06 爽、デートする。

 待ち合わせは、朝十時を指定された。

 新幹線の到着時間が十時らしい。しかたなく東京駅の改札で待っていると、十時を三十分以上過ぎたところで、改札の向こうから「そうちゃん!」と呼ぶ声がした。ぶんぶんと手を振る五十過ぎの女は、紺のニットに細身のジーンズを履き、海外旅行にでも持っていけそうな大きなトランクを引いている。名前をすみれという。

「ごめん、お待たせー」

 改札から出てきた菫は、悪気なんてまるでない顔をしている。

「待たせすぎだろ」と文句を言って、爽は菫が差し出したトランクの持ち手を取る。はために見たら、たぶん実の母子にしか見えないだろう。それくらいの年の差がある。

 芹澤菫。彼女は日魚子の母親である。つまり爽の父親のかつての不倫相手。

「荷物、多すぎない?」

「んー。いま、日本一周中だから」

「はあ?」

 さらっと返された言葉にさすがに目を剥く。

 爽にトランクを預け、ショルダーバッグひとつになった菫は身軽そうに歩いている。切りそろえたショートカットから形のいい耳がのぞいた。きれいなひとだと思う。崩れたところのない、年を重ねたきれいさ。

「仕事は?」

 菫は確か新潟市の病院で事務員をしていたはずである。

「辞めた」

「はあ?」

 今度こそ心の底から呆れる声が出た。

「菫さん、いまいくつ」

「五十三だよ」

「これから食っていけるんすか。貯金は?」

「ははは」

「はははじゃねーよ」

 日魚子も日魚子でどうしようもない女だが、こちらはさらに輪をかけてどうしようもない。生活力とか計画力のようなものがポンコツだ。さらに二三、苦言を口にしかけてから、どうしてこの女の今後を俺が心配しなくちゃならないんだ、と我に返る。

 菫と日魚子は、日魚子が高校卒業後、上京してからずっと絶縁中である。

 そのまえから家庭内ではすでにつきあいが絶えていた。日魚子は爽の父親と不倫し、一度は自分を置いて逃げようとした菫をゆるさなかった。東京の大学に奨学金での入学を決めて家を出るときも、マンションの保証人の欄に印だけ押させて、あとの連絡は完全に絶った。日魚子の部屋には、実家から持ち去った父親の位牌が置いてある。日魚子が自分の家族だと思っているのは、生まれてすぐに死んだ父親だけなのだろうと、日魚子の部屋にぽつんと置かれた位牌とちいさな花瓶を見るたび、爽は思う。

 東京駅近くのホテルに宿を取ったというので、ひとまず巨大なトランクをホテルに預けてしまう。

 手続きを終えると、「スカイツリー、見に行きたいな」と菫が唐突に言った。

「東京タワーは行ったことあるんだけど、スカイツリーは見たことないんだよね」

「そんな面白いものじゃないですよ。今日曇ってるし」

「まあ、いいじゃない。デートしようよ」

 おおらかに笑って、菫はホテルから出る。

 歳こそちがうが、菫と日魚子はよく似ている。顔もそうだし、声のトーンやしゃべり方、笑い方やなんかも。日魚子は非常に不本意だろう。でも似ている。爽と爽の父親がやっぱり似ている、と姉に指摘されるように。歳を重ねるにつれ、どんどん忌むべき顔に近づいていく、これは呪いなのか?

 押上駅で降り、先端が雲に隠れたスカイツリーを見上げる。

 強風のため、展望室は閉鎖されていた。

 あら、と残念そうに菫は眉を下げ、「ならペンギンが見たい」と隣接する水族館を指す。こちらは開館中だ。土曜の昼過ぎということもあり、そこそこひとでにぎわう水族館に入る。

 クラゲが揺れる水槽を何とはなしに眺めながら、そういえば日魚子は今日は大地とコーンクリームコロッケだったなと思い出す。日魚子と大地がデートもどきをしているとき、別所で爽は日魚子の母親とデートもどきをしている。どうしてこうなった、と爽も思う。

 菫と爽が再会したのは三年ほどまえだ。

 爽の父親の通夜でのことだった。母と姉は葬式にも絶対出ないと決めていたらしい。爽はそこまでかたくなに誓っていなかったものの、いまの会社に入社したばかりだったし、わざわざ新潟まで戻るのも面倒くさかったから、べつにいいか、と思っていたら、代わりにあんた行ってきてよ、と姉に命じられた。めずらしく真摯な声で。

