第228話

連日日本各地で最高気温の記録を更新していく過酷な猛暑日が続く七月下旬。


笹島は自分のデスクに飾ってあるフォトフレームを磨きながら、静かなため息を吐いた。



「ん?笹島。また実来ちゃんの写真眺めてたのか」



その斜め向かいの席で黙々と仕事を進めていた夕陽は、呆れたように目を細めた。


笹島の見ているフォトフレームには生まれたての赤ん坊が写っている。


先月、兄の妻であるナユタがついに臨月を迎え、無事に女の子を出産した。


笹島家とは血の繋がらない子ではあるが、笹島の家族は大喜びでこの新しい命を迎えた。



名前は兄が実来みらいと名付けた。



実りのある未来へ向けて歩いてほしいと願って。



特に笹島は父親である兄以上に姪っ子の誕生を喜び、職場に写真まで飾っている。

意外にも彼は子供好きで、面倒見が良いらしい。



「あぁ。何度見ても超可愛いよなぁ。写真だけでこの破壊力。マジ天使だよ。今や笹島家のアイドルだね」



「まぁ、子供が出来たらそんな感じになるんだろうな」



結婚が近いとはいえ、夕陽にはまだ自分が父親になるなんて想像も出来ない。


親になって、「パパ」だの「お父さん」だのと呼ばれる事が何となく擽ったく感じるのだ。


しかしそれも生まれてみると、消し飛んでしまうのだろうなと夕陽は我が子のようにデレまくりな笹島を見て思った。



「でもさー、生まれる前がマジ大変だったんだよ。陣痛が始まってから丸一日、義姉さんが痛がってさ。おまけに一時間おきにすげぇ痛い注射打たれてぐったりして。それ見た兄貴とオヤジなんて真っ青な顔して取り乱してた」



「出産の時、男は何も出来ないからな〜」




ナユタは標準よりかなり小柄なだけに出産も大変だったのだろう。




「そんなリアル出産ドラマ見たらマジ、母親に感謝って思ったね」



笹島はそうしみじみ呟いた。



「そうだな…自分たちは母親の産みの苦しみを経てここにいるんだなとかって、わざわざ考えた事もなかったしな」




自然と夕陽も笹島に同意していた。

いつか自分とみなみの間にも子供が出来る日が来るかもしれない。



その時、自分はそんな彼女を支える事が出来るのだろうか。


男が出産の苦しみを考えたり、母親に生んでくれた事を感謝したりするのは妻の出産の時なのではないだろうか。



夕陽は仕事の手を休め、ぼんやりとそんな事を考えていた。





        ☆☆☆



「ふぁぁっ、よく寝た……ってか起こせよな。毎回毎回、寝たら起こせって言ってんのに」



プラネタリウムのホールから出てきた瞬間、翔は大きな欠伸をした。

サングラス越しの目尻には涙が浮かんでいる。


今日は陽菜のリクエストで都内のプラネタリウムへ来ていた。


しかし連日の徹夜作業で体力が限界値に達していた翔は、プログラムが始まったと同時に早速寝落ちした。



「ふふっ、始まった瞬間、隣からスコーって寝息が聞こえてきた時はびっくりしました」



陽菜は口元に手を当て笑っている。



「あのなぁ…僕だって一応耐えようとしたんだ。だけどあの音楽は反則だろ。速攻で意識飛んだわ」



「あー。確かに。プラネタリウムのBGMって眠気を誘いますもんねぇ。でも私は楽しかったですよ?」



翔は何故か嬉しそうにパンフレットを胸に抱きしめる陽菜を見て軽く笑う。



「それなら良かった。一応、上の展望台も行っとくか?人があまりいなければだけど」



「え、いいんですか?」



陽菜が期待するような顔でこちらを見上げてきた。


一瞬、彼女の笑顔に翔は息を詰まらせたように見惚れそうになり、慌てて意識を他へ向ける。




「………………っ」




「蓮、どうかしました?」




陽菜は急に黙り込んだ翔の顔を覗き込もうと回り込む。

だが、すぐに黒い手袋に包まれた手で顔を覆われる。




「……うるせぇ。ブス」




「なっ…久しぶりに言いましたね!それ、女の子に絶対言っちゃダメな言葉ですよ」



陽菜は彼に食いついてやったのだが、彼は耳まで真っ赤になった顔で、何か堪えるように自分の目元を手で隠すように覆っていた。



「変な蓮」



「……お前、色々な意味で凶器だよな。もういい。展望台行くぞ」



「はーい」



二人は展望台へ続くエレベーターに乗り込んだ。




        ☆☆☆




「うわぁ…綺麗。プラネタリウムと夜景が見られるなんて凄いですよね」




最上階の展望台は幸いにも人は疎らで空いていた。


陽菜は子供のように駆け出し、夜景の広がる窓に張り付いた。



「この箱庭の光の中で、私達毎日生活しているんですよね」




「……そうだな。これはスゲェ」




思わず翔の口からも素直な感想が飛び出す。




「正直、こんな夜景を女と見るヤツなんてクソだと思ってたけど、これは結構心持っていかれるな」




眼前に広がる東京の夜景は現実的なのに、どこか幻想的で危うい。

じっと見ているとそこに呑み込まれてしまいそうで怖くなる。


陽菜は知らずに翔の着ている丈の長めなパーカーの裾を握りしめていた。




「今日、蓮とここに来られて良かった」



「…ん。まぁ、僕もそう思う」




陽菜はじっと翔を見上げる。

いつもは翔と陽菜の身長にはあまり差がない。

精々一センチ程度の差だ。


しかし今日の彼は随分踵の高い靴を履いているのか、陽菜が少し見上げるくらいの差がある。


サングラスを少しずらして、夜景を見入る翔を見ていると、陽菜の心が騒ぎ出した。




(こ……告白するなら今じゃない?)




晴之が言っていた「いい雰囲気」とは今のような雰囲気の事ではないのか?


幸いにも今は人々の姿も疎らで誰も二人に注意を傾ける者はいない。


普段は人目につくのを避けるため、プライベートでは必要以上に飾らない陽菜だが、今日はサマーコートの下はふんわりしたワンピースを着て気合いを入れている。


そこに込めた気合いを無駄にしたくない。

今、伝えないと後悔する。

陽菜は大きく深呼吸した。





「蓮…、私ね。蓮の事が好きです」





その言葉に翔は夜景から目を逸らし、ゆっくりと振り返った。









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