11 日魚子、嘘をつく。

「はい、これ新潟土産」

 久しぶりに会った大地に、日本酒入りのフィナンシェを渡す。それと洋梨のホワイトチョコレート、お試し日本酒セット。ひとりぶんの土産量としては多いが、これでもかなり絞ったほうだ。

 お盆休みは互いの帰省ですれちがってしまい、会うことができなかった。今日は休み明けの週の金曜で、日魚子と大地はいきつけになったダイニングで飲んでいた。

「いっぱいだな」とわらった大地が、リュックの横に置いていた紙袋を日魚子に渡す。大地の実家は、長野市の善光寺の近くにある。紙袋のなかには重量がある栗かのこと色とりどりのゼリー菓子が詰まった袋が入っていて、「おいしそう!」と日魚子は破顔する。どちらも長野では有名なお土産らしい。

「新潟のどのへんだっけ?」

「えーと新潟市。下越のほうかな」

「深木は日本海沿いの街のどっかって言ってたな。日魚子も海近い?」

「わたしは山のほうだから」

 爽と幼馴染だとは明かしていない以上、同じ街に帰省していると勘繰られそうなので、帰省先は嘘を言う。日魚子の生家は今は空き地になっている。故郷に帰っているのは、父の墓参りをするためだ。

「日魚子の故郷ってどんなところなの?」

 追加の生ビールを頼んだ大地が、カルパッチョをつまみつつ尋ねる。

 一週間前に歩いていたはずの街を思い浮かべ、「うーん」と日魚子は苦笑した。

「ふつう……かな。ふつうの街。こっちと同じで暑い」

「そうなんだ?」

「新潟の夏をなめたらやばいよ。日本の最高気温の記録をずっと持ってたの、となりの山形県だよ」

「そのイメージはなかった」

 大地とのゆるやかな会話は、肩に張っていた力がほどけるようで落ち着く。

 これまで日魚子は好きになった相手をつなぎとめようといつも必死だった。ひとつでもミスしたら、たちまち網から逃げ出して、もう戻ってきてはくれない。漁師とか猟師みたいな恋はスリリングだけれど、心身が確実にすり減っていっているのも自覚していた。大地にはそういうところがない。地面にしっかり根を張った大樹のようで、安心してその枝で羽を休めていられる。

「あっ、でも新幹線の新潟駅は結構おもしろいよ。ワンコインで日本酒が五杯のめる」

「え、いいなあ」

「ちなみに冷えたキュウリも置いてあって、世界のお塩が楽しめるの」

「今度連れていってよ。新潟のお酒ってうまそう」

 何気なく返された大地の言葉に、日魚子は瞬きをする。

 日帰りでぱっと行くような場所でもないから、つまり泊まりがけの旅行ということになる。あたりまえのように誘ってくれている、と思うと、胸にじんわりした熱が広がった。うれしくなってうなずいたあと、でも、と胸中で別の感情が頭をもたげる。

 新潟市に日魚子の生家はない。ほんとうの帰省先に大地を連れていくことはできない。

 大地にかくしごとをしているのだと思うと、後ろめたさが身に沁みた。それだけではない。日魚子は大地のまえでは、爽はただの同僚だと嘘をついているのだ。もしいつか大地に知られてしまったらと思うと肝が冷えた。大地が日魚子の嘘にきづくまえに、先に日魚子のほうから打ち明けておいたほうがいいんじゃないか。べつに爽とのあいだにやましいことはない。

 ――けれど、どこまで話せばいい?

 爽が幼馴染だというはなしをしたら、そのうち家のはなしもせずにはいられなくなる。爽の父親と日魚子の母親が不倫関係にあったことも。それをひとに言うのは、かなりの抵抗があった。たとえ大地が相手でも。

 第一、爽は身内のいざこざを大地に知られることにうんと言うだろうか。嫌がる気がした。日魚子と大地の問題に爽を巻き込みたくはない。

「日魚子?」

 きづくと、ワインを手にしたまま、俯きがちに考え込んでいた。

 呼びかける大地の声で我に返り、「あっごめん」と詫びる。意図せず目が合った。底に熱が滲んだ眼差しに、じりっと胸がうずく。ああ今求められている、と思った。うれしくて、日魚子は蕩けてしまう。この視線に日魚子は弱い。なんでも差し出してしまいたくなるし、ほかになにも考えられなくなってしまう。愛されている、誰かに求められている、という状況に、へんな脳内物質が出ているみたいに安堵する。急に大地と寝たくなった。今日がいい、と刺すように思う。