 しかたなく深木家代表として、黒のスーツに黒のタイを結んで足を運んだ。

 五十七歳でがんが見つかって倒れた父親は、爽たち以外に身寄りがなく、葬式も会社の上司が喪主をつとめて出してくれたらしい。離婚したあとは、一切連絡を取らなくなっていたから、実に八年ぶりの対面だった。

 いちょうの葉が燃えるように輝く季節だった。まばらな弔問客のなかに、見知った女を見つけた。喪服にすらりと身を包んだ、見覚えのある顔。菫だった。

 とっさになぜ声をかけてしまったのかわからない。どうでもいいことは要領よくこなせるのに、なぜ、肝心なときに下手を打つのか。爽にはそういうところがある。

 爽を見た菫は、ぽかんと口をあけて驚いた。いつの間にか爽のなかで、菫はふしだらでだらしがない悪女のようなイメージになっていた。でもこの女は確かに日魚子の母親で、日魚子はこの女の娘なのだと思わせる毒気のない表情に、爽のほうこそ面食らった。

 菫はなぜかゼリーがふたつ入ったビニール袋を提げていた。

 焼香を終えたあと、ふたりで公園のベンチに座ってゼリーを食べた。

 あれ以来、年に一度くらいの頻度で菫は爽に連絡を寄越してくる。

 だいたいは東京に用事があるとかで、こんな風に東京駅で落ち合って、半日ほど菫の東京観光につきあう。日魚子には言っていない。言ったらたぶん、アパートの窓ガラスを割るくらいの剣幕では済まないだろうという予感がある。日魚子は菫をゆるしてないし、爽も当然おなじだろうと思っている。

 クラゲの水槽が並んだ薄暗い展示室を出て、すこし歩くと、ペンギンが飼育されているエリアが現れた。おめあてのペンギンに、菫は目を輝かせる。群れになったペンギンたちから離れた場所で、一羽のペンギンが毛づくろいをしている。菫はそのペンギンが気に入ったようすで、ガラス越しに熱心に視線を注ぐ。

 似ている、と菫がつぶやく。

 誰に?とは訊かない。

「なんで辞めたんですか」

「ん?」

「仕事」

 水族館に来るのはいつぶりだろうか。

 ペンギンの群れにはあまり興味がわかず、爽はスマホをいじりながら尋ねる。菫はペンギンから目を離さずに、ふっと鼻でわらった。バッグから取り出した財布を爽に差し出す。

「おなかすいたね。おごるよ、少年」

「少年て。いつのはなしだよ」

「わたしはペンギンソフト。そうちゃんも好きなもの買っていいよ」

 強引に押しつけられた財布を持って、展示エリア内に併設されたカフェに向かう。やたらとペンギンのメニューが並んでいるなかで、ペンギンのマシュマロがのったソフトクリームとふつうのアイスコーヒーを頼む。ひとの財布を使うのはなんとはなしに気が引けたが、菫だし、と思って、長財布のチャックをあけた。カードが整然と並んだ財布。ポイントカード、美容院、服のブランド、診察券。

「そうちゃん」

 支払いを済ませると、菫がテーブルから手を振った。

 ありがとう、と屈託なく微笑んで、ソフトクリームを受け取る。対面の椅子に腰掛けつつ、菫とおやじはこんな風にふつうのデートをしたのだろうか、とすこし考える。なんだか想像がつかなかった。菫は父親と顔が似ている爽に、郷愁めいた感情を抱いているから、こんな風に傍若無人に連れまわすのだろうか。それもちがう気がした。

「あのさ」

 コーヒーに口をつけ、爽は菫に目を向ける。

「なんでうちのおやじと不倫したの?」

 爽の質問に菫はあまり驚かなかった。

 むしろこれだけ何度も会っておいて、一度も訊いてなかったのか、と自分で呆れる。

「んー」と菫はまのびした声を上げた。ソフトクリームにささったマシュマロを引き抜いて口に入れる。

「ゼリーくれたから」

「……ゼリー?」

「あの頃、わたし、ひとりで日魚子を育ててたでしょう? 今よりもっと安月給の事務員で、いつもお金の心配してた。家賃、光熱水費、食費、日魚子が小学校に上がってからは毎月の給食代も。子どもってどんどん大きくなるから、服代だってかさむしね。旦那が残したお金もどんどん減っていっちゃうし、このままどうなっちゃうんだろうって、先が見えなくて、いつも行き先のわからない小舟に揺られているみたいで、不安だった。そんなときわたし風邪ひいて、馬鹿みたいに熱出て。そしたら、そうちゃんのお父さんがゼリーを買ってきてくれたの」

