四季と風のゆめ

月海 薫

第一話 春

 足が痛い。


 もう治ったはずの足をさすり、はるかは目を覚ました。スマホはAM5:30を示している。カーテンの隙間から漏れた光がまぶしい。


 宿泊学習の朝は早い。もう少ししたら、起きなければいけない時間だ。わざわざ遠くまで来て泊まりがけで勉強なんて。2日目だというのにやっぱりやる気が出ない。友達は楽しそうだったけれど、私は億劫な気持ちが勝っていた。


 まだもうちょっと寝れたな、と損した気分になりながら、トイレに行こうと静かに布団を出た。みんなまだ寝ているみたいだったけれど、出入り口に一番近い場所だったので楽だった。というか、そもそも洗面台やトイレのない部屋なんて不便すぎる。


 廊下に出ると、空いた窓から吹いたさわやかな風が頬にあたった。少し雨のにおいが混ざったような、夏の朝の匂いがする。もう春は終わったんだ。



 痛む足をかばいながら廊下を歩いていると、向こうから水野みずの先生が歩いてきた。ファイルやらなにやらたくさん抱えている。学校指定のジャージを着ているとは言え、寝起きの姿を見られるのは少し恥ずかしくて、手で髪を整えながら話しかけた。


「先生」

「早いね。おはよう。…どうかした?」

「なんか、起きたら足が痛くて」

「あれからずいぶん経つのにね…湿布いる?」

「うん、いる」

「じゃあこれ片づけたら部屋に持っていくから待ってて」

「はい。先生、荷物大丈夫?」


 水野先生は大丈夫大丈夫、と言いながら笑って行ってしまった。


 養護教諭の水野先生はなんでも話せる良き相談相手だ。私が怪我をしたとき、すごく支えてくれた。前からよく話していたけど、その怪我をきっかけに距離が近くなった。学校のことからプライベートなことまで、今では友達よりなんでも知ってるかもしれない。話していると、すごく癒されるから不思議だ。



 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、階段に続く曲がり角で誰かにぶつかった。よく前を見ていなかったからだ。驚いて心臓が飛び跳ねた。足音にも気が付かないなんて、最近ぼーっとしすぎだ。その自覚はあったけれど、どうすることもできなかった。


「わっ」

「あ、ごめん」


 顔を見上げると晴翔はるとがいた。一瞬時が止まる。一気に顔が熱くなっていくのを感じた。心臓もうるさい。目が合ったのに、晴翔はそれ以上何も言わないで目を逸らし、通り過ぎた。


「ねぇ」


 振り向いて声をかける。心の中を悟られないような声を出せたことに、自分でもびっくりした。晴翔が振り向いてこっちを見た。


「えと…トイレ怖いからついてきて」


 自分でも何を言ってるんだろと思いながら、晴翔の顔を見ると、懐かしい気持ちがよみがえってくる。


「はあ?やだよ。がんばれ。俺もうすぐ朝練だし」


 困ったような表情で少し笑うと、そのまま行ってしまった。その事実に向き合いたくなくて、勉強に来ているのに朝練するんだ、なんてのんきなことを考えている自分がいる。もう少し、話したい。


 そんな気持ちを打ち消すかのように、二人の距離はどんどん離れていく。やっぱり、もう元には戻れない。だけど、全部私が悪い。



 晴翔が行ってしまった後も、晴翔のことが頭から離れなかった。あの日もう少しこうしていたら、とか、あのときもっと上手く話せたら、とか、考えてもしかたのない事をどんどん考えてしまう。


 うつむきながら歩いていると、トイレの入り口に桜の花びらが一枚落ちているのに気がついた。春はもう終わったのに。いつまでここにあるんだろう。洗面台には他のクラスの女の子が2人いた。日焼け止めを塗りながら何か話している。朝の静かな空気に、楽しそうな声が響いていた。鏡は笑顔の二人を映し出す。



 私がトイレの個室から出ると、もう誰もいなくなっていた。手を洗って鏡を見ると、さっきまで楽しそうな二人を写していた鏡には、ぼんやりした顔が写っていた。晴翔と一緒にいたころの私は、もっと…違ってた気がするのに。


