シベリヤ
脳みそトコロテン装置
チューリングマシン
世界大戦も終盤に差し掛かり、誰もはっきりとは言わないものの何となく敗戦ムードが漂っている中でもこの帝国大学数学教室は明るい話題が絶えなかった。最近出版された論文や、これから論文にする予定の研究ノートがそこら中に積まれた隙間から見える青空は今日も見事である。
コーヒーの匂いが染みついた部屋の中で、使い慣れた椅子に体を深く沈め、ぼんやりと窓の外を眺めていると自然たちは人間の都合など与り知らぬと言わんばかりに毎年同じ景色を見せてくれるものだなと感じる。
そんな自然たちと取っ組みあい、少しでも理解しようとする私たちの営みがこの戦時下において許されているのは、終戦後の人類の復興を見据えたロスアラモス条約のおかげだ。この条約のおかげで国際的な学会や共同研究が誰に憚るでもなく行えるし、国内の研究者に対して不当な扱いをすれば国際的な制裁が加えられる。アカデミアの世界はまさにサンクチュアリとなっている。
しかしながら、条約があるからと一筋縄ではいかないのが戦争というものである。外国人が絶えず出入りし、研究員が頻繁に海外へ出ているこの帝国大学理学部はスパイ活動の調査との名目で度々軍部からガサ入れがくる。特に我々数学教室は『数式に偽装した暗号文ではないか』とか、『この理論を使うと他国がわが軍の暗号を解読できるのではないか』といった謂れのない疑惑を吹っ掛けられることも多いが、当然やましいことも何も無いので素直に捜査に協力すれば小一時間で帰ってくれる。小一時間というのはもちろんあの男が居ない場合であるが。
―――
「おいお前!勝手に触るな計算メモがグチャグチャになるだろう!せめて元に戻せよ!」
共用スペースに勝手に計算ノートを置いているくせに威勢よく捜査員の若い士官に啖呵を切っているのが我が帝大が誇る天才数学者、
私が院生時代にとんでもない新入生が学部に入ってきたぞと話題になったのを昨日のことかのように覚えている。気づけばもう私より偉くなってしまった。
「こんなところに何の断りもなく計算ノートを置いている君も悪いんですよ、勝手に触られたくないものはちゃんと自分の研究室に仕舞っておきなさい」
「なんだよ、澤野井も国家権力に与するってのか?」
私、
「国家権力もヘチマも無いです!いいですか?自分のものは自分の部屋に置く、出したら仕舞う、共用スペースは散らかさない、これは常識です。政治的思想など関係ないです!」
「そうやっていつも君は口うるさく僕を子供みたいに扱って、」
「あなたが子供みたいなことするからです!!!お行儀良くしろとは言いませんがもう少し帝大の教授としての自覚を持ってください!!」
「まぁまぁ、澤野井先生、いいじゃないですか、ここは自由を売りにした帝国大学理学部でしょう?」
「しかし外部の皆様に迷惑をかけてしまうとなると…」
新谷との仲裁に割って入ってくれたのは陸軍大佐の
吉野大佐は嘗て帝大の教授であったからか、帝大には随分と手心を加えてくれているのだ。特に私は幼いころから勉強を見て貰っていたこともあって、特別よくしてくれているし捜査が来るたびに挨拶にも来てくれる。新谷があれほどまでに踏ん反り返っていても口頭注意までで、実質お咎めなしになっているのも大佐の尽力であると私は踏んでいる(大佐は『私はそんなことできるほどに偉くはないですよ』といつも言っているが、大佐がそんなことできるほどに偉くないはずがない。あの人は昔からこうして謙遜するのだ)。
「まぁ、今日はこの辺にしておきましょう。あんまり引っ掻き回して教授先生方の迷惑になってもいけません。特に今は期末試験の期間らしいですからね。それに今日は飛び切り熱いですから皆さんも疲れたでしょう。帰りにかき氷でもいかがです?この近所に行きつけの店がありましてね、私の奢りです、皆さん今日も頑張ってくれましたからね。」
「大佐!僕もごちそうになっても、」
「あなたはまず線形代数学の試験問題を作りなさい、どうせまだ作ってないんでしょう?試験は明日なんですよ?あんまり御座なりな問題を出しては一回生がかわいそうです」
「なんでい、けちんぼだナァ。そんなに言うなら澤野井が作ってくれよ。」
「三円。」
「はぁ?」
「三円払っていただけたら代行引き受けます」
「な、そんな試験問題程度で三円なんてぼったくりにもほどがあるだろう!せめて50銭とかさ、」
「試験問題程度とおっしゃるのならどうぞご自分で問題を作ってください。さぁ、とっとと研究室に戻って。あ、その辺の紙も全部ちゃんとご自分の部屋に仕舞ってくださいね。」
「澤野井君は新谷先生のお母さんみたいですね。澤野井君も来ますか?百万遍のところのあの店なんですが。」
「ええ、ではお言葉に甘えて。」
―――
百万遍にある甘味処は昔から帝大の学生や研究者の疲れた脳を癒してきた。特に夏場のかき氷は京都のバカみたいな暑さを忘れさせてくれる。今はちょうど試験前の詰め込みの時期なのか学生はあまり来ておらず、十数名の大所帯で来た私たちは特に待つことなく大座敷へ案内された。
