10 爽、打ち明ける。

 朝起きるなり、玄関灯の電球を取り換えてくれ、と透子に言いつけられた。

 高い位置にあるため、透子も翔太も届かないらしい。寝ぼけた頭で、しかたなく物置から脚立を引っ張ってくる。立て続けにくしゃみをした。昨晩、冷房をかけすぎたらしい。マンションの空調機と効き具合が微妙にちがうので、帰省するといつもこうなる。

「やだー、風邪?」

 爽に電球の取り換えをさせるあいだ、姉はうちわを片手に梅ジュースを飲んでいる。いいご身分である。

「あんた、風邪ひくと喘息ぶり返すから気をつけなね」

「はいはい。つうか、病人に電球交換させるなよ」

「まだ病人じゃないでしょ。あっ、今日これからお母さんのとこ行くんだけど、爽も行くよね」

 行く?ではなく、行くよね、という言い方が姉らしい。

 日魚子と翔太は朝から電車で三十分ほどの場所にある水族館に遊びにいっている。帰省して三日目。今日の午後には東京に帰る。二泊三日の短い帰省が終わる。

 正直、母親と顔を合わせたいとは思わなかったが、爽には地元でつるんでいた友人もいないため、ほかに誰と会う予定もない。透子の機嫌を損ねるとあとが面倒だ。しぶしぶ「わかった」とうなずき、爽はソケットに新しい電球をはめる。しばらくして、ぱっと電球が明るくなった。室内から透子がスイッチを押したらしい。

「脚立片付けたら、車に冷房入れておいて。わたし、お母さんの着替えとか用意してくる」

 てきぱきと言いつけて、透子は中に引っ込んだ。

 数年前から認知症を患い、介護施設に入所している母のもとに、透子は週に一度、訪問している。リハビリを続けているが、記憶の混同や人物誤認といった症状が出ているらしい。透子の話では、日魚子の母親と爽の父親が不倫するまえの、表面上はなんの問題もない四人家族であった頃に、心が戻っていることがあるという。

「わたし、知らなかったんだけどさあ」

 介護施設までの道行き、運転する爽のとなりで透子が口をひらいた。

「あの頃、お父さん、がんが見つかってたんだって。会社の健康診断で」

「……そうだったんだ」

 父は三年前、五十七歳のときにがんで死んだ。発見の経緯といった詳しい事情は通夜の席でも聞かなかったが、姉の話だと発端はその十年以上も前だったようだ。

「不安だったのかもね。あのひと、ひとりで抱え込むようなところ、あったじゃない? お母さんにもわたしたちにも言えないで、この先どうなるんだろう、どうすればいいんだろうってひとり悩んでいたのかも」

 行き先のわからない小舟に揺られているみたいだった、という菫の言葉をふいに爽は思い出した。シングルマザーで精神的に追い詰められていた菫と、がんの告知で憔悴していた爽の父親。ふたりを結びつけたのは、同じ未来へのあてどなさだったのだろうか。周りと共有できない不安と恐怖をまぎらわしていたのだろうか、あの狭い寝室で。

「まあ、こっちからすれば、だからなんなの?って話だけどね」

「そうだな」

 爽の反応は鈍い。文句を言われるかと思ったが、姉は口を閉ざしてバッグから塩飴を取り出した。「いる?」と訊かれたので、「いらない」と言う。

 両側に田んぼが広がるなだらかな一本道を車が疾走する。八月も半ばを過ぎ、田んぼは青々とした稲穂が風に波立っている。もう長いこと、黄金に実る秋の田んぼを見ていない。この街は好きではないけれど、あの光景は好きだった。

「ひなちゃんと喧嘩でもしたの?」

「なんで?」

「あんたたち、よそよそしいんだもん。すぐわかるよ。ひなちゃん、きのうの夜、電気落としたあと声殺して泣いてたし。きのうって、ひなちゃんのお父さんのお墓参りに行ったんだよね?」

