朝廷ではこの将軍擁廃立の挙兵を受けて、後土御門天皇が申次白川忠富に命じて、勧修寺教秀・甘露寺親長・三条西実隆という3名の老臣を招集した。天皇は自分の任じた将軍が廃されるという事態に烈火の如く激怒するとともに、勝仁親王も成人したので譲位をしたいと述べた。これに親長と忠富が反対し、親長は「武家が変転し難題を言ってきても、言いなりになるのが天皇の定めだ。儲君への譲位も武家側に言わせれば良い」と述べたため、天皇も思いとどまった(『親長卿記』明応2年4月23日条)。その背景には、朝廷に譲位の儀式を執り行う費用を出す余裕がなく、政変を起こした政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したからとも言われている。


 朝廷は翌24日から5日間の阿弥陀経談義を予定通り開催し、天皇も聴聞することを理由に政変に対する判断を先送りし、28日になって細川政元が御訪(必要経費の献金)を行ったことで、清晃改め義遐は従五位下に叙された。この時、宣下に関わった親長は「御訪を給わざれば相い従うべからず」と述べて、御訪300疋と引換に叙位は行ったものの、政元が将軍宣下に必要な費用までは揃えられなかったためにこちらは見送られた(『親長卿記』明応2年4月28日条)。


 当時、朝廷の運営に御訪は不可欠で、政元が掌握した幕府からの御訪なくしては天皇の譲位は実現できない反面、政元といえども御訪が揃えられないと朝廷を動かせなかったという公武関係の実情を伺わせている。


 その後、閏4月7日に政元は政長討伐のため、上原元秀、安富元家からなる軍勢を京から河内へと派遣した。また、基家も高屋城から出撃、政元に与する大名らも味方して、その兵力は4万に上ったという。


 一方、義材と政長は細川軍に追い詰められ、正覚寺に籠城したが、依然として徹底抗戦の構えを貫いていた。正覚寺には100余りの櫓を立て、一番高い櫓に義材の御座所を置くなど、寺を城塞化して守りを固めていた(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月19日条)。


 やがて、同月中旬に政長の領国の一つ・紀伊から数千から1万ともいわれる大軍が正覚寺城に向けて出発した。だが、紀州勢はその途上の堺で、赤松政則によって足止めを喰らった。


その後、紀州勢と赤松勢は堺で対峙し、「通せ」「通さぬ」の問答を始めたが、同月21日に戦闘が開始された。紀州勢は海に数十の軍船を並べて陸の軍勢と連携し、赤松軍を激しく攻めた。一方、赤松軍は政則自らが出陣して奮戦、数時間に及ぶ戦いの末に紀州勢が敗北した。


 頼みの綱であった紀州勢が堺で敗北したことは、義材と政長に衝撃を与えた。紀州勢が勝利すれば政変そのものを覆せる可能性もあったが、その望みが消え去り、またすでに正覚寺城の食料も尽きかけていたこともあって、政長は大いに絶望した。


 同月24日、包囲軍は正覚寺に総攻撃を開始し、25日朝に正覚寺城は陥落、政長は河内守護代・遊佐長直などの重臣らとともに自害し果てた。政長の自害後、同日に義材とその側近らも足利家伝来の「御小袖」(甲冑)と「御剣」を携えて上原元秀の陣に投降し、その身柄は京へ送られ、龍安寺、次いで上原元秀の屋敷に幽閉されることとなった。


 また、29日に公家の葉室光忠が政元の命を受けた上原元秀によって殺害された。光忠は父の義視以来の側近で、義材からも重用され、明応2年にはその奏請によって上首18人(現任8人、前官10人)を超越して権大納言に任じられるなど、一時的ではあるが摂家・寺院・管領などを凌ぐ権勢を握っていた。政元でさえ光忠の申次を通さずには義材に具申できない有様であり、政元にとっては政長同様に排除すべき存在でもあった。京の葉室邸もまた、政元の挙兵時に破却されている。


 政長の嫡子・畠山尚順は畠山家の後継者の地位から一転、父が自害する前に正覚寺城から紀伊にひとり落ちのびねばならなかった。正覚寺城を包囲していた細川方は尚順を捕捉することができず、同年9月10日には上原元秀が尾州家の家臣である遊佐某と婚姻関係に有った住吉大社の神主・津守国則に尚順を匿った疑いをかけて、住吉大社に放火し、国則を追放している。

 

 

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る