「吉野大佐とここへ来るのはいつぶりでしょうか」
「確か澤野井君が修士になるかならないかくらいのセミナー終わりだったと思いますよ。私は君の修士論文を審査できなかったのを惜しく感じたのをよく覚えています。」
「ああ、そうでしたそうでした。指導教官を引き継いでくれた永田先生は大佐が軍部に行ってしまったのを惜しんでいましたね。」
「そうでしたか、永田君にも久しくあっていませんね。今度の休みにでも挨拶にいくことにしましょう。」
「きっと永田先生も喜びますよ。」
私たちが思い出話に花を咲かせているうちに座敷にはもうかき氷が運ばれてきていた。
「いやー、ここのかき氷は昔と変わらないですね。この練乳が今でも忘れられないんです。」
ここのかき氷は山盛りの氷に練乳をかけ放題であるという太っ腹仕様である。私と吉野大佐にとっては昔懐かしの思い出の詰まったかき氷であるが、一緒にきた士官にとっては初めてのかき氷である。みんな目を輝かせ、歓声を上げて盛り上がっていた。
「大佐、では、ごちそうになります。」
「ええ、どうぞどうぞ遠慮なく。何ならお代わりをしてもかまいませんよ、おいしいものはたくさん食べるに限ります。」
「ええ、そんな申し訳ないですよ大佐、ただでさえ人数が多いのに…」
「士官さん、ここはお代わり自由なんですよ。学生の時分には随分と助けられました。たった二銭で三日は食わなくて済むという人だっています。」
「はぁ、そうでしたか。では遠慮なく、いただきます。」
「澤野井君、そういうことは黙ってないと。私のケチがばれてしまうじゃないですか。」
「相変わらず諧謔的な方だ、瞞着はいけませんよ。」
こういう風にかき氷を囲みながら大人数で騒いでいるとついつい時間を忘れてしまい、気づけばもう日が傾きかけていた。
「ああ、もうこんな時間だ。新谷君が待っているでしょうから、私はここでお暇します。」
「今日は楽しかったです。澤野井先生、ありがとうございました。」
「わたくしも楽しかったです、皆さんまた来てください。次は私の奢りです。あ、そうだ、これは私から、今日のお礼です。大佐、これで皆さんにここのシベリヤを。あれも絶品、ここに来たなら一度は食べるべきです。」
「ありがとう。今度は新谷君も連れてきてください。久しぶりに彼ともこんな風に騒いでみたいですね。」
「わかりました。今度来るときは彼の尻を叩いて仕事は全部片づけさせて待たせておきます。あ、女将さん、お久しぶりです。シベリヤを三つ、持って帰ります。ええ、新谷君にです。ああ、いつもありがとうございます。ええ、また来ます。」
新谷君へのお土産を買った私は大学へ急いで帰った。
「新谷先生も大佐の学生さんだったのですか?」
「ええ、まぁ、正規に指導していたわけではないですが、彼は学部生の時分から澤野井君にくっついて回っていましたから。澤野井君のついでのようにして指導していましたね。」
「あのじゃじゃ馬を指導するのは骨が折れたんじゃないですか?」
「まぁ、最初のうちはなかなかの曲者だと思っていましたが、コツをつかむと案外素直にいうことを聞いてくれますよ。きっと澤野井君もコツをつかんでるはずです。」
「はぁ、コツですか。あの人の手綱を握れたらもっと捜査も早く済むので私たちもコツをつかみたいですね。」
「そう簡単にはいきませんよ、あの人は。まぁ一応、一つアドバイスがあります。彼が踏ん反り返っているときは大抵口だけですから、きつく言い返せば大人しくなってくれます。彼のようなチンチクリンを叱りつけるくらい訳ないでしょう?」
「確かにそうですね、今度からそうしてみましょうか。」
「ただ、このやり方は後で澤野井君に大変迷惑がかかるのであんまり推奨はしたくないですね、どうしてもというときにだけ、使ってください。」
「ああ、何となく新谷先生の人となりが分かってきたような気がします。ずいぶんと子供っぽい人なんですね。」
「数学の神様はああいう純真な人が好きなのかもしれないですね。私は彼がうらやましいです。…私たちもそろそろ出ますか、君達にも帰りを待っている家族が居るでしょう?女将さん、お勘定を。余分は取っといてください、いつもお世話になってますから。」
―――
「失礼します。澤野井教授、先日の試験問題のここなんですが、」
「敬称は『先生』かあるいは『さん』で十分ですよ、私はまだ准教授です。」
「そうでしたか、澤野井先生。」
「はい、なんでしょう?」
「試験問題のこの問題がなんだかよく分からなかったんです。飛び切り出来る学友に訊いても解けなかったらしく…」
「どれどれ、そんなにむつかしい問題は出してないと思いますが…。おや、これは新谷先生の試験問題ではないですか。新谷先生の研究室は上の階の、」