 餌を待つ犬のような気持ちでじっと息をひそめていると、大地がちいさくわらって、日魚子のこめかみのあたりに触れた。

「あした、映画見ようって言ってたじゃん。そのあとうち来る?」

「えー」

「えーってなに?」

「今日じゃないんだ」

「今日は君のために掃除をするんですよ」

 こらえきれずに頬を緩めると、「うん、行く!」と日魚子ははしゃいだ声を出す。

 べつに大地の部屋が汚くたってベッドの下にエロ本を隠していたって日魚子はかまわないのだけど、日魚子のために掃除をしてくれる大地がかわいいと思ったので、おとなしく一日待つことにした。


 マンションの自動ドアをひらくと、ちょうど到着したエレベーターに爽が乗り込もうとしていた。

「あっ、待って待って」

 エレベーターの扉が閉まるぎりぎりのところで身体を滑りこませる。

「今閉じようとしたでしょ」

「してねーよ」

 シャツを肘までまくりあげた爽は、通勤用の鞄を持っている。今帰りらしい。

 気まずかった新潟からの帰省以来、そういえば一週間ぶりに顔を合わせたのだときづく。帰路は渋滞に巻き込まれたうえ、ふたりともずっと無言で、息が詰まるようだった。ほんのすこし、相手の内側に踏み込むやりとりをしただけでこれだ。あれからもう十五年以上経つのに、街のひとももうほとんどが忘れているのに、自分たちはそうではないのだとわかってしまってうろたえる。

 決定的にすべてが転じた九歳の冬。

 わたしたちはいつになったら、元通りになれるのだろう。

 二十五にもなって元通りなんて願うこと自体、馬鹿げているのかもしれない。このままやっていくしかないとわかっているのに、それがときどき無性につらい。

「残業?」

「盆休みで溜まったぶんの処理」

 その声がすこしかすれていたので、「風邪?」と爽の額に手を伸ばす。額に触れるまえに、爽は軽く背を折って咳をした。爽は体調を崩すと、いまだに子どもの頃の喘息をぶり返す。熱を測るのはやめて、背をさする。シャツ越しに伝わる体温が高い気がする。

「熱あるんじゃない? あした病院行く?」

 あしたは大地との約束があるが、午前中に病院の送り迎えをするくらいなら間に合うだろう。

「いいよ。薬なら持ってるし」

 爽は日魚子の手から逃れるようにエレベーターの壁に寄りかかった。昼にはつけていなかったパールのピアスをした日魚子を一瞥して尋ねる。

「デート?」

 相変わらず察しがよいな、と思ったけれど、日魚子の部署は今の時期、残業はあまりないし、飲みに行くような友だちもいないので、この時間に帰ってくるなら大地以外になかった。べつに爽に隠すはなしでもないので、「そうだよ」と言う。

「新潟土産、渡してた」

「ふうん」

 降車階に着いたので、日魚子が先に降りる。

 後ろで爽が乾いた咳をした。

「金曜なんだし、泊まってくればいいのに」

「泊まるのはあしただから」

 思わず言い返すと、爽はおかしそうにわらった。

「仲良しか」

「仲良しですから」

「はいはい」

「そうちゃん、具合わるくなるまえにお医者さんに行くんだよ」

 最後はお小言だと思ったらしく、爽は肩をすくめるだけで部屋のドアを閉めた。

 ステンレス製のドア越しに微かに咳の音が響く。もう、とつぶやき、日魚子も自分の部屋のノブを回した。

 

  ◆◇

 

 翌日は昼過ぎに大地と待ち合わせた。

 出かけるまえに爽に体調を訊くメッセージを送ったが、なかなか既読マークがつかない。もともと端末を頻繁に確認するタイプではないものの、体調が悪化したのではないかと心配になる。爽は今では丈夫になったけれど、子どもの頃は季節の変わり目には喘息の症状が出て、よく寝込んでいた。

「どうかした?」

 映画がはじまるまえにも端末を確認していた日魚子に大地が尋ねる。普段、日魚子がデート中に端末を触っていることはないので、ふしぎに思ったのだろう。

「あ、ううん。なんでもない」

 爽のことが気になっているとは言い出せなかった。

 映画は日魚子が楽しみにしていたアクションものだったのに、見ているあいだもぜんぜん内容が頭に入ってこなかった。上映終了後、まずしたことがオフにしていた端末のチェックで、やはりついていない既読マークに不安がじんわりせり上がる。同時に苛立ちもした。なんなの、どうして今日なの、せめて状況くらい返信してくれたらいいのに。爽は意地悪いところがあるから、日魚子がデートだとわかっていて、わざと返してないんじゃないか。

