忘れられない女〈バンドマンの女編〉
独白世人
忘れられない女〈バンドマンの女編〉
夏の終わりの出来事だ。
その手紙はまさに爆弾だった。
そしてその爆弾は長い時を経て、俺の手のひらで大爆発を起こした。
忘れられない女がいる。
その女に出会ったのは、アルバイト先の居酒屋だった。バンドで成功するのを夢見た俺が上京してすぐのことだ。女はアルバイト先で俺より3ヶ月先輩だった。同い年だったということもあって、俺たちはすぐに仲良くなった。正直に言ってあまり好みではなかったが、上京したての不安や寂しさもあって俺たちが友達から恋人になるのに時間はかからなかった。「夢は可愛いお嫁さん」と言い切る彼女は、料理は上手かったし、とても世話好きだった。背は低く、並んで歩くと俺の肩の辺りがちょうど彼女のてっぺんだった。
女の無邪気な笑顔をよく覚えている。普段はよくしゃべった。しかし、俺がギターの練習をしている時は、無言で何時間でも横で聴いているような女だった。その場の空気に溶け込むのがとても上手だった。
女の実家は北関東の田舎にあった。寺の娘だった。そのことがどのように影響していたのかは分からないが、女はまっすぐ芯の通った人だった。派手なものよりは地味で奥ゆかしいものを好み、ディズニーランドより小さな遊園地が好きと言うような女だった。
女は本当によく俺に尽くしてくれた。売れないバンドマンの俺は常に金欠で苦しんでいた。彼女はそんな俺に、よく食事をご馳走してくれた。
当時の俺はそんな彼女を利用していたのかもしれない。
一緒に住むようになったのは、付き合い始めて一年が経った頃だった。俺がすぐに辞めた居酒屋のアルバイトを、女は続けていた。
俺という人間があって彼女が存在していたのだと思う。自意識過剰と言われるかもしれないが、本当にそうだったと思う。女は自分の予定と同じように俺の予定を把握していた。手帳には自分の予定より先に俺の予定が書き込まれてあった。俺の予定に合わせて女の生活が営まれていたのだ。女にとって俺が全てだったのだと思う。四六時中、俺のことを考えて生きていたのだと思う。
女は俺のことを「キミ」と呼んだ。
ある時、女は言った。
「キミのギターは不思議な力があるよ。何というか宇宙的な感じがする。俗世から離れたものを感じるの。それはキミの魅力と直結している何らかの形だと思うよ」
女はこんなふうに上手く俺を褒めることが出来る人だった。今から考えると、落ち込んでいる時や才能の壁にぶち当たった時に、女は言葉の力で何度も俺を助けてくれた。
女は初夏の晴天に浮かぶ真っ白な雲のような人だった。フワフワと柔らかく、汚れのない人だった。女は常に正しいことを言った。感動する映画を観て当たり前のように涙を流し、野良猫を見ては可愛いと言った。
俺にはバンドメンバーを殺したという過去がある。
当時、俺のバンドが練習していたスタジオはビルの三階にあり、よく非常階段の所で煙草を吸いながら休憩していた。その日、俺とベーシストは二人でスタジオにこもり、曲作りをしていた。女が飲み物の差し入れを持って遊びにきたので、いつものように非常階段で煙草休憩をとった。そこで俺たちはケンカになった。曲のアレンジのことが発端だったと思う。突き飛ばしたベーシストがバランスを崩し、非常階段の手すりを越えて転落した。すぐに階段を降りて駆け寄ったが、すでに彼が死んでいるのは一目見て分かった。その時、女は俺の目を見て言ったのだ。「これは事故よ。勝手に階段を踏み外して落ちて死んだ事故だったの。わかった? わかったらキミは早く救急車を呼んで」
パニックになった。動揺して何も出来ない俺を横目に、女は自分の携帯電話で救急車を呼んだ。俺は必死にベーシストの名前を呼んでいた。「死ぬな! 死ぬな!」と叫んでいた。付き添って救急車に乗る時も演技をする必要などなかった。誰の目にも俺は、事故で死にかけている友達に付き添っている人に見えたと思う。
結果、俺は犯罪者にならなくて済んだ。
あの時、女がそこにいなかったら俺はどうなっていたか分からない。女が間違ったことをしたのは、後にも先にもその時だけだった。女は全力で俺を守ってくれたのだ。
女とは二年半の同棲の後、別れた。
別れは俺が言い出したことだった。
「キミがそうしたいのならそうする」
女はそう言って、泣きもせず手際よく荷物をまとめて引っ越していった。
女がストーカーにでもなりやしないかと最初の頃はヒヤヒヤしていたが、拍子抜けするほど何も無かった。