「いえ、新谷先生にはもう聞きに行ったんです。そしたら『こんな問題も分からないのか君たちは!全く、僕は忙しいんだ!澤野井君のところに行っておくれ!』と追い返されまして…」
「はぁ、そうですか、困ったものですね。いいですか学生さん、あの人は数学教室の中でも特別愉快な性格の人ですから、数学者はみんなあんなんだとは思わないでくださいね。ほとんどは講義にも真摯な方ばかりですから。来季からの講義で分からないことがあったら遠慮せずに担当の先生に質問しに行きなさいね、新谷先生の担当のときだけ最初から私のところに来てください。」
「ええ、分かりました。新谷先生の破天荒ぶりは学生の間でも話題ですね。遅刻は平気でするし、かと思えば何十分も延長されるし、何より新谷先生は講義も試験も飛び切りむつかしいとみんな言っています。」
「はぁ、耳が痛いですね。まぁ、あまりにひどいようであったらこちらから注意しておきます。」
「いえ、学生はみんなもうあきらめているというかむしろ面白がってすらいるので大丈夫ですよ。有志で勉強会を開いたりして講義にもなんとか追いついていますし。それにあの先生、試験の結果なんて関係なしにみんなに単位あげていますから。」
「うーん、それはそれで問題があるんですが…。まぁ、皆さんがいいならいいのかもしれないですね。」
「澤野井先生は新谷先生と随分と仲が良いのですね。学生の間でも話題ですよ、まるで兄弟みたいだって。」
「ふふ、兄弟ですか、確かに彼は弟みたいなものでもありますね。新谷先生とは学生時代からの付き合いです。元々は私が当時一番優秀な院生だってどこからか聞きつけてきたまだ学部生だった新谷先生が院生室まで押しかけてきて数学を教えていたんですが、いつの間にか私が彼から色々教えて貰うことの方が多くなりました。彼の方が先に教授になってしまいましたし。」
「澤野井先生も新谷先生にも引けを取らないとても優秀な方だと聞きますが、どうしてまだ准教授なんでしょうか?」
「優秀でも席に空きが出なければ出世できないのが日本の大学の悪いところです。まぁ、本当は席は空いていたのですが、私が新谷先生に譲ったんですよ。彼の方がとっとと教授になって伸び伸びやった方が数学の発展のためだと思いましてね。まぁ、蓋を開けてみれば名物教授になってしまい寧ろ忙しくなってしまいましたが。」
「新谷先生は軍部に目をつけられているらしいといううわさも聞きますが…」
「そうですね、このご時世に数学なんていう富国強兵に直接寄与しない分野を研究していますし、何より彼は血の気の多い人なので良く陸軍刑事局の人たちと諍いになるんですよ。」
「皆さんは新谷先生を止めないんですか?」
「さすがに行き過ぎたら止めに入りますが、基本はだれも止めませんね。そういうところも含めての新谷君ですから。」
「おおーい、澤野井くーん!ちょっと来てくれ君の意見を聞きたいんだー!」
「おっと、つい話し込んでしまったね、じゃあ私はこれで失礼するよ。その問題は佐谷先生の教科書の巻末の付録に参考になる話があるからそこを読むと良い。」
―――
「いや、そこはたぶんもっと弱い条件にできるはずだ、この証明だとかなり強い補題を使っているけどここのオブストラクションは具体的に調べればもっと条件を外していけると思うよ。この条件のままだと適用できる状況がかなりが切られてくる。」
「いやでもこの後の展開を考えるとこれくらいの条件を付けておかないと。」
「それはその時に考えればいいだろ?この定理はもっと自然な仮定があるはずだよ。証明も人工的で筋が悪い。」
「うーん、ここは少し持ち帰って再考してみるよ。」
夏休みに入って講義が無くなるとこうして昼間からでも新谷と二人で数学の議論ができる。キンキンに冷やした麦茶と日替わりで持ち寄った和菓子を肴にしてお互い気が済むまで意見を出し合っているとあっという間に日が暮れる。何よりセミナーが終わった頃にはもうヘトヘトになっているんだが、この疲労感がなんだか心地良い。
日が暮れて少し涼しくなってきた研究室の窓から吹き込んでくる冷たい夜風は知恵熱でカンカンになった頭を気持ちよく冷やしてくれる。この余韻に浸りながら帰り支度をしていた時、陸軍が理学部へ入ってくるのが見えた。
そもそもこんな時間に陸軍が来るのは初めてのことだし、どうやら吉野大佐の部隊ではないようだ。見知らぬ顔ぶれが多すぎる。明らかに今までと雰囲気の違う軍部からの来客に数学教室全体が落ち着かないようだった。
「新谷宇一郎教授並びに澤野井次郎准教授両名はいまこちらにいらっしゃいますかな?」
40半ばほどの恰幅の良い男が令状を白々しく見せつけながら私たちの名前を呼んだ。襟章は大佐。今朝、大学の近所を吉野大佐が散歩しているのを見かけたから、諸事情で吉野大佐が来れなかった代理というわけではなさそうだ。ということは態々吉野大佐以外の将校を呼び、吉野大佐の息がかかっていない部隊を連れてきたというわけである。ずいぶんと穏やかではない。
