四季と風のゆめ
月海 薫
第一話 春
足が痛い。
もう治ったはずの足をさすり、
宿泊学習の朝は早い。もう少ししたら、起きなければいけない時間だ。わざわざ遠くまで来て泊まりがけで勉強なんて。2日目だというのにやっぱりやる気が出ない。友達は楽しそうだったけれど、私は億劫な気持ちが勝っていた。
まだもうちょっと寝れたな、と損した気分になりながら、トイレに行こうと静かに布団を出た。みんなまだ寝ているみたいだったけれど、出入り口に一番近い場所だったので楽だった。というか、そもそも洗面台やトイレのない部屋なんて不便すぎる。
廊下に出ると、空いた窓から吹いたさわやかな風が頬にあたった。少し雨のにおいが混ざったような、夏の朝の匂いがする。もう春は終わったんだ。
痛む足をかばいながら廊下を歩いていると、向こうから
「先生」
「早いね。おはよう。…どうかした?」
「なんか、起きたら足が痛くて」
「あれからずいぶん経つのにね…湿布いる?」
「うん、いる」
「じゃあこれ片づけたら部屋に持っていくから待ってて」
「はい。先生、荷物大丈夫?」
水野先生は大丈夫大丈夫、と言いながら笑って行ってしまった。
養護教諭の水野先生はなんでも話せる良き相談相手だ。私が怪我をしたとき、すごく支えてくれた。前からよく話していたけど、その怪我をきっかけに距離が近くなった。学校のことからプライベートなことまで、今では友達よりなんでも知ってるかもしれない。話していると、すごく癒されるから不思議だ。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、階段に続く曲がり角で誰かにぶつかった。よく前を見ていなかったからだ。驚いて心臓が飛び跳ねた。足音にも気が付かないなんて、最近ぼーっとしすぎだ。その自覚はあったけれど、どうすることもできなかった。
「わっ」
「あ、ごめん」
顔を見上げると
「ねぇ」
振り向いて声をかける。心の中を悟られないような声を出せたことに、自分でもびっくりした。晴翔が振り向いてこっちを見た。
「えと…トイレ怖いからついてきて」
自分でも何を言ってるんだろと思いながら、晴翔の顔を見ると、懐かしい気持ちがよみがえってくる。
「はあ?やだよ。がんばれ。俺もうすぐ朝練だし」
困ったような表情で少し笑うと、そのまま行ってしまった。その事実に向き合いたくなくて、勉強に来ているのに朝練するんだ、なんてのんきなことを考えている自分がいる。もう少し、話したい。
そんな気持ちを打ち消すかのように、二人の距離はどんどん離れていく。やっぱり、もう元には戻れない。だけど、全部私が悪い。
晴翔が行ってしまった後も、晴翔のことが頭から離れなかった。あの日もう少しこうしていたら、とか、あのときもっと上手く話せたら、とか、考えてもしかたのない事をどんどん考えてしまう。
うつむきながら歩いていると、トイレの入り口に桜の花びらが一枚落ちているのに気がついた。春はもう終わったのに。いつまでここにあるんだろう。洗面台には他のクラスの女の子が2人いた。日焼け止めを塗りながら何か話している。朝の静かな空気に、楽しそうな声が響いていた。鏡は笑顔の二人を映し出す。
私がトイレの個室から出ると、もう誰もいなくなっていた。手を洗って鏡を見ると、さっきまで楽しそうな二人を写していた鏡には、ぼんやりした顔が写っていた。晴翔と一緒にいたころの私は、もっと…違ってた気がするのに。
スマホの時計はAM5:48を示していた。もう戻らなきゃ、とトイレを出ようとのドアを開けた瞬間、刺すような強い風が吹いてたくさんの桜の花びらが一気に舞った。
「うわっ」
突然の風とピンク色の視界に驚いてぎゅっと目をつむった。
「あれっ、学校...?」
目を開けると、見慣れた学校の景色がそこにあった。夕日が差し込んできた校舎はとても綺麗で、いかにも青春という感じがするこの時間帯は、好きな時間帯の一つだった。でもさっきまで朝だったのに、いや、そもそも学校にはいなかったはずだ。
空いた窓から、桜の花びらが入り込んできている。足も痛くないし、制服を着ている。
どのくらい時間が経っただろう。わけがわからず立ち尽くしていると、誰かが近づいてきたのに気づいて、顔を上げた。
晴翔だった。
「晴翔」
「遥。まだ帰ってなかったの?一緒に帰ろ。あれっカバンは?」
「...」
「どした?」
「えと…」
「まだ教室?一緒に取りに行ってやるよ」
晴翔は私の手を引いて教室に戻った。学校は、いつもの学校だったから少しだけ安心した。
いったい、なにが起きてるんだろう。
「遥、大丈夫?具合でも悪い?」
「ううん、大丈夫」
「そっか」
晴翔は楽しそうに話しかけてくる。さっき、朝、会った晴翔は、目も合わせようとしなかったのに。まるで別人だ。昔に戻ったみたい。
晴翔の話も、いつかどこかで聞いたような話だった。戸惑いながらも、あのころの気持ちに戻っていく。
そしてふと思った。もしかして、本当に昔に戻っちゃったんだろうか。そういえば私がけがをした日にそっくりだ。あの日もこんなふうに一緒に帰って、晴翔と別れた後に歩道橋の階段から落ちて怪我をした。
結構な高さを落ちたのに、幸いにも大した怪我ではなかった。しかし、恐怖で塞ぎ込んでしまった私は、長く学校を休み、晴翔とも距離をおいてしまった。この微妙な関係はこの怪我のせいだ。
気づいてからは、その日としか思えなくなってくる。同じように歩き、授業の話、部活の話。前に晴翔と話したような話をする。
ふと、自分を俯瞰する自分がいる。このまま怪我をしなかったら、このときのまま、過ごせるんじゃないかな。やっぱり私、まだ晴翔のこと…。
「じゃあ、また明日」
「...うん、また」
いつの間にか分かれ道に着いて、私はそれしか言えなかった。晴翔は行ってしまった。
いつもの歩道橋に差し掛かる。何でもない階段なのに、見上げるとちょっと怖い。そばにある桜の木からは、花びらが舞っていた。
階段なんて気をつけて登れば大丈夫、と自分に言い聞かせて、一段一段、ゆっくり登った。いつもの倍の時間をかけた。もうちょっとで階段をのぼりきる。よかった、今度は怪我をしなくてすみそうだ。
そのとき、急に強い風が吹いた。あおられた私は階段で足を滑らせ、バランスを崩した。
視界の中で、桜吹雪が揺れた。
ああ、やっぱり怪我をするんだ。現実は何も変わらなくて、自分でも変えられず、このまま過ごしていくしかないんだ。そんな諦めにも似た絶望感を感じたとき、はっと気づいた。窓から朝のさわやかな光が差し込んでいる。私はトイレの前にいた。
「えっ...夢?だったの?」
静かな廊下にやさしく風が吹いた。立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
だけど自分の中で一つの答えが出ていた。ずっとしまい込んでいたもの。気づかないふりをしていたもの。晴翔に言いたいことがある。考えるより先に、私は前を向いて歩きだしていた。もう足は痛くなかった。
そのとき、肩についた桜の花びらがはらりと落ちた。
「あっ」
「トイレ長かったな」
部屋の前に晴翔がいた。
「あのさ、」
「あのね、」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます