Case3 Occult

第1話 魔法つかい

青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまでしずんでる、

昼のお星はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。


ちってすがれたたんぽぽの、

かわらのすきにだァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。


(金子みすゞ『ほしとたんぽぽ』)




 くたびれたにおいのするワンルーム。母の膝の上で冷えた足を擦り合わせ天井の染みを数えていると、いつだってそのうつくしい言の葉が降ってきた。

 ほろほろと乾いた花びらのようにこぼれ落ちていく音たちは、けれどひとたび百々のはだに触れると、水みたいに馴染んで身体の中心へとそそいでゆく。

 母の夢見るようなまどかな声を聴いているその瞬間だけは、隙間風が入り込む、お世辞にも立派とは言えないちいさな家の姿は遠ざかり、目の前を果てしない星の海が広がってゆく気がした。


 物心ついたころにはふたりぽっちで暮らしていた。

 どうにも世間の普通の家庭というものには、父親という存在がいるらしい。そう気づいたのは、小学校に上がるか上がらないかのときだった。百々の母は“しんぐるまざー”で“夜のしごと”をしているのだと知ったのも、母から直接聞いたのではなく、同じクラスの子を介してだった。

 みんなが買ってもらったというぴかぴかのランドセルも、入学式のリボンのついたすてきなスーツも、百々は知らない。遠足の日はお弁当の代わりにコンビニ袋を提げていくこともあったし、家の人に書いてもらわなければいけないだいじなお手紙を百々はよく家に忘れた。ほんとうは忘れたわけではなかったけれど、そうでないと母が悪く言われるので、てっとり早く忘れたことにした。

 そういうちいさな積み重ねは、みんなが持っている友だちというなにかとくべつで、ごく普通らしいなにかを得ることを、とてもむずかしいものにした。

 母は朝な夕な仕事に出かけて、百々はいつも鍵っ子で、ふたりぽっちのときよりひとりぽっちのときのほうがずっと沢山あった。


 それでもあの狭いアパート暮らしをしていたころは、強がりでもなんでもなく幸せだった。

 冬の日に毛布を分け合って寒いねと笑い合う夕暮れどきや、百々が詩を暗唱するなり、百々ちゃんは天才ね、と馬鹿みたいに大げさに褒めそやして抱きしめてくれる細いしっとりと濡れた腕。

 百々が愛したぜんぶが、あの窮屈な部屋にあった。


 でも、百々がいっとう愛したのは、母の琥珀の色をしたまなざしだ。

 真昼の見えない星々や、土の下の花の根や、大漁に浮かれる漁村の海の底でしめやかに行われる、魚たちの葬送。そんなものを見つめつづける母のやさしさとつよさは、日々の生活のなかで擦り傷まみれになった百々の心に染み入るようだった。

 そのころの百々はもう、誰かに分け与える愛やいたわりは、誰もが持ちえるものではないと十二分に知っていた。


 それに、母には他の人にはないとくべつな特技があった。


「百々ちゃん、今日は学校でなにかいやなことがあった?」

「百々ちゃん、今日はハンバーグ食べたかったでしょ?」

「百々ちゃん、今日はいつもよりさみしい気分?」


 母には人の心が見えた。

 母はむずかしい言葉で、“せんりがん”だとか、“くれあぼやんす”だとか言った。それはとてもすてきで、誇らしいことに思えて、百々は花笑みめいて笑った。


「おかあさんは、魔法つかいだね!」


 そう、無邪気に声を弾ませたのを憶えている。おぼえて、いる。


 母はうっとりと白日の夢に揺蕩いながら、頬を染めて少女のように朱唇をほころばせた。

 それからさほど時を隔てずして、母はちいさなふたりぽっちの家に或るものを持ち帰る。それは人の名だった。六音の、母が宝物みたいに呼ばう、百々が知らない名だった。


 そうして間もなく、百々はその窮屈でいとおしい、色褪せた家を出る。

 次に連れられて行った場所は、ぴかぴかで、塗りたてのペンキのにおいのする大きな大きな家だった。そこには、母をなにかとてもきよらかでおごそかで近寄りがたい名で呼ぶ人たちがたくさんいた。家族が増えたのだと言われたけれど、その代わりに百々は、母をおかあさんと呼べなくなった。


 母を決定的に変えたのは、モリミヤジンであり、カルト教団『ひかりのいえ』であり、母自身であったことに疑いはない。


 けれど。

 もしあの日。

 あの日、百々が母に別の言葉を掛けていたのなら。

 母はまだ、あの狭くてくたびれたアパートの一室で、やさしいうたをうたっていただろうか。そう、考える。

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