 スマホの時計はAM5:48を示していた。もう戻らなきゃ、とトイレを出ようとのドアを開けた瞬間、刺すような強い風が吹いてたくさんの桜の花びらが一気に舞った。


「うわっ」


 突然の風とピンク色の視界に驚いてぎゅっと目をつむった。





「あれっ、学校...?」


 目を開けると、見慣れた学校の景色がそこにあった。夕日が差し込んできた校舎はとても綺麗で、いかにも青春という感じがするこの時間帯は、好きな時間帯の一つだった。でもさっきまで朝だったのに、いや、そもそも学校にはいなかったはずだ。


 空いた窓から、桜の花びらが入り込んできている。足も痛くないし、制服を着ている。


 どのくらい時間が経っただろう。わけがわからず立ち尽くしていると、誰かが近づいてきたのに気づいて、顔を上げた。


 晴翔だった。


「晴翔」

「遥。まだ帰ってなかったの?一緒に帰ろ。あれっカバンは?」

「...」

「どした?」

「えと…」

「まだ教室?一緒に取りに行ってやるよ」


 晴翔は私の手を引いて教室に戻った。学校は、いつもの学校だったから少しだけ安心した。


 いったい、なにが起きてるんだろう。


「遥、大丈夫?具合でも悪い?」

「ううん、大丈夫」

「そっか」


 晴翔は楽しそうに話しかけてくる。さっき、朝、会った晴翔は、目も合わせようとしなかったのに。まるで別人だ。昔に戻ったみたい。


 晴翔の話も、いつかどこかで聞いたような話だった。戸惑いながらも、あのころの気持ちに戻っていく。




 そしてふと思った。もしかして、本当に昔に戻っちゃったんだろうか。そういえば私がけがをした日にそっくりだ。あの日もこんなふうに一緒に帰って、晴翔と別れた後に歩道橋の階段から落ちて怪我をした。


 結構な高さを落ちたのに、幸いにも大した怪我ではなかった。しかし、恐怖で塞ぎ込んでしまった私は、長く学校を休み、晴翔とも距離をおいてしまった。この微妙な関係はこの怪我のせいだ。


 気づいてからは、その日としか思えなくなってくる。同じように歩き、授業の話、部活の話。前に晴翔と話したような話をする。


 ふと、自分を俯瞰する自分がいる。このまま怪我をしなかったら、このときのまま、過ごせるんじゃないかな。やっぱり私、まだ晴翔のこと…。



「じゃあ、また明日」

「...うん、また」


 いつの間にか分かれ道に着いて、私はそれしか言えなかった。晴翔は行ってしまった。


 いつもの歩道橋に差し掛かる。何でもない階段なのに、見上げるとちょっと怖い。そばにある桜の木からは、花びらが舞っていた。


 階段なんて気をつけて登れば大丈夫、と自分に言い聞かせて、一段一段、ゆっくり登った。いつもの倍の時間をかけた。もうちょっとで階段をのぼりきる。よかった、今度は怪我をしなくてすみそうだ。


 そのとき、急に強い風が吹いた。あおられた私は階段で足を滑らせ、バランスを崩した。


 視界の中で、桜吹雪が揺れた。


 ああ、やっぱり怪我をするんだ。現実は何も変わらなくて、自分でも変えられず、このまま過ごしていくしかないんだ。そんな諦めにも似た絶望感を感じたとき、はっと気づいた。窓から朝のさわやかな光が差し込んでいる。私はトイレの前にいた。


「えっ...夢?だったの?」


 静かな廊下にやさしく風が吹いた。立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。




 だけど自分の中で一つの答えが出ていた。ずっとしまい込んでいたもの。気づかないふりをしていたもの。晴翔に言いたいことがある。考えるより先に、私は前を向いて歩きだしていた。もう足は痛くなかった。


 そのとき、肩についた桜の花びらがはらりと落ちた。


「あっ」

「トイレ長かったな」


 部屋の前に晴翔がいた。


「あのさ、」

「あのね、」

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