 そこまで考えてから、日魚子はこめかみを揉んだ。だめだ、八つ当たりをしている。

「ごめん。ちょっと友だちに電話かけてくる。すぐ戻るね」

 映画館を出たところで、大地に適当な嘘をついて、その場を離れる。

 爽の電話番号をタップする。呼び出し音は鳴らず、すぐに「おかけになった番号は電源が入っていないか――」で始まる自動音声に切り替わってしまった。たぶん充電が切れている。あるいは病院内にいて、電源をオフにしている可能性もあるか。体調をうかがうメッセージをもう一度だけ送って、端末を鞄にしまう。

「お待たせ」

「ううん。なんか……だいじょうぶ?」

 心配そうに尋ねた大地に、「たぶん」と顎を引く。

 夕飯はデパ地下のお惣菜を買って、大地の部屋に持ち込むことにした。最寄り駅のデパートで、惣菜コーナーを見て回る。

 大地と一晩を過ごすのはこれがはじめてだった。いつもだったら、絶対にどきどきして、胸がいっぱいになっている。昨晩、服と下着を選んでいる時点では、日魚子もベッドのうえであれこれ想像して、ごろごろしていた。でも今はべつのことが気になって、なんだか適当に惣菜も酒を選んでしまう。はやく安心したいのに、メッセージの既読マークは一向につかない。

 大丈夫、そうちゃんは大人でしょ、と自分に言い聞かせる。

 体調がわるかったら、自分で病院くらい行く。むしろ日魚子よりよほどしっかりしている。既読マークがつかないのは、たんに寝ているか、充電が切れたことを忘れているかだろう。そもそも爽にだって彼女はいるのだから、つらかったら部屋に呼ぶくらいはするだろう。そこまで考えてから、いや呼ばないな、と思う。爽はひとに弱みを見せたがらない。いちばん弱っているときは、逆に絶対助けを求めない。

 そのくせ、爽は日魚子が困っているときはだいたい助けてくれる。

 いつだかに、彼氏に貢ぐお金がなくなって闇金に手を出そうとしたときも、あほか、と頭に拳骨を落とされ止められた。確か、宗教にはまって霊水とか壺とか買わせてきた彼氏。あのとき爽にぼこられなかったら、日魚子は今頃、借金地獄から抜け出せなくなっていたと思う。

 不倫男と別れたときは――出社ができなくなり、電気もつけていない部屋の床で液体みたいに日がなぐんにゃりしていたら、爽に連行された。日魚子は爽の部屋で一緒に暮らしていたことがある。放っておくと、死にそうだったので、介護されていたのだ。あのときは通院する以外は、爽の部屋のソファでぐんにゃりしていた。爽はきなこに介護食を出すのとおなじように、日魚子に野菜スープとかうどんを作ってくれた。夜は譲ってもらったベッドできなこと眠った。

 ひとに爽のことはうまく言えない。

 爽のはなしをすると、彼らは目を見合わせて、それってつきあってるわけじゃないの、と言ってきたり、芹澤さんに下心があるんじゃないの、と冷やかしたりする。でも、そうではない。そうではないのだ。恋人でも家族でも友人ですらない日魚子に、爽が無償で注いでくれたものを借りものの言葉でまとめたくはない。

「はじめさん、ごめん」

 デパートを出たところで、日魚子は口をひらいた。

「……その、友だちが風邪引いてて。あまりつらいって言い出せない子だから、心配で。やっぱりようすが見たいから、今日は帰ります」

 大地に落胆されたくなくて、早口で言い切る。おずおず顔を上げると、

「なんだ、そうだったの?」と大地がちょっとびっくりした風に言った。

「なんか今日上の空だなーって思ってたんだけど、なら、早く行ってあげたほうがいいよ。べつに俺んち来るなんて、いつでもできるんだし」

 なんの含みもない返事に、肩透かしを喰らった気分になる。そうだこういうひとだった、ときづき、最初から素直に打ち明けていればよかった、と思う。

「ほんとうにごめんね。あの、あとで半分支払うから」

「いいから。あっスポーツ飲料とか湯せんのおかゆとか買っていくといいよ。冷却シートも」

「うん」

「いちおう心配だから、大丈夫そうだったらあとで連絡して」

「わかった」

 うなずいて、駅のほうにきびすを返す。

「日魚子」

 ふと何かに気を引かれたようすで、大地が声をかける。

「ちなみにその子ってさ……」

 途中で言葉が尻切れトンボになり、「やっぱりいいや」と笑みでまぎらわせてしまった。なにを訊きたかったんだろうとふしぎに思ったけれど、「ほら、行って」と軽く背を押され、そのままになってしまう。

