障子越しの鈴の音
ぱん
障子越しの鈴の音
鈴を鳴らす。
「……」
障子に透ける人影は手に持った灯篭をこちらに一度向けてはくれるが、すぐに去っていった。
逡巡もなく、ただ通り道であったとばかりに興味がない。
布団一式と、三着と貸し与えられた豪奢な着物。
月夜に映える紅を引き、白粉を塗した艶肌。
「今日も、独りなのね」
いつかの私と別人になってなお、選ばれないその悔しさが安堵を思わせるのはなぜだろうか。
迎えにくるはずもない人を待ち続けようとも、孤独な夜が続くはずはないと知っているのに。
果てはきっと、誰かにこの純白を染められる日が来てしまうのも知っているのに。
それでもやはり、思わずにはいられない。
「
かつて私を買うと告げるだけでお帰りになったあの人のことを。
それゆえ、今も橋向こうにかかる霧を見つめてはため息を吐く日々ばかり。
叶わぬ夢だと知っているから、というのもある。
夜空に輝く星のように手の届かない存在だということも理解しているからだ。学がなくとも、人の機微や格を見抜くのは感性一つで事足りる。
諦めきれないのは、こんな身でも幸せを手に入れられる、とあの人に希望を抱かされてしまったからだろう。
――一夜の蝶。
俗にそう呼ばれる私たちは、ただの遊女――男の欲を喰らって生きる夢幻の華は、素面で昼を歩くことに憧れているのだ。
気兼ねなく名を呼び合い、やんわりと手を繋いで、人目を憚らず微笑む。
ただそれだけの普通を味わうのに、ここでは一生を尽くしても得られないほどの大金がなければ享受することができない。
「――ふむ」
ぎぃ、と踏み鳴る張り木廊下の灯篭が、障子の前で止まった。
間を空け、「この娘で?」と囁くような女将の小声がする。
その言葉を聞いたのは二度目だった。
隣部屋の桜が二週間前に選ばれていなくなってから、それっきり。廊下を少し行った先の、お姉さま方へと会いに来る人が多いが、時たま、本当に稀なことに、この待ち通廊で意識を向けてくれる人もいる。
顔も見えない、声も聞けない。障子戸を開けるまでは、どんな女がいるかわからない――宝くじの商品がお前らだよ、と女将はいつか言っていた。
だから、あの日。
『――必ず、買いに戻ると信じていて』
そう言った帰りに開かれた障子戸の隙間から見えたあの夜は、ちょうど今日のような三日月であったと思う。
あの日と違うのは、そこにいるのが彼ではなく――つば広の白帽子に合わせたタキシード姿の、渋めの顎髭がちょっとだけ魅力的なお客さまということだ。
だけど。
「あぁ……――ようやく、会えた」
「……え?」
馴染みのない――そのはずの男性の声が笑った。
月明かりに影を落とす顔はよく見えないが、彼ではない。別れてから、たった数年の空白だ。口の端に差す笑い皴や顎髭だけでなく、首筋、灯篭を持つ手の肌であれ、今頃は二十代であろう彼にしては、こんなにも老けこんでしまうのはおかしいだろう。
だから目の前のお客さまは絶対に違う。
そうだ。ならば、より礼節を欠くわけにもいかないだろう。
「
「いえ、大事なお客さまを前にして礼儀を弁えるのは私どもの務めで……いえ、もう?」
三つ指ついて低頭に伏せる私は、何を言われているのかわからなかった。
もう、とは……と考えたところで導き出される答えはただ一つだった。
「私を、買われた……?」
「でなければ不作法だと、こちらの女将に怒られているのでは?」
「……確か、に。でも、それって」
――この屋敷から外に出るってこと?