「澤野井は私です。新谷はそこでコソコソしてる、そう彼、早く捕まえないと逃げてしまいますよ。こら、大人しくしなさいみっともないですよ。」
「なんだよ澤野井、今日は妹の誕生日なんだ僕はとっとと帰りたいんだよ。」
「素直に従った方が早く帰れますよ。あとあなた兄弟いないでしょう、人前でよくわからない嘘をつく癖直しなさい。それよりも大佐殿、こんな時間に一体何の御用で?明朝ではいけませんか?」
「それが急を要するものでしてね。私どもとしてもこんな時間に押しかけるのは心苦しいのですが上層部が早くしろとうるさいものですから、できれば今日中にことを済ませたいのです。」
「ここの管轄は吉野大佐だったと思いますが、」
「学者先生にはわからない軍部の事情というものがあるのですよ。早速ですが本題に入らせていただきますよ。えー、オホンッ。
『日本陸軍並びに特別高等警察の権限を持って、新谷宇一郎並びに澤野井次郎両名を戦時下特別精神治療課程へ入れることをここに通知する』
ということであります。えー、具体的に軍部が何をご両名に望んでいるのかをお伝えしますとですね、まず数学研究の道から退いていただきたい。お二人のような優秀な頭脳を数学などというお遊びに費やしてしまうのは非常にもったいない。ぜひ工学部に移っていただき、兵器開発に携わっていただければ日本は再び列強に返り咲くことができるに違いありません。そしてもう一つ、お二人には軍の方から結婚相手をご用意いたしますので、ぜひご結婚をしていただきたい。国一丸となって富国強兵をめざすこのご時世、20代半ばにして未だ独身なのはお二人くらいですよ?その優秀な遺伝子を次の世代に残していただければ、末永い日本の発展は約束されたようなものです。経済的な支援等は申請していただければいくらでも軍の方から大蔵省に掛け合います、国策ですからね。どうです?悪い条件ではないでしょう?何ならここの皆さんにかかっているスパイ活動の容疑も不問といたしたってよろしいですが。」
「私たちに断る権利はありますかね?新谷先生はテコでも飲まないと言わんばかりの態度ですが。」
「ええ、お断りしていただくのも結構です。ですが、その代わりに収容所で精神治療とスパイ容疑の聞き取り調査に専念していただくことになりますがね。」
「だそうですよ新谷先生。どうしますか?私は断るには贅沢な条件だと思いますが」
「は?おい、澤野井、お前今なんていった?」
「私は軍の皆さんの条件を飲むといいました。病院は辛気臭くて嫌です。それにそろそろ所帯を持たないと舞鶴に残してきた両親が心配しますから。」
「おい、澤野井、冗談だよな?」
「本気ですよ?あなたも病院は嫌いじゃなかったですか?」
「そうじゃなくてよ、おい、数学やめないといけないんだぞ?女と結婚しないといけないんだぞ?」
「数学は紙と鉛筆があればどこでもできますから。たまには工学部の人と交流するのもよさそうですね。新しい視点が得られそうです。新谷先生も子供みたいに駄々をこねるのはみっともないですよ。では、私はこの辺で。」
「物わかりの良い先生ですね。詳細は追ってお手紙を差し上げます。おい、お車を用意して差し上げろ!」
「ああ、態々ありがとうございます。近所ですが、北白川の方に向かってください。」
送迎の車に揺られる中で新谷の声が遠くから響いてきた。新谷君は昔からああやって大声で僕のことを遠くから呼びつけていたな。
家についてからも、風呂に入っている間も、布団の中でもずっと新谷の声が私の頭にこびり付いて消えなかった。許してくれ宇一郎、僕はこうするしかなかったんだ。
―――
先日の一連の騒動は矢張り吉野大佐のあずかり知らぬところで進められていた話だったそうだ。陸軍上層部は吉野大佐の日和見な捜査方針に痺れを切らし、大佐が非番だったあの日を狙って私たちを処分したのだ。
一応は軍の指示通りに工学部に移籍し、軍部の手配したお見合いの後に結婚した私はしばらくの間は大人しく過ごしていた。
新谷は結局軍部から提示された条件をすべて拒否し、収容所に行くことになった。週に一回の面会が許可されていたが、私との面会は新谷の方から拒否されているとのことであった。当然の結果である。私は新谷を目の前で見捨てたのだから。
私は吉野大佐とともに何とか新谷を収容所から出せないかと画策していた。そもそもあの時に新谷を裏切るかのような決断をしたのも、こうして外部から新谷救出を画策するためだった。幸いなことに刑事課の人たちも砕身の協力をしてくれたのだが、軍部の上層部の決定を覆すことは容易ではなく、何の成果もあげられぬままに半年が過ぎた。
半年過ぎたころには工学者としてもそこそこ成功を収めた私は教授に昇進することとなり、妻の妊娠も分かった。新谷のいなくなった穴も、(長い目で新谷を救うためとはいえ)新谷を裏切ってしまった罪悪感も新生活の充実感の中で何となく薄れてしまった。