一ヶ月が経ち、半年が経っても女からは何の連絡もなかった。
別れた後、よく見た夢があった。
広い砂漠のような場所に俺はポツリといた。
そこに突如、現れるものがあった。
体はカマキリで、顔はその女の顔だった。その女カマキリはその両手についた凶暴な武器で襲いかかってきた。ヨダレを垂らし、目をひん剥き、「うーらーぎーりーもーのー」と言いながら鋭敏な動きで、どっしりとした鎌のような腕を振りかざしてくる。俺は縄で体をグルグル巻きに縛られたように1ミリも動けない。冴え渡った意識の中で身体が切り刻まれていく。砂の上に転がった自分の頭から目が飛び出す。飛び出したその目で俺は、あちこちに散らばった自分の身体を見ているのだった。夢の最後はカマキリの身体をしたその女が、俺の目を覗き込むところで終わった。女は、付き合っていた頃には決して見せなかったとても意地悪な顔をしていた。
女と別れた後、メンバーチェンジを繰り返しながらもバンドは少しずつ人気が高まり、なんとかメジャーデビューの話がまとまった。去年の年末の話だ。女と別れて五年が経っていた。
雑誌や駅に貼られる広告で、発売されるCDが宣伝された。自分の顔のアップを色んなところで目にするのは、恥ずかしくもあり嬉しかった。
やっとだ。やっとここまで来た。上京してから一つの夢をひたすら追いかけた結果がやっと出ると思った。
ようやく人並みの人生が送れるような気がした。
そして、そんな今、俺には一つの気持ちが湧き出てきた。それは、あの女と復縁したいという気持ちだった。女と別れた後、俺は色んな人と交際した。しかし、そのどれもスカスカのスポンジのような恋だった。力いっぱい押しても跡が残らないような恋愛は、俺の心を満たすどころか、ぽっかりと空いてしまった空洞をより大きなものにしていった。そんな恋愛が終了する度に俺は、あの女のことを思い出していたのだった。
メジャーデビューが決まったら、女と連絡を取って、「やり直せないか?」と言おうと心に決めていた。回り道をして、俺には彼女しかいないと気づいたのだ。
そんなことを思っていた最中、届いた手紙の差出人はあの女からだった。
◆◆◆
メジャーデビューおめでとう。
しかし、その夢は残念ながら叶わないでしょう。
なぜなら、私があのことをマスコミに公表するからです。私も罪に問われると思いますが、構いません。捨て身の私の復讐を存分に味わってください。
夢が叶うその瞬間に、これ以上ない絶望を。
私はこのことによってようやく前に進むことができます。
別れてもずっとずっと好きでした。
これでやっとさようなら。
◆◆◆
手紙を持っている手が震えた。
「この時をずっと待っていたのか……」
五年の歳月を経て変化したその女の存在が、突如、俺に襲いかかってきた。それは、紛れもなく化け物だった。牙をむき出しにし、白目を向いて襲いかかってくる化け物だった。女は俺が想像していたように大人しくしていてはくれなかったのだ。
「違う。これからなんだ。これからやっと始まるのに」
そう叫ぶように言うと、俺は携帯電話を手にとった。女の電話番号を五年ぶりにコールする。「お客様のおかけになった電話番号は……」のアナウンスが流れた。
じっとしていられず、俺はアパートを飛び出した。別れた後、彼女が引っ越したアパートに行ってみようと思った。少ない可能性だが、女はまだ住んでいるかもしれない。会って話をしないといけない。
道に出たところで、急いでつっかけてきたスニーカーが脱げてしまった。引き返してちゃんとスニーカーを履こうとしゃがんだ所に、カマキリが車に轢かれて死んでいた。文字通りぺしゃんこになって頭がもげ、手足がバラバラになっていた。
瞬時にこれから自分に起こる出来事が、早回しで頭の中で再生された。女がマスコミに流した情報によって俺は殺人犯になる。そうなったら俺は逮捕され、メジャーデビューの話は無くなるだろう。テレビや週刊誌で取り沙汰される自分が安易に想像できた。
呆然とした。
スニーカーを履こうとしていた手が止まった。
視線は無残なカマキリの死骸へ向けられていた。
「こいつは俺か」
そう呟いた。
夏が終わろうとしていた。
忘れられない女〈バンドマンの女編〉 独白世人 @dokuhaku_sejin
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