第213話
「お、起きた。よく寝てたな。もう熱も完全に下がったようだ」
再び陽菜の意識が浮上したのはお昼を過ぎた辺りだった。
「あれ…私、寝てた?」
「うん。相当疲れてんな。売れっ子め。それより何か食うか?シンプルにお粥か、それとも食えるようだったらフレンチトースト…」
「フレンチトースト!」
思わず前のめりに言ってしまってから陽菜は顔を赤くした。
翔は小さく笑うと「OK」と言って、キッチンへ向かった。
「あの、ここはどこですか?」
陽菜は改めて自分のいる部屋を見渡し、翔にここがどこか確認する。
寝室、リビング、キッチン等が全てワンフロアで見渡せる部屋はかなりオシャレだ。
キッチンで卵を片手で割り入れ、慣れた手つきで卵液を作る翔は面倒そうに答える。
「東京」
「またそれですか?もっと詳しく!」
「渋谷」
「うーん、もう一声!」
「何だよそれ、……場所は東京都渋谷区、代官山。で、ここは僕の家。これで満足?」
辺りにバニラとハチミツの甘い匂いが漂う。
陽菜はやや興奮気味にベッドから身を乗り出してきた。
「えっ、やっぱりここ、蓮の家なの?じゃあもしかしてこのベッドは蓮の…?」
「そ。こら、匂いを嗅ぐな!シーツは交換してるから」
フライパンを手にこちらを睨み付ける翔の姿は新鮮だ。
きっと誰も見た事のない光景だろう。
「はい。お待ちどうさま。しかし病み上がりでこんな甘いもの食べて大丈夫なのか?」
テーブルの上に置かれたフレンチトーストのプレートは野菜やオムレツなどが乗ったカフェ飯のような盛り付けだった。
思わずお腹が鳴ってしまいそうだ。
「もう身体が糖分を欲してるんです!」
「ははっ、そうかよ。じゃあ早く食いな」
お言葉に甘えてナイフでメイプルシロップの染み込んだパン生地を切り分ける。
一口含むとじゅわっと甘味が口に広がった。
「はわわ〜。トロける〜♡」
「それは良かった」
翔は電子タバコをくわえると、夢中で食べる陽菜を横目に見て柔らかく笑った。
「支倉翔って芸名だったんですね。ずっと本名だと思ってました」
「あぁ、ウチ、父親が現職の議員なの。芸能活動する時、面倒だから名前変えて伏せとけって。まぁ、だからって別に完全に隠すつもりはない。聞かれたらこうやって答えるし。ただ大っぴらに自分から親の名前を出すなってだけ。神崎貴司の名前で検索かけてみると色々出てくるぜ」
「そ…そうなんだ。何か凄い人だったんだね。蓮って」
「別に僕自身は凄くないし。確かにガキの頃は周りから勝手に政治の道に進むもんだと思われて、その気になってた時期もあったけど、向いてねーし。それより僕は歌が好きだ」
政治の事はさっぱりな陽菜にはその名前を聞いてもピンとくるものはなかった。
だけど、歌が好きと言った翔の顔はとても素敵だと思った。
「ごちそうさまでした。料理上手なんですね」
やがて陽菜は全て食べきり、満足したように口元を拭った。
「料理は趣味だからな。色々なスパイスや材料を組み合わせて作るのもワクワクするし」
「あ、それちょっとわかるかも。でも今日は何でも答えてくれますね。どうしてですか?」
翔は嫌そうにこちらを見てきた。
「言わないと、同じ事何回も聞いてくるからだ。適当にあしらわれてんのにも気づいちゃいねーし」
「あはは。それはスミマセン」
陽菜は嬉しそうに笑った。
一十は音楽以外は全くダメで、日常生活もままならないくらいだ。
だからいつの間にか陽菜がそれを支えていた。
しかし蓮は自分の身の回りの事をしっかり出来る自立した男性だった。
年齢は一十の方が二つ程上だけど、この差は大きい。
「さて、今日はこれからお前はどうすんの?」
「午後ダンスレッスンに参加しようかなってくらいで…」
「じゃあ送る」
「え、いいんですか?」
「またあの男が出てくるかもしれないからな。あ。そうだ。アレ渡しとくんだった」
翔はそう言って立ち上がり、いくつかの紙袋を持って来た。
「これはビルの入り口に散らばってたお前の私物な?あの男に拾われる前に回収しといた。スマホでお前の保護者に連絡したかったけど、水が中まで入り込んで電源すら入らない状態だ。後で修理に出すなり買い換えるなりするんだな。カバンや台本、小物も乾かしてみたが、今後使い物になるかは…」
「あっ、わざわざありがとうございます。あの時は無我夢中で忘れてました」
陽菜はそれらを大事そうに受け取った。
そして翔は最後に更に小さな袋を差し出す。
「そっちはお前が着けてた下着。洗ってはみたけど、女の下着なんて洗った事ないから型崩れとか何か支障あったら勘弁な。服は下のクリーニングに出しておいたから後日これ持って引き換えてくれ。とりあえず新しい着替えは用意してくから風呂でも入ってこい。場所はわかるな?」
「あ……大体わかります。あの、ど…どうも」
わざわざ下着を見えないよう紙袋に入れて渡す辺りの気遣いがやけに恥ずかしい。
陽菜はそれを素早く受け取ると背中に隠した。
「洗面所にTシャツとハーパンあるから、とりあえずそれ着とけ。納得は出来ないが、背格好は大体同じなんだ。多分着られると思う。それは返さなくていい。帰ったら適当に処分してくれ」
「そんな、色々スミマセン」
「別にいいって言った。それからどっか連絡必要ならそこのスマホ使って。業務用のだから。ロックも解除してある。じゃあ、お前が風呂ってる間に僕は寝てるわ。流石に完徹で運転は不味い」
欠伸をすると、翔は寝室へと歩き出した。
そして振り返る。
「寝入ってたら起こせよ?」
「…あ。はい」
恋人でもない相手の部屋でお風呂を借りる。
それは一体どんなシチュエーションなんだろう。
そんな事を考えつつ、陽菜は浴室へと向かうのだった。
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