 大地と別れ、最寄り駅が通る路線の電車に乗る。

 車窓から見える街は赤銅色に染まりはじめていた。端末を確認するが、やはり未読マークに変化はない。これで爽がまるきり元気で、ただ端末を忘れただけで、彼女とデート中とかだったら投げ飛ばしたくなるな、と思った。でもべつにそれでもいい。百万分の一でも爽のSOSを取り漏らさなかったなら、それでいいのだ。


 マンションに着くと、迷わず爽の部屋に向かった。

 一緒に暮らしていたときの名残で、日魚子は爽の部屋の合い鍵を持っている。いつもは鍵入れにしまってあるだけで使うことはなかったが、今日は最初から使ってしまう。留守だったら、あとで謝れば済む話だ。

「おじゃましまーす」

 ちいさく声をかけて、玄関の灯りをつける。

 部屋は暗かったけれど、ひとの気配はある気がした。

「そうちゃんいる? ……生きてるよね?」

 歩きながら、もし彼女さんが来ていたらどうしよう、と別の可能性を思いつく。爽は基本的には部屋に彼女を上げない主義だけど、絶対とは言い切れない。来ているというか、情事の最中だったらいたたまれない。玄関には女物の靴はなかった気がするけれど……。

 リビングはカーテンがかかったまま、静まり返っていた。窓辺から微かな音が立ち、飛びあがりそうになる。クッションのうえで丸まっていたきなこが起き上がっただけだった。普段は日魚子に無関心なきなこだが、今日はなぜかあざとくすり寄ってきて、よたよた歩きだした。細くあいた寝室のドアに、きなこが身を滑りこませる。

 そっと中をのぞいて、日魚子は思わず脱力してしまった。

 ブラインドから赤光がわずかに射す薄暗いベッドのうえで、爽が身体を折りたたむようにして眠っていた。冷却シートや薬が出しっぱなしになっている。充電が切れた端末も床に転がっていた。未読のメッセージがたぶん十件以上溜まっているだろう端末に恨めしげな視線を送り、日魚子はちいさく息をついた。

「スマホくらい見てよ……」

 鞄を床に置くと、ベッドのかたわらにかがんで、寝乱れていたブランケットをかけ直す。爽の寝顔なんて見慣れていて、今さらなんの感慨もわかないが、調子はあまりよくなさそうだ。目を閉じたまま、乾いた咳を繰り返す男の背に手を置いて、そっとさすってやる。きのうより熱い。熱を測ったほうがいいかもしれない。

「ん……」

 爽がうすく目をひらいたので、「起きた?」と尋ねる。

 まだ夢うつつなのか、茫洋としている。

 それから、背にあてられた手にきづいたのか、

「日魚子」

 と呼んだ。甘くかすれた男の声。

 やにわに伸ばされた手が、日魚子の髪に差し入る。流れるように頭を引き寄せられ、きづけば唇を重ねていた。肩が跳ねる。熱が高いせいか、爽の唇は乾いていて、熱かった。触れ合わせた唇のふちを食まれる。砂漠で行き倒れたひとが水を見つけたみたいな仕草だった。なぜかそれに日魚子はこたえてしまった。後頭部にある爽の手が熱くて、頭がじんじんしてくる。思考が焼けたように麻痺していて、わずかにひらいた口に舌が触れると、それを捕まえようと自分から深く唇を重ねてしまう。枕もとにあった薬の箱が落ちて、錠剤が床に転がった。

「――あ」

 落下音のせいで、急に我に返る。

 瞬きをした爽が、いまはじめてきづいた顔をして日魚子を見上げる。

「……え?」

 熱でぼんやりしていた目に、さざなみのように恐怖とおびえが広がっていく。

「そ、そうちゃん!」

 とっさになまえを呼んだ。

 そうでもしないと、爽が壊れると思った。べつにはじめてキスをしたわけでもないだろうに、日魚子はこんなにおびえと動揺をあらわにした爽をはじめて見た。何か言わなければ。日魚子が動揺すると、たぶん爽のおびえが決壊する。