確認するまでもない。冷たい視線を送りつつも、温かな雰囲気をまとう女将の顔は、私の思考を肯定している。
隣部屋の桜がそうであったように、私も連れ出される日がやってきたのだ、と。
「でも……でも、それじゃあ」
あの人との約束を守ることができないじゃないか。
あなたの言う通り、必ず私を買いに戻ってきてくれると信じていた。
待っていることを知らせるための合言葉に、通る人には必ず鈴を鳴らす約束も守ってきた。
一時はあなたに会う前に純白を散らす可能性を、遊女として覚悟した日もあった。このような身の上だ、真っ白なまま送られるなんてことは滅多にない。よほど待遇がよければそうだが、取り置きするにも高額な身請けは十代であったあの人に払える額ではないはずだ。
だからこそ、買いに戻るその日を心待ちにしていたというのに。
「もしかして、嬉しくはない?」
「いえ……そんな」
不思議そうに尋ねられ、反射的に私は頭を振っていた。
「外には興味を持っておりましたし、お客さまのような、その……高貴な方のお傍につけさせていただくような、この機会は大変うれしく思って、おります」
けど、と躓くようにして言葉が落ちる。
がっかりなんてしていない。
こんなことはよくあることだ。
この屋敷の子は、身請けを欲している。私も含め、酔狂なお姉さま方とは違って、新人の子を含めて多数が普通では生きていけなくなった子たちだ。
誰であれ、この薄暗い屋敷の一角に囚われれば最後、毎夜初めて会う男性を、見知った男性を、果ては嫌いな男性であれ、その相手をしなくてはいけない。苦痛と、不安とをいろんな感情を快楽で忘れるように、一時の享楽を慈しむ――自ら夢幻に堕ちて、現実を直視しなくなるのがコツなのだとお姉さま方は時折、酒の肴に話してくれるが、その通りに暮らせる子なんて数少ない。
だから当屋敷の入室には、必ず身請けの話がつけられる。
普通に暮らせない子を着飾り、部屋に上げるのはそのためとも言えた。
身請けとなれば金も高額となるし、新入りとなれば初夜代として割高にもなる。だから女将は気軽に今にも死にそうな子を拾ってきては、簡単に売りさばく。
ゆえに、この日が来るのは確定していた。
取り置いてくれたかもわからない彼の言葉を信じて部屋に居残り、毎日訪れる男にびくつきながら選ばれなかった夜を数年と安堵して過ごせてきたのは、ちょっとだけ運がよかっただけ。
拳を握り、少しだけ潤む瞳を閉じる。
意味もなく施してきた化粧も、今夜ばかりは落とすわけにはいかない。
気に入られなくては。気に入られて橋を渡れば、普通の生活を手にする望みは叶えられる。
この、タキシードのお客さまと。
――膝の上から落ちた鈴が、しゃりん、と床に跳ねた。
「……本当に、よいのでしょうか」
ぽつりと落ちた言葉は、誰への問いだったのだろう。
「私は……わたしは、こんな身の上でも、想い人が……好きな人が、いるの、です」
「――五ッ」
「こんな戯言をッ……語る口を持つことはおこがましいのは、理解しておりますとも。遊女として役に立たずとも養っていただいていることも感謝しておりますし、それにこんなにも綺麗な着物を貸し与えていただけて、本当に嬉しい。本来であれば野垂れ死んでいたであろう、親に見捨てられた孤児であった私を、ここまで美しく仕立てていただいたことには頭が上がりません」
でも、と怯えながら顔を上げると、鬼の形相をする女将と目が合った。
「……っ」
「大丈夫だから、続けて」
余計なことをして、と怒る女将の瞳に声が出なくなる私に、お客さまはつば広の帽子を取って、逆光で見えなかった優しげな眼差しを向けてくれる。
そして前に出ようとしていた女将を片手で制し、ただにこやかに笑いながら、彼は鈴を鳴らすように手を振った。
あの日、彼は言ったのだ。
『五十鈴はここに人が通るたびに鈴を鳴らして。そしたら僕は――』
「僕はその続きが聞きたいな」
『――同じように鈴を鳴らすよ』
「あ、の……わたし、はっ」
そんなこと、あり得るわけがなかった。
初めて出会ったあの夜。別れを知った寂しい夜。
ずっと楽しくて、見つめて、笑い合って、未来を想像した彼と――小五郎さまの眼差しと笑みに、どうしてかお客さまの顔が重なって言葉が出なかった。
目尻を腫らす熱が、はらり、と頬に滑り落ちる。
「しょう、五郎……さま?」
私の言葉に恥ずかしそうに笑いつつ両手を広げる彼は、一言「おいで」と囁いた。
「迎えに来たよ、五十鈴」
その瞬間、私はがむしゃらに彼の胸に飛び込んでいた。
香りも、温もりも、体格だって随分と変わっている。本当に小五郎さまだという断定もできない。ちょうどいい力加減で抱きしめるその腕も、ちょっとだけキザにかっこつけようとして恥ずかしくなって笑うところも、ただ似ていただけの笑みも、眼差しも。