もちろん新谷を収容所から出すことを諦めたことは一度もなかったし、毎週面会の申請を出していた。どうしても新谷に謝りたかった。許してもらえるとは思っていない、新谷のことだからきっと余計に私を軽蔑するかもしれない。それでも自分の中でのけじめをつけるために、謝りたかった。
罪悪感と充実感と責任感の入り混じった毎日がさらに半年続いた時、私の研究室の窓に投石があった。石を包んでいた紙には懐かしい筆跡で『旧新谷研究室デ待ツ』と書かれていた。
―――
いまは空室となっているかつての新谷の研究室には、新谷が一人佇んでいた。月明かりに照らされた新谷の姿はやつれてはいたものの、今まで見たことも無いほどに穏やかな表情を湛えていた。
「ここの部屋にあったもの、どうなったかわかる?」
「宇一郎君が連れていかれてからすぐに陸軍が根こそぎ持って行ったよ。スパイ活動の調査のためと彼らは言っていたけど、君に数学の研究を断念させるために研究資料を全部処分したかったのは目に見えている。きっともう灰になっているか、良くてどこかの朝刊だろうね。いずれにせよ、取り戻すのは無理だと思うよ。」
「そうか。」
新谷はきっとすべてを分かったうえで念のために確認したかったのだろう、かつて私と共に成した研究成果がこの世に残っている可能性がもう僅かにも無いということを。未出版の結果が私の頭の中にしか残っていないということは、それらがもう論文として日の目を見ることは無いということも彼は理解している。
「それならやっぱりこのノートを持ってきたのは正解だったね。」
薄暗かったからか、今の今まで新谷がくたびれた大学ノートを持っていたことに気づかなかった。
「このノートはね、もう出版した論文や収容所に入ってから思いついたものまで、僕のアイデアがすべて書き留めてあるんだ。僕が分かる程度のメモ書きばかりだけど、君なら読めると思う。君は僕のことならなんでもわかってしまうし、何より今までずっと一緒に研究してきたからね。この部屋にあったノートがもう戻らなかったとしてもこのノートと君さえいてくれればいつでも僕の数学は再現できる。このノート、君に託すよ。これは遺書であり、形見だ。僕だと思って大切にしてくれ。」
彼はそう言い私にノートを手渡すと、いつの間にか手にしていたピストルの銃口を自分のこめかみに当てていた。
「なぁ、宇一郎君、それは一体何だい?」
「君はピストルも知らないのかい?全く、これから先は僕なしで生きていかないといけないんだから、もっとモノを知らないと苦労するよ。ここの引き金を引くと弾がこの筒の先から出てくるんだ。憲兵が携えているような銃ほどの威力は無いが、死ぬにはこれで十分だと思うよ。収容所から逃げてくるときに看守から奪ってきたんだ。ここまで来るのに何匹か野兎を撃ったりしたからもう扱いはお手の物だよ。」
「違うんだ宇一郎君。ピストルは知っているよ、僕はそんなことを聞いてるんじゃない。そのピストルで一体何をする積もりなんだい?そんなもの頭に当てたら危ないじゃないか。」
「なぁ、澤野井。君は少し見ないうちにとんとバカになってしまったみたいだね。言わないとわからないか?死ぬんだよ、僕は、ここで、いまから。全く、こんなこと態々言わせないでくれよ。君らしくない。」
「死んだらもう数学出来なくなるんだぞ?あの世には帝大は無いし、何より痛いのは嫌だって言ってたじゃないか。」
「そのためにそのノートを持ってきたんだ。なぁ、もういいだろ。奥さんによろしく言っといてくれ。君には、君自身と君の家族を仕合せにする義務があるんだからな。僕の後を追ったりなんかしたらいけないぞ。」
「なぁ、」
「それじゃあ、達者でな。」
―――
「もしもし、澤野井です、大佐までお願いします。ええ、澤野井から電話といってくだされば伝わります。…もしもし、澤野井です、こんな時間に申し訳ありませんが急を要するので、ええ、さすが大佐殿、ええ、ええ、帝大の新谷研究室があった部屋です。私は息災です、ただ、新谷は自分で頭を、ええ、息はまだありますが、なんというか、脳ミソがもう…はい、はい、わかりました、医学部長に伝えておきます。ええ、よろしくお願いします。では。」
新谷が頭を打ちぬいてから一刻かそこらで附属病院の人たちが、少し遅れて数名引き連れた吉野大佐が研究室まで来た。その場で簡単に軍部からの聴取を受けた。聴取を早々に切り上げた私は返り血もそのままに附属病院まで急いだ。
一応大佐が用意してくれた車の運転手が『災難でしたね』とかなんとか慰めの言葉をくれたようだが、空返事しかできなかった。いや、もはや返事をしたのかどうかも覚えていない。兎に角、何もかも理解が追い付かないままに何もかもが終わってしまった。
目の前で新谷が引き金を引いた。鮮血が止めどなく新谷の頭から流れ出ていくのを肌で感じながら、力なく倒れた新谷を受け止めたその感覚がまだ両腕に残っている。その温かさと柔らかさは確かに新谷を受け止めたことが幻覚ではなかったことを告げている。