「うちのばあちゃんとじいちゃんの墓参りもしたよ」

 話を流したかったのに、ちょうど折よく信号に捕まってしまった。

 一時停車した車内に、ぽっかり沈黙が生まれる。

「日魚子は、俺が女にだらしないの嫌なんだよ。昔から」

 熱を発するハンドルカバーに腕をのせる。

 いつもは口うるさいわりに、透子は静かに爽の言葉に耳を傾けている。

「でもあいつは情が濃いから、俺を嫌いになれない。だから、自分なりの理屈をつけて納得してる。子どもの頃の親の不倫の反動……みたいな。そんなんじゃないけど。そんなんじゃないって言われると、日魚子は俺がほんとうに理解できなくなって途方に暮れる。ばかなんだよ」

「なら、もっと自分のことを話してあげればいいじゃない」

「話してるよ。欲の発散。うさばらし。それだけだよ。わかりやすいだろ。どうして俺にそれ以上を求めるんだ」

 ちょうど信号が青に変わった。やや強めにアクセルを踏む。前方に介護施設の看板が見えてきた。このはなしをやめられることに心なしかほっとして、爽はウィンカーを出した。


 受付を済ますと、母がほかの入所者たちと過ごしているというレクリエーション室へ案内された。

 明るい室内の真ん中に長机が出され、母と何人かの入所者が学生ボランティアと折り紙をしている。「こんにちは」と透子が気さくに声をかける。知り合いらしく、ボランティアの女子のひとりが「深木さん」と笑顔になった。爽のほうにも目を向け、みるみる頬を赤らめる。

「ええと、透子さんの……?」

「清文さん」

 きづいた母親が華やいだ声を上げる。途中まで折っていた色紙を置いて、爽のほうに駆け寄ってきた。「葉子ようこさん、気をつけて」と施設のスタッフが声をかける。母――葉子は気にしていない。

「来てくれたのね」

「あぁ……うん」

 ばつの悪さに駆られて、言葉少なにうなずく。

 今日はどうやら爽を認識できない日だったようだ。失敗した。

 まだ六十を迎えたばかりの母だが、父関連の苦労がたたったのか、更年期を過ぎたあたりで体調を崩しがちになり、数年前からは認知症を患うようになった。日によっては、爽を別れた旦那と取り違える。あんなに苦しんで、引きずって、それでも別れたのに、脳の一部が病んだだけで、こうもたやすく父への愛がよみがえるのか、と爽はうすら寒くなる。

「……何やってたんだ?」

 姉には頭ごなしに母の言葉を否定するな、と言い含められている。俺はあんたの息子で旦那じゃない、と言い張るのはたやすいが、母のほうは記憶上は産んでもいない息子の話をされると、混乱して情緒不安定になる。

「折り紙。清文さんもやる?」

「いや、俺は」

 爽、と姉に肘で小突かれ、しかたなく「やる。教えて」と言う。

 葉子は顔をほころばせ、爽の腕を引いた。ほっそりした母の五指が腕に絡む。定期的に介護施設に美容師がやってくるらしく、髪はきれいなショートカットで、落ち着いた萌黄色のワンピースがよく似合っている。けれど、なんだか爽が知らない誰かみたいだ、と思う。

 机に座った母が鶴の折り方を教えてくれる。爽が知っている鶴とちがって、二羽の鶴が尾でつながっている。「折ったことある?」と母が訊くので、「ない」と答えた。母がうれしそうに微笑む。

「ここをこう折ってね。あ、ちがう、そこは……」

 仲良しですねえ、とボランティアの女子がのんびりした声で言う。

 姉は離れた場所で施設のスタッフと話している。母の体調を訊いているのだろう。

 仲良しか? 爽は疑問に思う。

 爽の折り紙を直そうと、母の手が伸びた。指が触れ合う。母の頬に朱が射す。濡れた黒い目にじんわり熱がにじむ。数多の女たちと同じ顔を母がしている。かわいい、と思えるほど爽は人間ができてはいない。

「うん、そう。そうね、できた」

 尾がつながった鶴がふたつ完成する。

「あげるよ」と爽は鶴を母に押しつけ、席を立った。きょとんとするボランティアの女子に表向きはかんじよく微笑みかけて、「ちょっと電話が入ったみたいで」と端末を取り出すそぶりをする。嘘だ。電話なんて入っていない。