鳴らすと言った鈴も持たず、フリをするだけ。
そのどれもが違って、似通っているだけなのに、私は一瞬で彼を小五郎さまだと信じていた。
「遅くなってごめんね」
「そうです……危うくあなた以外に買われてしまうところだったのに。約束の鈴も持っていないし、見た目も違うし。謝罪が軽薄なのではっ?」
「はは……申し開きもできないな」
「思ってもいないでしょうっ、すまないなんてっ!」
「はは、そんなまさか」
抗議の声をあげようと、のらりくらりと交わす彼は、やはり私の知る小五郎さまから少しだけ離れていた。別れてから数年と経っているのだから致し方ないが、それでもこの経験値の差は大きすぎる。見た目通り、彼は何十年と私よりも先を行っているのは間違いではなさそうだ。
でもそれはどういう理屈なのだろう、と疑問が浮かんだところで、小五郎さまは尋ねてきた。
「ところで、先の続きを聞いてもよいだろうか?」
「さっきのって、それは……」
中断された、してしまった大切な部分。
女将の怒号すら途中で遮って続けた言の葉の続きを、小五郎さまはわかっていて欲しているようだった。少しだけいやらしくニヤニヤと笑って、ちょっとだけ親父くさくなるその眼差しが、他の人は嫌なのに、少しだけ嬉しかった。
「おじさんになってちょっと意地悪になったのではなくて? 小五郎さま」
「年相応と言ってほしいよ。年若いままの君に悪戯したくなるのは、おじさん特有なんだよ」
「ま、いやらしいこと」
「いいだろうに」
ふふっ、と笑って、私は胸の中から彼を見つめ上げる。
すると後頭部を掻いた小五郎さまは、明後日の方角に視線を投げていた。
まるで、初めて同士だったあの夜、規定通りに寝所へとお誘いした私に「もっと話したい」と一度も目を見ずに断りを入れた時みたいだ。
なんてかわいらしいのだろう。見た目は年を取っても中身はあの夜のままなんて。
「――お慕い申しております、と告げようとしたのです。小五郎さまを」
「こんなになっていても?」
「小五郎さまは、小五郎さまでしょう?」
「ああ。だ、そうだ。女将さん」
蚊帳の外であった女将へと首を向ける小五郎さまは、胸の中の私を片手に抱きしめ、立ち上がって続けた。
「これで彼女を買ったということでいいな?」
「ええ、結構」
じろっ、睨むようにこちらを一瞥する女将から彼の陰に隠れると、彼女は灯篭の灯を完全に消し、踵を返す。
三日月だけが浮かぶ夜空は、殺風景なのに美しく感じた。
「幸せにおなりよ。五十鈴」
§ § §
山へと入ったのは、金になるものを探そうと思い至ったからだという。
陽が暮れ、変容する景色に辿ってきた道筋がわからなくなって彷徨っていたところ、なぜか見知らぬ橋の上にいたという小五郎さまは、この現象を迷い家だと言った。
「迷い家を訪れた者には富がもたらされる。言い伝えの通り、僕はあの女将に金をもらった」
「女将に?」
橋の手すりに触れると、浅く広く先の見えない川を眺めながら、小五郎さまは首肯する。
「一欠片でもなく、金塊だよ。一つでなく、数十個。金は欲しいがこんなには受け取れない断ると、女将は身請けはどうだと勧めてきたんだ」
屋敷の取り決めだ。この屋敷を利用するのは、裕福な人が多い。務める子たちもここで一生を終える気がなければ居続けるようなタフさもない。女将も最初から身請けで得られる大金目当てのところがあるのを知っていたから、道理は合っている。
「でも、どうして女将は自ら金塊を渡しつつも、身請けの話をするのでしょう。まるで最初から渡す気がないとも取れますけど」
「渡す気がないんじゃない。試しているんだ」
「?」
「欲深ければ富は失するってことなんだと思う。今回の場合は、肉欲のままに女を買えば金は失うし、その買った女にも多分裏切られる」
金を手に入れて屋敷を出られたならば、あとは自由に暮らせる。現状はお金がなく、衣食住を揃える手段がないから屋敷にいる子ばかりだから、そのすべてが補える転機は誰しも逃さないだろうことは頷ける。
こちらに夢中の男なら、側についた方が簡単に奪いやすいもの。
「まあとはいえ、僕も女の子に興味のあった年頃だ。話半分で屋敷に入って、僕は君の部屋に行ったというわけ」
「やっぱり、その頃からいやらしかったわけですか」
「あ、や……仕方ないだろう。男なんだから、子孫を残す本能に逆らえないんだ」
「我慢できた方がかっこいいと思いますけどね」
「その、我慢した結果がこれだけど」
と、小五郎さまは自身を親指で差した。
「あの日から三〇と四年。君に再会するために賭けた時間は決して少なくないだろ?」
「……三四年も」
思わず繰り返し、息を呑む。