 懐かしそうに菫は目を細めた。

「あれはうれしかったな。あんなおいしいもの、わたしははじめて食べた」

 ずいぶんとうつくしく語ってくれる。

 不倫が露見したきっかけ――菫と父親がベッドでまぐわうすがたを見つけたのは爽だ。日魚子を探して訪ねた寝室で、それは行われていた。「不安」。不安で、だから手近な欲に負けた。それだけだろ。結局それだけなんだろ。あなたも、あのひとも。なのに、なぜそれ以外のものがあったようなふりをする?

「ほんと最悪だな」

 口をついて出た言葉は、思いのほか苦みを帯びていた。

 その最悪な女に、呼び出されるとつい会いに行ってしまう。

 無視することもできた。着信拒否することも。母も姉も日魚子だって、この女と連絡は取っていないだろうに、爽だけがなぜか見捨てられずにいる。幼い爽は確かに菫と父親に傷つけられて、人生を狂わされたと思うのに。

「日魚子はげんき?」

 ふいに無表情になった菫が息をするようにつぶやいた。

 爽は目をそらして嘆息する。

「……げんきだよ」

「そう。そっかあ」

 菫の顔にもとの笑みが戻る。溶け始めたソフトクリームをそそくさと食べる。

 日魚子はげんき? げんきだよ。

 ただそれだけのやりとりをするために、菫は東京にやってきているんだろうな、ということにうっすら爽はきづいている。もし自分に色目を使ってくる女ならとっくに切り捨てていた。でもそうではないから、こうやってずるずると見捨てることができずにいる。甘い。爽はほんとうに根が甘い。シングルマザーがどんなに大変でも、日々の生活費を稼ぐために疲れ果てて行き場をなくしていたとしても、皆が皆、となりの家の父親と不倫をするわけじゃない。菫は弱かったんだ。弱さを理由に、天秤にかけて、日魚子のほうを捨てた。しかたがなかったんじゃない、おまえが選んだんだ。これはおまえの選択の結果なんだ。だから、同情なんかしなくていい。

「あとどれくらいなんだ」

 氷が溶けて薄まったアイスコーヒーはもう飲む気が失せていた。容器を近くのダストボックスに捨て、ガラス越しに毛づくろいをするペンギンに目を向ける。すべすべした嘴を上げ、助走もつけずにプールに飛び込んだ。

「どれくらいって?」

「あなたの余命」

 借りた財布をあけたときに見つけた診察券が脳裏によぎる。

 がんの末期医療専門の病院だった。それでわかった。今このときに菫が唐突に仕事を辞めた理由。日本一周なんて馬鹿げたことを始めた理由。東京にやってきた理由。ぜんぶがつながってしまった。爽に菫が財布を渡したのはわざとだろう。診察券だって見える位置にわざわざ入れておいたにちがいない。

「さあね」

 菫は口角をあげると、半分以上残したソフトクリームを捨てた。

 爽が以前イメージしていたままの悪女らしい微笑みだった。


 結局スカイツリーにはのぼることなく、菫とは押上駅で別れた。

 ホームに立って電車を待ちながら、爽は端末に表示した菫の番号を見つめる。ボタンひとつを押せば、着信拒否をしてそれで菫との関係はおしまいだ。ほかの女との関係はさんざん切ってきたのに、菫に対してはおなじようにできない。

 たとえ菫が過去を後悔して、やり直したいと願っていたとしても、日魚子は菫をゆるさないだろう。爽の母親は最後まで父親をゆるさなかった。爽も父親をゆるす気にはなれないまま、結局言葉らしい言葉を交わすことなく死別した。そのことに一抹でも悲しみが感じられればまだ救いがあるのかもしれないが、実際のところ爽は父親が死んでせいせいしている。縁が切れた。やっと。身体がすこしだけ軽くなった気がした。

 菫が死んだら、日魚子もせいせいするのだろうか。

 菫の余命をきっと爽は日魚子に伝えない。菫だってわかっている。それでも、実の娘にはなにも言えないで、不倫した男の息子を呼び出してしまう菫という女に、爽は父親に対してはついぞ抱けなかった一抹の悲しみを、なぜか感じてしまうのだ。

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