あいつはいつも私の手の届かないところまで勝手に行ってしまう。いままで何度引き留めても彼は私の言うことなど聞きやしなかった。私を置いていった彼はいつも先で見てきた景色を嬉しそうに私に話してくれる。そんな彼の話と彼の表情を見るのが好きだった。だけれど今回ばかりは。
未だ頭の整理がつかぬうちに車は附属病院にまで着いたようで、病院の職員に案内された私は、しばらく宿直室で待機することになった。一応彼はまだ死んではいないらしく、宿直の医師たちで何とか手術が行われているらしい。
もし新谷の手術が無事に終われば、しばらく附属病院に入院させ、容体が安定し次第、軍の病院に移されるらしい。もし失敗すればそのまま速やかに火葬。吉野大佐の御厚意で、骨は私が持って行っていいそうだ。ただし葬儀の類は行うことは認められないらしく、もし小規模であっても葬儀を行えば私も収容所行になってしまうそうだ。親族だけの小規模の告別式くらいはと大佐が交渉してくださっていたらしいがこればっかりは軍部も譲れなかったらしい。
正直、今の私にとっては葬式が云々なんてものはどうでもよい。兎に角、新谷のことだけが頭の中を巡っていた。彼があんな行動に出てしまったのはすべて私の責任だ。私があの時、少しでも軍部からの条件を飲むのに渋っていればもっと違う結果になっていたかもしれない。私が軍部の目を盗んで少しでも数学の研究ノートを残していれば彼は死を選ばなかったかもしれない。もっと私が知恵を働かせて新谷を収容所から出せれば。あるいは私が所帯を持ち、子を育てることを少しでも楽しいと思いなんてしなければこんなことには、きっと。思い返せば、いくらでもこんな結末は回避する機会はあったはずだ。
彼を失いたくなかったはずなのに、彼が何より大切だったはずなのに。私は自分の命が惜しかったのだ。信念のために死を選んだ高潔な精神を持った彼とは不釣り合いなくらいに、私は臆病だったのだ。だから、命よりも大切に思っていたはずのものをすべて失ってしまったのだった。
臆病な私を新谷は理解してくれると信じていた。だからこそあの時、新谷に歩み寄ることができなかった。私が新谷のことを理解してやれていなかったことにもっと早く気づいておくべきだった。何もかも、もう遅いのだ、もう私が壊してしまった。もうこの十字架は下ろすことができない。ただ、新谷から預かったノートをじっと見つめて手術が終わるのを待つことしかできなかった。
―――
新谷の退院を待たずに日本は敗戦した。一応新谷もスパイ容疑がかかっていた訳だから軍事裁判にかけられたが、殆ど形だけの裁判しか行われず早々に無罪と合わせて国からの賠償と年金等の支援が受けられることが決まった。
新谷についての一連の騒動は海外にも知れ渡っていたらしく、国連からは軍部を激しく批判すると共に、新谷をはじめとする多くの科学者たちが一日でも早く学会へ復帰できるようにできる限りの支援を行う旨の通達が日本政府へ届けられた。戦後の日本政府は戦後処理に躍起になっていたからか、多少吹っ掛けても二つ返事で支援を了解してくれることが多かったし、なんなら私が想定していたよりもずっといい条件を向こうの方から持ってきてくれることも多かった。
そのおかげで妻との離婚も随分と円満に取り進められた。元はといえば軍に強制された結婚であったわけだし、政府の方から子供の養育費等の援助が出るとのことなので、妻は『ちゃんと仕合せになってくださいね。あと、子供に会いたくなったらいつでも会いに来てもらっていいですからね』とだけいって快く離婚の申し出を受け入れてくれた。妻の方の実家に余裕があるので、家には私が残る形になった。短い間ではあったが妻と子と賑やかにやっていた家が急に自分一人だけになると、新谷の研究室が空になったときに似た寂しい感じがする。
今まであった日常に急に余白が生まれるとそれを埋めるには随分と時間がかかる。私の研究者人生から新谷が居なくなった隙間の埋まらないうちに、私の私生活から家族が居なくなってしまった。
一応、数学の世界へ復帰すると宣言はしたものの、このご時世なのだからしばらくは何もしていなくても怒る人はいないだろう。終戦に伴い軍を引退し、帝大に復帰した吉野先生が私たちのために色々手を回してくれているそうだ。研究の種も元々温めていたものだってたくさんあるし、何より新谷のノートがあるんだから当面のうちは困らない。
研究は心身の充実が欠かせない要因であるわけだから、こんな空虚な気持ちでいては何もできない。何より来週には新谷が退院して家に越して来るのだ。
帝大医学部の技術は世界一とはよく言ったもので、新谷は無事に一命をとりとめ、術後の経過は良好、身体機能にも異常は見られず来週に退院することになった。念のために(世界的にも珍しい症例でもあるので医学部の研究も兼ねているらしいが)週に一回の通院はしばらく続くそうだが、基本的には今まで通りの生活を送れるそうだ。
