旅情だからさそこは
ちゃちな幌馬車が、俺たちを乗せてがたごと進む。
太陽はちょっとだけ夏を孕んで、ワゴンの内側は蒸し暑く、ときおり吹き込む朝の風が心地よかった。
「もうちょっとこう、豪華な乗り物で行くかと思ってたよ」
「立派なキャリッジはセヴァンで借りますよ。そっちの方が安いです」
「泣けてくるね」
「贅沢できる身の上ではないからな」
御者席のパールが言った。
「殿下、セヴァンには夕刻の着となりましょう。どうぞゆっくりとお休みになってください」
「ありがとう、パール」
「じゃあ御者は交代でやろっか、パールさん」
「あがっんっ、んんっ! 感謝する、ミカド殿」
なんかあと一歩の感じ出てきたぞ。がんばって仲良くなろう。
◇
で、夕刻。
暗くなる前に、俺たちはセヴァン入りした。
セヴァンは、丘とミィエル湖のあいだにあるわずかばかりの平地にあった。
小さく頑丈な建物が、細い道を挟んでみっしり立ち並ぶ。
ブナが茂る丘の上には、見張り台付きの塔を備えた館があった。多分、ノブローが暮らしていた荘館だろう。
建物の間には、鋳鉄のランタンを吊るすロープがいくつも渡されていた。
ちょうど、火付け役人がランタンを点す時合だった。背を曲げた老人が、ミスリルアイゼンの火付け棒でランタンをノックして回った。
ランタンの木芯に巻きつけられたミスリルはんだが、魔力を帯びて青緑にぼんやり光った。
ミィエル湖に陽が沈むと、狭い小路は灯りで満たされた。
切なく胸がうずくような、旅情を感じる光景だった。
「いいですねこれ。うちにも欲しいな」
「ランニングコストをお考えください、殿下。はんだのミスリルは半年で蒸散するのですよ。道楽です」
「パールはすぐそれだ。道楽って必要でしょう?」
「オイルランプで十分だと言っているのです」
にべもないなあ。
「まあでも、旅情だよねこういうの。一つぐらいいいんじゃない? 旅の思い出に」
「う、む……そうか、旅情か。ミカド殿がそう仰るのであれば、そうなのかもしれんが」
「なんですぐ説得されてるんですか」
ニーニャに睨まれ、パールははっと目を見開いた。
「サー・ノブローに教えていただいた宿は湖のほとりですね。かじか屋と言いましたか。急ぎましょう」
パールはフリューテッドアーマーをがちゃがちゃ鳴らしながら、せかせか歩いていった。
「……むうう!」
ニーニャはぶんむくれた。
「言うねえ、パールさん」
「それがパール・バーレイですから。でもむううはむううです」
借金のせいで没落した人生を考えれば、パールの態度も無理はない。自分の叙勲まで金がかかるっつって断ってるぐらいだもんね。
俺たちは湖畔のかじか屋に部屋を取った。居間と寝室が続き間になったスイートで、ガラス窓からは夜のミィエル湖が見える。
舳先に火を焚いた漁船。お屋敷でもあるのだろうか、青緑にぼんやり光る湖中島。
階下の居酒屋から、酔っ払い特有のけたたましい笑い声が聞こえてくる。
「うーん、旅情だねえ」
「ミカドさんミカドさん!」
ニーニャがなんか、ぴょんぴょんしながら近寄ってきた。ぶち上がってんねえ。
「ミカドさん、ごはん食べ行きましょう!」
「おーいいね、行こ行こ」
「駄目です」
寝室で
「殿下、なんのためのスイートだと思ってらっしゃるんですか。食事は持って来させます」
「でもパールさん、旅情だからさそこは」
「う、む……旅情か。旅情と言うのであれば、それは、その」
「だから、なんですぐ説得されてるんですか」
ニーニャに睨まれ、パールははっと目を見開いた。
「ミカド殿、無責任に乗らないでいただきたい。ここにいらっしゃるのはニーニャ・ブラドーなんだぞ」
まあ、そう言われちゃうとね。
「部屋を取ったときに料理は注文済みです。殿下、あなたの敵は湖を挟んですぐそこにいるのですよ。一厘一毛とて、暗殺や謀略の危険は避けるべきです」
「むうう……」
むううに覇気がないな。パール、もっともなことしか言ってないもんな。
「でも、食べたい料理がいっぱいあったのに」
ニーニャは泣き落としにかかった。
「皮目を炙ったホッキョクイワナに、まるまる肥った鴨。それからラクレットチーズをどっさり乗せたじゃがいも、湖水地方のワインでしょう?」
「パール! 覚えててくれたんですか!」
「当然です。殿下のお望みを、可能な範囲で叶えるために私はいるのですから」
「わああ!」
ニーニャはててーっと駆けていき、ぴょーんと跳ねてパールに抱き着いた。
「殿下、何を――」
「ありがとうございます、パール!」
パールはしばしおろおろしていたが、やがて諦めたような苦笑を浮かべた。
「まったく、近頃の殿下はすっかりお変わりですよ。誰のせいだか知りませんが」
と、パールは俺に目をやった。やめて、なんか、そういうの。
「最初からこんな感じだった気がするけどね。まあほら、それはあれとして、じゃあ料理取りに行ってくるよ俺。はやくワイン呑みたいし」
俺は適当にとぼけ、そそくさと部屋を出ていった。
階下の居酒屋は、品の良い着こなしのひとびとでごった返していた。かじか屋は社交場としての側面が大きいらしい。
オイルランプのとぼしい光が、コーンパイプから立ち上る煙をきらきらさせていた。
酒と料理と香水とたばこのにおい。
雑談と笑いがつくる音のかたまり。
いいな、居酒屋っていう居酒屋だ。
俺は酔っ払いたちが騒ぐテーブルの間をすり抜けて、カウンターに向かった。
「あ、どもー。白鱒の部屋のもんなんすけど、料理できてますー?」
「あーい、ちょっと待ってくんなね。今やってるもんでね」
気のよさそうなおっちゃんが、俺の半分ぐらいありそうな巨大魚をまな板に乗っけながら対応してくれた。
桃色の斑点が体表に散っていて、背中がもりもりに盛り上がっている。これがホッキョクイワナだろう。
「炙っちまうもんでね、ちょいと待っててな」
よく研がれた包丁で、しゅぱっと三枚におろす。
「うっわ、やばいっすね。すんごい脂」
皮下には白く濁った、分厚い脂肪の層。橙色の身にも、しっかりサシが入っている。見てるだけでうまいな。
「へっへ、お客さんねえ、半生にしたホッキョクイワナの炙りなんて通な食いもんでね」
ぶつ切りにしたところにべらぼうな量の塩を打ち、串に刺す。それを調理暖炉に突っ込むと、滴った油で煙がもうもうと上がった。
「ほい、できあがり。オーコ! 白鱒さんとこのラクレットは!」
炙った身を削ぎ切りにしながら、おっちゃんが怒鳴った。
「今やってんだろ、エーミール! はいよ、お客さん!」
俺の前に、料理を乗せたキッチンワゴンが滑り込んだ。
「おー……ありがとうございます」
これで階段上がんの? いやまあ、やれってんならやるけど。
「ミカドくん! ミカド・ストロース!」
キッチンワゴンを押しはじめたところで、声をかけられた。
エルフの男が、手を挙げながら俺に近づいてきた。
「えっまっえっ」
俺は口をぱくぱくさせた。
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