グール鎧袖一触
俺に殴られたグールは、ぐらっとよろめいた。ニーニャはグールの腕を振りほどくと、すっころんで四つん這いになりながら、俺の後ろに駆け込んだ。
「なんでっ……別に、た、助けて、もらわなくても」
歯をがちがち鳴らしながら、ニーニャはつっかえつっかえ強がった。
「ごめん、分かんなかった」
殴られたグールは、今にも襲いきそうな下っ端どもを手で制した。
「母神さまは、おれたちに言った。ニーニャに会ったら、なんかいい感じにね、と。だからおれたちは、ニーニャをいい感じにする」
「え、怖。そんなふわっとした宣託来る感じなの? グールの神様って」
「そうだ。母神さまはおれたちを、なんかいい感じにした。ニーニャも、そうする」
「でも、嫌がってるように見えるんだけど」
「それはまだ、なんかいい感じになることを知らないからだ」
なんかいい感じって、想像つくわけないだろそんなの。
グールの信仰についてはよく知らないけど、五体を引き裂かれて生贄になるのが『なんかいい感じ』の内実だったらどうするんだよ。
「おれはガッシュ。イル・フーのガッシュだ」
「え? ああどうも、ミカド・ストロースです」
「では、ストロースのミカドとイル・フーのガッシュは、
グールのガッシュが、腰に吊っていたこん棒を抜いた。
あ、今の名乗りってもしかして、グールの文化では『ただいまより私と貴方で殺し合いをしたく存じます』みたいな意味だったの?
会話のどれがなにを含意してんのか分かんないよ、異文化のコミュニケーション。
「行くぞ、ストロースのミカド!」
上からまっすぐ、隕石が落ちてくるみたいな勢いで、こん棒が振り下ろされた。
俺は半身になってかわし、前に出した右手をまっすぐグールの顔に打ち込んだ。
ガッシュは鼻血を曳きながらのけぞって数歩下がる。踏み込んで追撃すべきか――グールはこん棒をめちゃくちゃに振り回しながら、態勢を整えた。正解を引いたな、突っ込んだらぶん回しを食らってた。
「きゃああああ!」
幼い悲鳴が聞こえ、振り返ろうとしたところにこん棒の横振りが飛んできた。上半身を反ってかわす。こん棒は俺の服を引きちぎりながら空を裂いた。
「そのまま、ニーニャを持っていけ。ストロースのミカドは、おれと闘る!」
「はい、
「祖と母神の糧となれ!」
「祖と母神の糧となれ!」
ガッシュが叫び、下っ端が声を揃えて元気よく復唱した。
「あああ、くそっ!」
なんでこんなことになってるんだ。俺に必要なのは、どっか静かな片隅で誰にも看取られず死ぬことだったのに。
やるしかない。
できるか?
戦場で何人死なせた?
何人殺した?
力が足りずに味方を死なせた。
ローヌを守れなかった。
敵を殺した、目につく敵を全部殺した。
吐き気がこみあげ、体じゅうから力が抜ける。
子ども部屋は最高だった――そこにはなんの責任もなく、だれも俺のことを責めたりしない。ごはんとか寝てても出てくるし、ぼーっとしてるだけでみんな甘やかしてくれる。目の前でだれか死んだりもしない。お願いしたらたいていのことは叶えてもらえる。
気づけば目の前にこん棒があった。
あと一秒もかからずに、俺の頭は破裂するだろう。
はっきり確信できるぐらい、速度の乗った振り下ろしだった。
「――
ガッシュのこん棒が、岩盤を叩き割った。
「は――?」
俺の目前には、ニーニャを抱えるグールがいる。
手を出せ。
右拳が、最短距離を最速で奔る。
グールの顔に触れて、止まらない。
鼻骨を叩き潰し、肉を裂き、頬骨にひびが走り、顔面そのものが一点めがけて落ちていくように変形する。
宙に浮いたニーニャを抱きとめる。グールの体が、背中についた紐を引っ張られたように飛んでいく。地面に落ちてごろごろ転がり、トウヒの幹に激突して止まる。
「うわっ……うわあああああ!」
下っ端グールどもが悲鳴をあげて俺から距離を取った。
俺の腕の中にちょこんと収まったニーニャは、ぽかんと口を開けていた。
深紫に縁どられた紺色の瞳は、俺へと注がれている。
「その、目」
右目が、ひどく熱い。力を使うと、いつもこうなる。虹彩が黄変し、瞳孔が三つの疑問符を放射状に並べたような形に変状するのだ。
すなわち、“黄色い印”に。
それからニーニャの視線は、俺の背後に浮かんだ、神鳴の
「
ニーニャは呟いた。
「あ、知ってるんだ? 詳しいねニーニャさん」
「わひゃあああん! 来ます! 後ろ!」
ガッシュのこん棒が、俺に向かってゆっくりやってきた。俺は一跳びにかわして、ニーニャを地面に下ろした。
「ストロースのミカドは、強くなった。なぜだ?」
「ぶちのめしてから教えるよ、イル・フーのガッシュ」
後足で地面を蹴り、距離を詰める。
俺の速度に、ガッシュは反応できない。殴るか、蹴るか、絞めるか。あるいは……殺すか。
俺はじっくり考えてから、ガッシュのこん棒を分捕り、どっかそのへんに投げ捨てた。
素手になったガッシュは、まったく躊躇せず殴りかかってきた。
殴る拳の手首を掴み、親指側に捻りながら引き込む。相手の肘めがけて、腰を落としながら手刀を叩き込む。
ガッシュは空中でぐるんと回転し、背中から地面に落ちた。
「がッ!?」
肺の空気を絞り出すような悲鳴。
「なん、だ……分か、らん」
「カーネイ流制圧術、
ガッシュは瞑目し、唸った。
「ストロースのミカドは、おれを何度も殺せた。が、そうしなかった。おれの負けだ」
「じゃあ今日のところは終わりってことでよさそうだね」
「終わりだ。ニーニャ・ブラドーを、今日のおれはあきらめる」
「そりゃよかった」
俺はガッシュに手を差し伸べた。痛みに顔をしかめながら、ガッシュは俺の腕にすがって立ち上がった。
ガッシュは指笛を吹いた。音を聞きつけて、ごつい巻角の羚羊が数匹、跳ね飛びながらやってきた。
すりよってきた羚羊の顔を撫でて、ガッシュはその背に飛び乗った。
「だが、イル・フーの
「なぜなら母神さまが」
「なんかいい感じにな。分かったよ。じゃあね」
俺がそっけなく相槌を打つと、ガッシュは負傷者を拾い上げて羚羊に積んだ。羚羊は、二人分の重さを感じさせない軽い動きでぴょんぴょん跳ねて、あっという間に林の向こうへと消えていった。
俺はその場に膝をつき、胃液を吐いた。
手に残る暴力の感覚が、最低な記憶を呼び覚ましていた。
雪原。
凍った血。
切り離された頭と体。
裸の体に群がる敵。
ローヌ。
ローヌ・ブラドーの、頭と体。
「やばいな、あーやばい、やばいなこれ」
心臓が不整脈に跳ねて、ねばつく汗が体じゅうから染み出す。
呼吸の異常な荒さをコントロールできない。
全身が冷たくなる。指先から感覚が失せていく。
「だいじょ――すか――ミカドさ――」
駆け寄るニーニャの足音も声も、水中で聞いているみたいにぼんやりしている。
視界が幾度かちかちかまたたいて、吐いた胃液に突っ伏して――
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