「ここでは、そんなにも時間は経っていません」
「わかってるよ。ここが現実と違う時間軸なのは承知してる。あの時は理解していなかったけど、五十鈴が僕と同じ時代に生まれた人間でないというのも、今は感覚的だけどわかる」
それを聞いて、なんだか空寒い感覚が肌を走り抜けた。
「今は……今の年号は大正、ですか?」
「違う。令和という年号だよ」
「えっと、それ……は?」
「大正からしたら、未来になる。そこから数えるなら、年号が変わって三度目だ」
未来。想像しづらいその単語は、確かに小五郎さまの姿を如実に表している。
周囲一帯を霧に囲まれ、橋向こうの景色が一年を通して見ることは叶わないこの遊郭は、確かに考えてみればあるはずの空の先も、山々や造られた公道でさえ、橋を渡りきる直前で濃霧によって消失している。
ただ、そうは言っても来客がないわけじゃない。向こうからは時折、人がやってくる。いろんな服装で、たまには外国の方もいる多様性を極めた来訪は、帰る人もいれば居残る人もいた。
彼らのおかげで時折、知らない食べ物が出回ったり、治らないと言われた病も完治するに至ったケースも見てきた。小五郎さまの言葉が正しいのならば、あれは未来の食べ物だったり、技術だったりしたのだろう。
「小五郎さま……?」
霧を目前にし、橋の中腹で足を止める小五郎さまは、私の手を握る力を強めていた。
「ねえ、五十鈴。現実に戻ったら、何かしたいことはある?」
こちらに振り向かず質問を口にする小五郎さまは、苦笑いするように口端を引いていた。
「僕はね、いっぱいあった。いっぱりありすぎて――そしたらもう、こんな歳だ。あとはよぼよぼのおじいちゃんになるだけだと思うと、人生はあっという間だったなって思うよ」
さらに強くなった握る手は、なんだか震えている。
「大丈夫ですよ、小五郎さま……私は、五十鈴はずっと」
「これから先、僕はきっと君を置いて進んでいってしまう。歩調を合わせることも、同じ楽しみを味わうことも、少しずつズレていく感覚に耐え切れなくて、意味もなく怒鳴るかもしれない。それでも、五十鈴は――ぶべしっ!?」
話を聞いていたら、なぜか小五郎さまの頬をぶっ叩いてる右手がありました。
「なっ、何をするんだよ! 僕は大事な話をぶぐっぁ!」
「だからうるさいですね、小五郎さまは」
二度叩いた左頬を背伸びして擦ってあげながら、私はただ一つのことを考えていた。
「小五郎さまはどうして私の将来の心配ばかりして、ちっとも傍にいる今を大切にしてくれないのでしょうね」
おじさんとなっても涙目になる彼を引きずるようにして、一歩踏み出す。
「あなたとこうして歩くだけで幸せになれる私を、どうして見てくれないのかなと」
「い、五十鈴……っ、ちょっと」
「本当に、小五郎さまは意地悪なのではないですか? ねえ――?」
そう言って霧へと半歩踏み入れた私は、踵でくるっと回転した。
迎える小五郎さまの驚いた顔は愛らしくて、そうせざるを得ないのは確信的、運命とも言えるものだったと思う。
「い、っ十鈴――!?」
「共に歩く未来なら、五十鈴はどこでもお供しますから」
重力に従って背から落ちる感覚は、とてもゆっくりだった。
慌てて抱き寄せようとする小五郎さまの腕に包まれつつ、ハプニングを期待して目を閉じる。
「いつまでもお慕いしております。小五郎さま」
初めて重なった温もりはとても甘く、そして――
§ § §
東京都、渋谷。
厚い曇に覆われた五月空の下、ちょうど青に変わったスクランブル交差点の雑踏に倒れたのは、年若い男女だった。その拍子にファーストキスを奪い合い、二人して赤面して立ち上がり数秒、硬直していたのが嘘のように、今は点滅する信号めがけてひた走っている。
「小五郎さまっ」
軽い足取りで小五郎の手を引くのは、現代の服装に合わせた五十鈴だった。
長い黒髪を頭頂に纏め、すっきりとお団子にした彼女は笑みを咲かせてはしゃいでいる。
ここはどこだ、この服は、どうしたの小五郎さまっ、と濃霧に入ってすぐ、スクランブル交差点中央へと放り出された衝撃から立て続く驚きに、とうとう頭をおかしくしたのか、突然同い年近くに若返った身体にもたもたする彼を引っ張る彼女はとても輝いていた。
――手向けはまあ、これぐらいでよいのだろう。
重ねた時間を奪うぐらいは造作もないと、安楽椅子に腰かける彼女は手元に渡った富に触れ、まぶたの奥で幸せを謳歌する娘に微笑む。
昼間の空の下、愛しい人と手を繋ぎ、笑い合う――
心地よい我が子の夢に浸りながら、彼女は今日も異邦の客人を招き入れる。
障子越しの鈴の音 ぱん @hazuki_pun
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