戦争も終わり、もう誰に憚るわけでもないし丁度我が家も寂しくなったので新谷は私が引き受けてよいとなった。来週までに新谷のアパートを引き払って、新谷の部屋に家具を移して、子供部屋だった部屋には黒板を置いてと私は新谷を家に招くにあたりやらないといけないことが山積みなのだ。吉野先生も手伝ってくれているとはいえ、数学なんてやっている時間はない。今まで通りとはいかないかもしれないが、今までのように二人で数学をしてもいいのだ。しかも今回は今までと違って一つ屋根の下なのだ。寝食を共にして、時間を忘れて、二人だけでいつまでも過ごせるのだ。今度こそは絶対に新谷のことを不幸な目には会わせたくない。
新谷が家に来たのは黄昏時であった。私はささやかな歓迎会を行おうと新谷の好きだったものを幾つも出前に取って食卓に並べているところだった。新谷にはもう病院で合鍵を渡していたので(初めて上がった家にもかかわらず図々しくも)呼び鈴も鳴らさずにリビングまでズカズカと上がってきた。
「ただいま!随分と綺麗な家だなぁ。なぁ澤野井、荷物を置きたいんだけど僕の部屋はどこだい?」
「おかえり、宇一郎君の部屋は二階に上がってすぐ正面の部屋だよ。君の前に住んでいたアパートものは大体そこに移してあるから。」
「そうか、わかった。」
新谷は昔みたいな無邪気な笑顔でとてもうれしかった。だが、頭に巻いた包帯は私にあの瞬間を忘れさせまいと言わんばかりに痛々しく私の目に映った。包帯さえ取れればもう手術跡や傷跡の類は無くなるらしいが、私は彼の顔をなんの後ろめたさなしに見ることができるだろうか。見舞いに行くたびに新谷の頭から鮮血が噴き出してやいないかと思い、非道い時には弾丸が彼の頭を貫く幻覚さえ見た。少しずつでいいから、日常を取り戻したい。これから少しずつあの凄惨な記憶を塗りつぶしていけばいいのだ。
―――
「こんなにも贅沢したのはいつぶりだろうかなぁ?収容所の飯は非道いものだったよ。農場の豚の方がいい飯を食っていたね。病院だって味の抜けた精進料理みたいなのしか食わせてくれないし、全く食事をなんだと思ってるんだ。今度医学部長に文句言いに行ってやる」
「まぁまぁ、収容所はともかく病院は君の体調のことを勘案しての献立なんだから文句を言っちゃいけないよ」
「澤野井、君は何にもわかっちゃいないよ。食事っていうのはね、体だけじゃなくて心にも栄養を届けるためにあるんだよ?あんなに薄い食事じゃ心に何にも届かない、澤野井が用意してくれたこれくらいの油が無きゃ心身に栄養が染み渡らないよ。」
「宇一郎君は相変わらずだね、元気そうで安心したよ。」
「そうか、澤野井は戦後処理のゴタゴタに巻き込まれて僕の意識が恢復してからは見舞いに来れてなかったらしいね。」
「こう見て工学部長を任されていたからね。学生や教員の面倒もそうだし、何より私自身のことで何度もお国に呼び出されてしまって、ついこの間すべて片付いたところなんだ。」
「そうか、僕は看護婦長に事情を説明されるまで不安で仕方なかったんだ、澤野井にも何かあったんじゃないかって。そうでなくとも記憶が混濁していてね。収容所にいたころの記憶ははっきりしているが、なんで入院したかは記憶にないんだ。だから目が醒めたときには軍部に何かされたんじゃないかと思ってね。」
「そうかそうか、いつの間にか事故に巻き込まれていて気を失っている間に終戦していたなんて信じられなかったんじゃないか?」
「まったくだよ、何日かの間は軍部の洗脳なんじゃないかって疑っていてね。大学構内なら散歩していいと言われて外に出てから初めて終戦を肌で理解したよ。」
「確かに、アカデミアの世界は終戦宣言を待ってましたと言わんばかりに海外の学者達がなだれ込んできたからね。アカデミアは一足先に戦後が終わった感じがするよ。僕たちが復帰するころにはもうおいていかれちゃうんじゃないか?」
「そんなこと起こりやしないよ、だって僕たちは100年先を行っていたんだ、数年休んだってどうってことないよ。ほら、二階に黒板があったのを僕は知ってるぞ、早く片付けてあの部屋に行こうよ!久しぶりに澤野井と数学だ!」
「はいはい、じゃあ先に行っといてくれよ、僕が片付けておくからさ、」
「早く来ないと先に定理ひとつ作っちゃうからな!」
新谷と話していると包帯のことは案外気にならなかった。やはり嫌な思い出を忘れるには楽しい思い出で塗り絡めていくに限る。一緒に食事をとって腹ごなしに少し話しただけでこんなにも楽しいのだからこれからの生活が楽しみだ。それに今日はまだ新谷と久しぶりに数学をするというメインエベントが残っているのだ。
―――
片付けもそこそこにして私はそそくさと二階に上がって新谷の待つ部屋に向かった。階段も半ばに差し掛かった辺りからもう白墨の音が聞こえてきて足取りが軽くなった。新谷は今何を書いているのだろうか。実に1年ぶりに新谷と数学の議論ができるのだ。一年温められた新谷のアイデアをたくさん聞かされるだろう。きっと今日は興奮してねむれないだろうなぁ。
