第79話「霜國蒼side*そこにキミは確かに存在しているのに*」
「ねぇ、先生。昼間なのにあそこ、月が見えるよ。何で?」
鍔の広い麦わら帽子を被ったエナが、真っ直ぐ腕を伸ばし、遥か空を指差す。
その方向には青空に薄っすらと白い、月らしきものが浮かんで見えた。
「それはね、月は相当明るいものなんだけど、普段は大気中の水蒸気で打ち消されて白く見えるんだ。だから肉眼では見えなくなる。だけど今日みたいな空気の澄んだ日は、当たる光も少ないから見えやすくなってるんだ……って言ってもわかんないか」
「エヘヘ。ゴメン。全然わかんない」
エナは舌をペロリと出して笑った。
蒼はもう少し言葉を選んでみる。
「ううん。いいんだ。つまりさ、月っていうのは無くなったり、消えたりするわけじゃなくて、いつも見えているものなんだ」
「えー、いつもあるの?昼も夜も?春も夏も秋も冬も?雨の日も雪の日も台風の日も?」
「あはははっ。そうだね。どんな日にも月は出ているよ。そこに確かに存在するけれど、目には見えないもの…として」
「それって魂とか命とかみたいだね」
「あぁ、そうだね。魂や命も確かに存在はあると思う。だけど目に見えないね」
感心したように、蒼は年上の少女を見た。
いつだって彼女は生き生きとした表情で、時々こちらが考えも及ばない発想に気付かせてくれる。
その度に蒼は「生」を感じる事が出来た。
自分は一度、生きる事を諦めようとした時がある。
だけど今、自分はこうして生きている。
その力をくれたのは彼女だ。
だから今度はそれを別の形で返したい。
蒼は麦わら帽子の彼女に告げた。
「エナ。僕はキミに恩返しがしたい」
「恩返し?先生はいつ鶴になったの?」
「はははっ。鶴の恩返しか。いいね。それ」
「先生?」
蒼は決意に満ちた顔で頷く。
「今度は僕が鶴になってエナの願いを叶える番だ」
「私の……願い?」
エナは首を傾げている。
「……エナをアイドル歌手にしてあげるよ。僕がまずその道を切り拓くから」
「先生……」
それは眠れない夜、こっそりエナと電話で話した時、エナが恥ずかしそうに自分にだけ教えてくれた夢の話だった。
アイドル歌手になりたいと。
その為に高校へは進学せず、父親のコネにも頼らず自分の力で頑張ってみたいと言っていた。
蒼は誓った。
彼女をアイドル歌手にしようと。
その日から蒼は名を捨て、秋海棠一十の元を訪れた。
蒼の事情を知った一十は、嫌な顔一つせず、この個人的な恩返しに協力してくれた。
彼の方にも目的はあったので、ある程度利害は一致していた。
それからは実に目まぐるしい毎日を過ごした。
一十がまず提案したのが、バンド活動だ。
そこからのし上がり、名前を売っていく。
最初は術後の心臓への負担を考えて、一十のサポートをしていたが、その後バンドのメンバー達は姿を消していき、最後に残った蒼がボーカルを務める事になってしまった。
今まで人前で歌った経験のない蒼には相当高いハードルだったが、それでもエナの夢に繋げようと必死で頑張った。
夢が形になったのは、蒼がボーカルになって二年後の事だ。
そこそこの実績を積んだ今、そろそろ「on time」の活動を控えて、新人アイドルプロデュースにシフトチェンジしよう。
そう一十が提案し、トロピカルエースの構想が生まれた。
最初蒼はエナをソロシンガーとしてデビューさせる為、準備を進めていたが、次第にエナ一人だけではやや個性が弱い為、他に2〜3人入れてのグループ構成が打診された。
そして生まれたのが、あの大々的なオーディション公募企画だった。
最初は動画サイトのみで進めていたオーディションが、徐々に注目を浴びてテレビ番組でも紹介されるようになり、視聴者と一緒にメンバーを選考している気持ちになった。
その内の二名は蒼と一十が今、注目している女の子を指名するという形になったので、蒼は迷わずエナを指名しようとしたのだが、それをエナに告げたら、即断られてしまった。
エナはやはり、自分の力でオーディションを通過する事に拘った。
彼女らしいと思った。
どこか抜けているような感じでいて、芯はしっかりしている。
まぁ、業界で注目している女の子という基準なので、その時点で何も芸能活動をしていない一般人のエナを指名するわけにはいかなかったのだが。
なので以前、蒼はラジオでゲスト出演した際に仲良くなった森さらさを推す事になった。
最初は断られると思っていたさらさへのオファーは意外なくらいあっさり了承された。
知り合いに聞くと、さらさは滅多に仕事を断る事はないそうだ。
その時には既に陽菜とさらさは正式に決まっていたのだが、彼女たちが発表されるのは三人の公募メンバーが決まってからになっていた。
果たしてエナは無事に受かるのだろうか。
直前まで不安で仕方なかったが、エナは順調に勝ち上がっていった。
そして最終的にトロピカルエースの最終メンバーに選ばれた。
蒼のやる事はそこまでで終わった。
☆☆☆
都内某所。
退院した一十はホテルの一室で曲を作っていた。
五線紙が床一面に散らばっている。
足の踏み場もなく紙の散らばる床を器用に歩く少年がいた。
「おや、天才ボーカリストくん。いらっしゃい」
「…もう、僕は「on time」の日羽渉じゃないよ。ただの「蒼」だ」
一十は肩をすくめる。
「そうだったね。あ、学校へはいつ復学するんだい?」
「秋からだよ。つまり来月からだね」
「そうか……。その前にエナちゃんに告白しないのかい?」
「えっ?僕が誰に?」
一十の言葉に蒼は目を見開く。
「はははっ。そんなに驚く事かい。キミは確かに彼女の夢を叶えたんだ。全てが叶った今、告白するなら今じゃないのかい?好きなんだろう?彼女が」
一十は机の上で指を組み、穏やかに微笑む。
「告白はしないよ。……出来ないよ。彼女は僕の恩人なんだ。僕なんかが触れていいものじゃない」
独白のように呟くと、軽いため息が聞こえた。
「相手はそうは思ってないかもしれないよ?」
「……だとしてもです」
「おやおや。キミも彼女も頑固だね」
全て達観したような一十は、再び肩をすくめ五線紙に向かう。
蒼はそんな一十に小さな報復をする。
「貴方もそろそろ彼女に本当の事を伝えたらどうなんですか?本当は女性を愛する事が出来るって」
一十はそれを聞いても動じる事はない。
いつもと変わらず、穏やかな海を思わせる瞳は揺らぐ事なく蒼に向かっている。
「それを伝えたら、ボク達は終わるよ…」
「…………まるで真昼の月ですね」
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