第231話

自宅で打ち込みのサンプリングを作っていると、来客のチャイムが鳴った。


時刻はそろそろ夜、二十時を回ろうとしていた。



「いけね…つい没頭してた」



長めの髪をヘアクリップで簡単にまとめて、腫れた右頬を隠すと翔は玄関へ向かう。




「はい…って、陽菜。またお前か」




翔はモニターを確認しないで無防備に出た事を後悔した。

目の前には少し息を切らせ、頬を上気させた陽菜が立っていた。


不思議なもので、一度彼女を女性として意識してしまうと、こちらを見上げる色素の薄い瞳や白磁のような肌や桜色の唇がやけに眩しく見えて顔中に熱が集中する。




「あの…またご飯食べてないんじゃないかなって思って」




そう言って差し出された紙袋には手製の弁当が入っている。




「あー…そういや随分寝てねーし、飯も食ってねーわ」




最後に寝たのはいつなのか、食事をしたのかすら思い出せない。

しばらく雑事に追われる事で、目の前の現実から逃避していた事に気づかされた。




「やっぱりね。じゃあこれ受け取ってくれたらすぐ帰るから」




「は、もう帰るの?」




紙袋を翔に押し付けると、陽菜はすぐに帰ろうと踵を返す。

拍子抜けした翔はダメだとはわかっていてもつい引き留めてしまった。




「うん…。これ以上蓮に迷惑かけたくないし」




その言葉に翔は軽く舌打ちする。




「………ここで飯だけ受け取って帰すの悪いし、ちょっと上がってけや」




そう言って翔は一歩身を引いて部屋へと誘う。




「いいの?」




「ん」




翔は軽く頷き、陽菜をソファへ座らせる。




「ここ来る途中、松島いた?」




「あ。この間の人?うん。そこで会ったよ。挨拶したけど見事に無視されちゃいました」



「マジかよ。アイツなんで家まで見張ってんだよ。あまり長くなると踏み込んで来そうだな」



翔はうんざりするように頭を掻きむしる。




「ねぇ、蓮。私、蓮に振られたんだよね?」



「いや振ってない!断じて振ってないから」




「え?」




突然切り出された言葉に翔は食い気味で即答した。




「……あのな。凄くズルいとは思うし、お前にも申し訳ないんだが、ちょっと時間が欲しい。せめて来月の選挙まで。その後何とかして親を説得するから。そうしたら改めて今度は僕の方からお前に気持ちを伝える」



「嘘…」




「そこで嘘なんかつかねーし。もう変に気持ちを取り繕ったりもしない。今日も来てくれて嬉しかったし、顔が見れて良かった」



すると陽菜の頬から涙がポロポロ溢れ出した。




「だぁーっ、お前はすぐ泣くなぁ」




翔は困ったような顔で陽菜の頬を手で拭った。



「だって、蓮がそんなみなみがやる乙女ゲームみたいな事言うから」




「は?何だそれ…。まぁいいか。そろそろ松島が来そうだな。一人で帰れるか?送ろうか?」



「ううん。大丈夫。タクシーで帰るから」




「そっか。じゃあ今呼んでやる」




「蓮はいつも優しいね」




「……これ以上居られると優しく出来ねー事情があんの。あ、後数分で来るって」




翔は陽菜から離れたキッチンの方の椅子に座り、遠くの方に視線を向けている。

その整った横顔には少し疲れが滲んでいる。



「お仕事、忙しいの?」



「んー?いや今はそんなにパンパンに詰まってるワケじゃないな。ただ、気を紛らわせる為に曲のストック増やしてた。まぁ、近々コンペもあるし、いくつか応募してみっかな程度のヤツ」



「アイドルなのに、蓮は詩も曲も作れるからいいよね。ところで今日の蓮、何で左側向いてばかりいるの?」



陽菜の言葉に翔の肩がピクリと跳ね上がる。

そういえばここへ来てから、何か翔の様子に微妙な違和感があった。



 

「べ…別にそんなわけじゃねーよ?」




しかし翔の右側の顔はサイドから無理に持ってきた髪に隠されていて全く見えない。



「嘘だぁ。絶対変ですって。プライベートでもそんかV系なヘアスタイルでいるの変!それに化粧してますよね?濃いめのコンシーラーとファンデで」



「よ……よく見てんなぁ。ちょっと寝不足で血色悪いからメイクで誤魔化したんだよ。ほら、メイクなんて僕、普段からしてるし」



そう言って、翔は焦ったように両手の甲を向け、綺麗なネイルを見せた。



「あっ、オーロラカラー綺麗♡…じゃなくて、何かありますよね。そっち見せてください」



「いや、近付くなって、ちょっ…」




陽菜がいつの間にか目前まで迫って来て、距離を詰められる。

 

彼女の長いまつ毛や、通った鼻梁のライン、薄く色付いた唇が間近に迫り、抵抗する翔に一瞬隙が出来る。




「隙あり!…………って、何これ!酷い。痣になってるじゃないですか。誰にやられたんです?」




一気に前髪を払われ、隠していた頬が露わになった。

そこには女性的な顔立ちに似合わない打撲痕がくっきり残されていた。


腫れは引いてるようだが、青や赤、黄色に変色していて痛々しい。




「ちょっと柱にぶつけただけだって。すぐ元に戻るよ。何も心配する事…」




急に陽菜が胸に飛び込んで来た。

そこから激しい心音と互いの体温が混じり合う。




「あまり無理しないで…。お願いだから」




「陽菜……」




翔は陽菜の頭に手を置いた。

そして優しく撫でる。


艶やかな栗色の髪の感触が指に心地よい。

その瞬間、抗い難い彼女への愛おしさが急速に広がっていく。



翔の指が陽菜の顎にかけられた。

自然に陽菜の顔が持ち上がる。



ゆっくり近付く唇。

互いの唇が重なる直前……翔のスマホが震えた。




「あ、タクシー来たって………」




「う……うん。じゃあ行くね」




「お…おぅ。気を付けてな」




絶妙なタイミングでのタクシー到着に、二人は赤くなった顔を逸らし、のそのそと出る準備をするのだった。




(何なんだよ。あの生き物…吐きそうなくらい可愛いんだが!?あれが現役アイドルの魔力なのか?……あんなガキに何で逆にドキドキさせられてんだよ…)




「蓮、どうかしたの?怖い顔してるよ」




つい感情が顔に出ていたらしい。

翔は直ぐに顔を取り繕った。




「何でもねーよ。お前はマジで潰したくなるくらい完璧なアイドルだなって思ったんだよ」



「なっ、それってライバル宣言ですか?」




「そうだな。そうかもしれん。ほらタクシーだ」



家を出るとすぐにタクシーが停っていた。



「うん。じゃあバイバイ。またね」



彼女は軽く翔に手を振ると車へ乗り込んだ。去っていくタクシーを見つめ、翔はため息を一つ溢す。




「これはヤバいな。めちゃくちゃ遅いアオハルかよ…。アラサーなのに…」





























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