胸躍る中で、黒板のある部屋に入った瞬間、私は愕然とした。新谷が黒板に書いているこれらは本当に新谷が書いたものなのだろうか。私には全く理解できないことが隅から隅までみっちりと書きつくされていた。
最初は新谷の独創性故と思っていた、そう信じていた。しかし何度見返しても明らかに荒唐無稽、支離滅裂なことが書き綴られている。もはや数式の体すら成していないものすらある。最初はけがの影響でうまく文字が書けないのかと考えたが、新谷の説明を聞いてもやはり論理が破綻している。それは論理が飛躍しているというわけではないというのは長年彼と連れ添ってきた経験と数学者としての直観が訴えかけていた。
明らかに新谷は数学ができていない。深刻なのは本人はそのことを理解していないようなのだ。新谷はかつてのようなまっすぐな目で私の意見を聞いてくる。私はもはやそれどころではないのだ、いったい何が起きているのか全く理解できなかった。以前から彼に意見を聞かれた時にはそれらしく生返事をしていたのが今回ばかりは吉と出た。
新谷の方も『またそんな曖昧な返事して、まったく。でも昔に戻ったみたいでこれもいいな、また明日何か聞かせてくれ』と嬉しそうにしていた。一通り新谷の説明を聞いてから深刻に考え込んでしまったことを新谷が良く解釈してくれたのも幸いだった。私はそのまま寝室に向かって頭から布団をかぶってしまった。新谷はまだしばらく黒板の前で何やらしていたらしい。カツカツと黒板が白墨を削る音とシューッと黒板を拭う黒板消しの音が繰り返し聞こえてきた。その意味のない繰り返しが私を責め立てている。お前のせいだ、お前のせいだと白墨が嘲笑ってくるのだ。私はぐちゃぐちゃの頭の中で何も考えられず、一晩中すすり泣くことしかできなかった。
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食事は問題なく行えていたし、会話も特に問題なく行えていた訳だからすべての機能が戻っていたと勘違いしていた。確かに数学に必要な機能は日常生活に必要な機能とは異なるし、新谷の異常に気づくのは数学者でもなかなか難しいだろう。長年連れ添った経験があるからこそ一目見ただけで気づけたのだ。
きっとあの様子だともう以前のような数学はできないだろうと思う。あれは過去の記憶をもとに惰性で書きつらねただけの意味のない羅列であった。もう彼の頭の中から新しく数学を作り出す昨日は失われてしまったのかもしれない。そう思った刹那、私の頭の中であの瞬間がフラッシュバックしてきた。せっかく忘れられると思ったあの瞬間が、より残酷に思い起こされる。あの弾丸は新谷と私の最も大事なものを、最も残酷な形で打ち砕いていたのだ。
朝一番に医学部に電話をし、それらしい理由をつけて新谷を病院に連れて行った。検査の結果、やはり新谷の脳の一部の機能に深刻な欠損が見られた。この部位が数学に重要であることは知られていなかったらしく、担当してくれた脳神経科の助教は喜びの色を隠しきれていなかった。不謹慎に思う気持ちもわかるしこれでようやく准教授になれるうれしさもわかる。それはそれとして、これで私の十字架に科学のお墨付きが付いたわけである。
肝心の新谷本人は検査結果を待たずにそそくさと病院を抜け出して、私の研究室でまたカツカツと黒板に何か書いていたらしく、不満そうな顔で看護師さんたちに取り押さえられて待合室に座らされていた。
「さぁ、宇一郎君、もう今日はこれでお終いだ、帰るよ。」
「遅いぞ澤野井、病院は窮屈な記憶を思い出すから困る。早く帰って昨日の続きをやるぞ!いいアイデアが思い浮かんだんだ、澤野井も聞いたらきっとビックリするぞ!」
―――
カツカツカツ シューッ カツカツカツ…
新谷は矢張り昨晩とおなじ様子で、何の意味もない過去の数式の羅列を只管に書きつらねていた。
「なぁ、澤野井、これどう思う?ここの不等式をもう少しシャープにできれば昔に解けなかった場合にも結果を拡張できると思うんだけど。」
「そうだね、確かにそうだ。でもこの不等式はかなりぎりぎりの不等式だからその方向性だと難しいんじゃないかな、例えば…」
私はただ只管、新谷の意味のない話に調子を合わせて相槌を打っていた。どうやら私の言うことを上手く理解する機能も欠損しているらしく、多少適当なことを言っても新谷は満足した様子で話を続けていた。
―――
「なぁ、澤野井、僕はやっぱりこうして君と数学しているときが一番仕合せだなぁ。澤野井、君は仕合せかい?」
「何を馬鹿なことを言っているんだい、仕合せに決まっているだろう?」
―――
その日の晩、私は新谷から預かっていたあのノートを、終ぞ一度も中を見ることのなかったまま、処分した。
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