「……だ、誰とまちがえたの」

 なんとかそれだけを絞りだした。気の利いた言葉を考えている余裕などない。

「病人じゃなかったら、しばいてるとこだよ。まあいいけど」

 いつもの表情を作って、さりげなく爽の頭を撫ぜる。

 安心してほしかった。大丈夫だと言いたかった。こわくない。大丈夫。あなたが恐れていることはなにも起こらない。何が大丈夫なのか、何に安心してほしいのか、日魚子自身もよくわからなかったけれど。

「あぁ」とつぶやく爽はまぶしがるような表情をした。

「まちがえた、かも。……ごめん」

「ごめんって。今日は素直だね」

 いつもの会話と声のトーンはこれでよかったのか? 

 薄氷のうえを歩いている気分になる。

「なんでここにいるんだっけ、ひな」

 ひな。幼い頃のまるい響きを残した呼び方が、ふいに空々しく感じられた。

 日魚子、と爽はさっきはっきりと呼んだのに。

「ああ、ええと、はじめさんとのデートが早く終わっちゃって帰ってきた」

「ふうん……」

 いつもなら勝手に部屋に上がったことに対して文句を言うはずだが、どうにも反応が鈍い。意識はあるようだけど、ぼんやりしている。熱を測ると、四十度近かった。

「そうちゃん、動ける? いちおう病院に行こう。まだぎりぎりやってるとこあったはずだから」

「へいきだよ」

「へいきじゃないから。言うこと聞いて」

 身体を支えるようにして身を起こさせると、抵抗するだけの気力が残っていないのか、存外素直に言うことを聞いた。

 爽が着替えをしているあいだにタクシーを呼ぶ。こんなことになると思っていなかったから、昼のランチでワインを飲んでしまった。

 マンションにつけたタクシーに爽をのせて、土曜診療している病院の終了時刻間際に駆け込む。

 季節外れのインフルエンザとかだったら、と心配したが、ただの風邪だったようだ。喘息をおさえる吸入薬はもともと持っていたので、追加でいくつか薬を処方してもらう。帰宅してしばらくすると解熱剤が効いて、浅かった呼吸も穏やかになった。新しい冷却シートを爽の額に貼り直すと、日魚子はやっと肩の力を抜く。

 爽のせいで、大地とのデートはめちゃくちゃである。

 けれど、恨む気持ちは湧かなかった。爽の熱が下がってよかった、と思った。部屋でひとり高熱にうなされているなんて爽がかわいそうだ。

 ――日魚子。

 爽のベッドのまえに足を投げ出して座り、あれはなんだったのだろう、と考える。

 とっさに彼女の誰かとまちがえたのかなって思ったのだけど、直前に爽は日魚子のなまえを呼んでいた。病人がしていることなので、前後のつながりがあったかは謎だが。

 日魚子だときづいたとき、爽は異常なくらいおびえていた。

 そんなにか、とすこし思った。そんなに、嫌か。父親が不倫した女の娘と唇を重ねるのは。女なんて誰だってよさそうな爽でも、それだけは嫌なのか。胸のまんなかが膿んだようにじくじく痛みだす。あぁわたし苛立っているのか、と思って、自分でもびっくりする。

 何よりも日魚子はあのとき、爽を拒まなかった。

 驚くあまり身体が動かなくなっていたのか、だけど突き飛ばしたってよかったはずだ。なのに、日魚子は爽の求めに応じた。ごく自然なことのように。なぜ。どうして。頭がまた熱を帯びたように痛みだす。どうしよう、と思った。わたしはおかしいのかもしれない。衝動的に爽の父親に走った母親とおなじなのかもしれない。

 それから、あとでいいから連絡して、と言った大地の言葉を思い出して、うなだれた。今日のことを大地になんて言えばいい? なにも言えない。熱くて乾いた唇に触れたとき、これが欲しい、と思った。あのまま正気に戻らなかったらどうなっていたのだろう。どこまでいってしまったのだろう。考えると、不安でたまらなくなる。そして、同時に願った。きづかないでほしい。爽にだけはきづかれたくない。これが欲しいだなんて一度でも思ってしまった、わたしの病的な衝動に。

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