 和やかな笑い声が響くレクリエーション室を出ると、爽は足早に廊下を突っ切り、来館者併用のトイレの個室に入った。胃がどっと痙攣して、吐きそうだ、と思うまえに吐いていた。身体があまりに正直で、ちょっと驚きすらする。

 何度かえづいて吐くものもなくなると、すこし楽になった。

 手をついた便器はつめたくて、個室のなかは甘ったるい芳香剤の香りが充満している。肩で何度か息をする。空咳がこぼれた。

 吐瀉物を流して、外の水道で口を洗う。端末を確認すると、姉からメッセージが入っていた。「平気?」という短い一言に、「車にいる」とだけ返す。透子のことだから、あとはうまくやるだろう。

 冷房をがんがんにかけた車内で、ハンドルにもたれかかるようにしていると、助手席の扉があいた。「お待たせ」と声をかけた透子が、スポーツ飲料のペットボトルを差し出す。

「ありがと」

「顔真っ青だけど。代わる? 運転」

「あー、いや。平気」

「そう?」

 深くは突っ込まずに、透子は自分の分の清涼飲料水をあけた。

 あの母と週に一度は向き合っているのだから、透子のメンタルはすごいな、と思った。女同士だとすこしはちがうのだろうか。あるいはもう慣れたのか。爽は三十分も中にいられなかった。

「爽はお母さんと似てるよね」

 やにわに透子がつぶやいた。

 身に覚えのない言葉に「あ?」と胡乱げな声が出る。

「俺とあのひとのどこがだよ」

「ひとつの愛にこれでもってくらい苦しみぬくところ」

「なんだそれ」

 かすれた笑いが落ちる。行きの道中で、爽のだらしなさについて話したはずなのに、透子は忘れたのだろうか。

「爽は自分の欲求に正直だよね」

 ペットボトルのキャップを締めた透子がぽつりと言う。

「でもそれは性欲じゃない。いや、若い男だから三割くらいはそうかもしれないけど。爽のそれは、ひなちゃんを泣かせたくないとか、周囲の悪意から守りたいとか、そういう欲でしょう、子どもの頃から。だって爽は、ひなちゃんのためにクズを演じていたんだもんね」

 急に立て板に水のごとくしゃべりだした姉を爽は眉をひそめて見つめる。

 手に持ったスポーツ飲料がじっとりと汗ばむ。咽喉が鳴った。

「そうしたら街の皆が爽のほうを悪く言うから、誘ったのはうちのお父さんのほうだったって思うようになるから。……はた目に見てて痛々しかった。お母さんもあんたも……どうしてそんな愛し方しかできないのか」

「ぜんぶ姉さんの妄想だろ」

「そうね。妄想だから、ずっと言わなかったよ」

 妄想だからと言いながら、透子は見透かすように目を細めている。

 体温がじんわり上昇していくのがわかる。きづかれていた、という羞恥。平静を装いたいのに、うまく表情が繕えない。ちがう、と言いたい。けれど、言ったらバレると思うから何も言えない。

 ――あの日。爽の父親と日魚子の母親の不倫がつまびらかになり、ふたりが一晩だけ失踪しようとしたあの冬の日。

 日魚子は壊れた愛に泣いていたが、爽は自分たちの親が万一くっつきでもしたらどうなるのだろう、とそちらのほうに気を取られていた。

 生まれたときからずっと一緒だったとなりの家の女の子。幼い頃、爽は日魚子は自分の家族だと思っていた。しばらくしてそれはちがうときづいたけれど、いつか大人になったら、結婚して日魚子と家族になるのだと思った。爽は日魚子が好きだったのだ。

 だから、ナナカマドの下でわんわん泣いている女の子を目にしたときも、自分だけは何があってもこの子のそばから離れないようにしようって心に決めた。爽だけはずっと変わらず、この子のとなりにいるのだと。けれど、そのときの爽は自分が掲げた言葉の意味を真実理解してはいなかったのだ。

 中学に上がった頃から、まえのようにできなくなった。

 それまでと同じ無防備さで接してくる日魚子に、無性に苛立ち、不安になった。うかつにこの子に触れたら、なにか決定的な断裂が生じてしまいそうでこわい。日魚子が抱えていない得体の知れない欲が、爽のなかにはある。

 このときになってようやく、はじめて見たときはぼんやりとしかわからなかった、親たちがベッドでしていた行為の意味をはっきり理解した。好きな女の子と自分という最悪なかたちで、あの日の行為が夢で再現されたからだ。

 朝、ベッドのうえで途方に暮れた。

 体温が下がった身体をこごめ、この気持ちは絶対に悟られてはならないと思った。

 だって、きもちわるいだろう。母親と不倫した男の息子が同じ目で見ているなんて。

 ありえない。ぞっとする。自分でもぞっとする。

 だから、きづかれないようにしようって、心の奥にしまって鍵をかけた。あの頃の爽は甘かったから、でももしかしたら、と果敢ない希望を抱いてもいた。いつか日魚子も爽を好きになってくれるかもしれない。恋、してくれるかもしれない。そうしたら。そうしたら――……。

 そんな日は来なかった。いくら待っても。

 ふしぎだった。

 三秒で恋に落ちる芹澤日魚子。そのそばにこんなにも長くいるのに、どうして俺だけには絶対に恋に落ちないのだろうって。今ならわかる。生理的に「無い」からだ。母親が不倫した男の息子と同じ関係になるなんて、きもちわるいしおぞましい。爽もそう思う。日魚子はただしい。爽だけがまちがえた沼に落ち込んで、そこからうまく出られずにいる。

 爽がこじらせているのは、親の不倫じゃない。日魚子への恋慕だ。

 絶対に叶わない、してはいけない恋を、別のものにすりかえて紛らわせている。

 姉の言うとおり、確かにはじめは日魚子の悪評を打ち消したくて、女をとっかえひっかえしていた気もするけれど、十年も続けているのだから、もうただの病だ。

 人間はストレスがかかると、別の刺激で興奮物質を流して苦痛を和らげるらしい。一度条件付けされると、やめたくても同じ行為を繰り返してしまう。アルコールや麻薬と同じだ。女なんかほんとうは好きじゃない。でも逃れたい。ただこの苦痛から逃れたい。

 ――そうちゃんはゆるすの?

 ゆるすとかゆるさないとかで、親の不倫を考えたことはない。

 爽はただ、わかる。菫の気持ちも、父親の気持ちも。

 そこにはたぶん切実な飢えも愛もなく、日魚子が信じる運命なんかどこにもなくて、ただ苦しかったから、忘れたかったから、身近な快楽に飛びついた。わかる。わかるよ。そんなのはまちがっている。皆がおなじことをするわけじゃない、そうなってしまうひとは心が弱かったんだ、そうだよ、それが正しい。でもこの行き場のなさをどうしたらいい。俺もそうなんだ。そうなんだよ。おまえはちがっても、俺はそうなんだよ。

「あんたももう大人だし、とやかく言わないけどさ」

 冷房の風量をわずかに落として、透子がつぶやいた。

「爽はこのままでいいの?」

 存外労りに満ちた声に瞬きをする。

 ぜんぶぶちまけたら、責め立てられると思っていた。それは爽の妄想か。

「ひなちゃんの今の彼氏、いいひとなんでしょ。たとえば、このままふたりがうまくいって結婚とかしちゃって、あんたそうしたら式にお呼ばれして、ウェディングドレス着たひなちゃんにおめでとうって言うわけよ。できるの?」

「できるよ」

 即答だった。眉根を寄せた透子に苦笑を返す。

「むしろせいせいする」

「やせ我慢しちゃって」

「そういうんじゃなくて」

 日魚子の痴情のもつれを何度見てきたと思ってるんだ。

 それに、大地と日魚子を焚きつけたのは爽だ。

 もういい加減、とどめを刺してほしかった。疲れたし、終わりにしたい。

 そして今のところ、姉が言う未来は、現実的にやってくるのではないかと爽は思っている。

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