第7話 夢の中で会った人

 そしてわたしは今、ソファに戻って書庫から持ち出した本を読んでいる。

 この世界――マデラゼータとかいう名前の世界の歴史書や、この世界で使われている魔法書やらを探し出したものの、一緒に持ち出した料理本に興味が向かってしまうのは仕方ないところだ。


 マルガリータは書庫を魔力で作り出した結果、もの凄く疲れてしまったらしい。彼女はわたしの向かい側のソファに横になってすぐ、寝息を立てて眠ってしまった。

 その寝息をバックミュージックにしてしばらく料理本を読み漁った後、わたしは魔法書を枕にして料理本を顔の上に乗せ、目を閉じた。


 前世でわたしはどんな人間だったのか。

 目を閉じて必死に思い出そうとしていると、ぼんやりと浮かび上がってくる記憶の断片がある。まるで、深い沼の底から湧き上がってくるかのように、その断片以外には靄がかかったようにはっきりとはしない。

 それでも、わたしが多分――自宅と思われる台所で料理をしているのが見えた。ステンレスの使い込まれたキッチンは、若い女性が使うには質素とも言えた。食洗器もついていない、ガスコンロとキッチン台が別になっているやつ。

 豚肉や野菜を切ってフライパンに入れているが、その量からして一人分だ。

 一人暮らしだった……?


 それにしては、家の造りが広い。

 台所、八畳の自分の部屋、お風呂とトイレ。平屋だけど居間も仏間も八畳、おじいちゃんやおばあちゃんの部屋も――。


 そうだ、わたしには祖父母がいた。

 また唐突に、記憶の沼から浮かび上がる。無口だけど優しい祖父と、シャキシャキ系の元気のいい祖母。

 でも、二人とも亡くなったんだ。確かそう。わたしが高校を卒業して就職した後、それぞれが別々に病気で……だったはずだ。

 そしてわたしは、祖父母が住んでいた家を相続してそこに住んでいた。


 じゃあ、両親は――?


 両親は車の事故で死んだ。雨の夜だったと思う。衝撃音の後の慌ただしい空気と、強い雨音が記憶にこびりついている。救急車のサイレンの音も。

 確か、その後でわたしは祖父母の家に連れてこられたんだ。何が起きたのか解らないくらい、幼い頃。小学校に上がる前の、明日は何をして遊ぼうか、くらいしか考えていなかった頃のわたし。

 でもそこからは、何もかもが変わったんだ。

 都会の生活から、都会から随分と離れた場所での生活。田んぼと畑、自然が豊かな場所。

 祖父母の家は農家で、いつだって美味しい野菜が食べられた。でも、娯楽らしい娯楽はテレビしかないような感じ。あまり裕福ではなかったのかもしれない。友達が持っているようなゲーム機なんかなかったし、図書館で本を借りて読むことが趣味になった。お金のかからない趣味って、そのくらいだったから。


 趣味。

 確か、他にもやりたかったことがあった。


 誰かの家の前で足をとめて、「いいなあ」と思ったことを覚えている。

 でも、うちにはお金がないだろうから言えなかった。


 だから、学校で……わたしは。


 そこまで考えたわたしの意識は、いつしか眠りの中に呑み込まれたらしい。洞窟の外ではまだ天高い位置に太陽があるだろうに、かなり強い睡魔に負けて、不思議な夢の空間に吸い込まれた。


「おお」

 わたしはぼんやりと辺りを見回しながら、単純な驚きの声を上げた。見下ろせばマントを巻き付けただけの幼い身体があり、素足のままどこかの草原に座り込んでいる。

 そう、草原だ。

 果てしなく続くような地平線まで見える場所。

 空には太陽が――いくつもあった。白く輝く太陽、赤い太陽や青白いもの、それに太陽よりも小さな星々らしきものがたくさん。

 そうか、ファンタジー世界だからこういうのもありなのかも。そんな馬鹿みたいなことを考えてみたりして、最初はここが現実の世界だと錯覚した。


「凄く綺麗」

 でもここが夢の中だと自覚したのは、自分の声がどこか茫洋と響く感じだったからだろうか。現実の世界では、こんな響き方なんてしないはずだ。空気に滲んでいくような響き。

 それに、草原の中にいるとしても……ちょっとおかしい光景があったし。


 足元に生えている草の柔らかさは、妙に現実味を持ってわたしに伝わってきていたけれど、現実味のないものも多数あった。それが、扉だけが無数に地面から生えていること。

 そう、建物なんてものはどこにもないのに、木でできた扉、石でできた扉、その色や大きさも様々な扉があらゆるところに『生えて』いた。


「……これは、某国民的アニメのやつだろうか」

 わたしはその場から立ち上がり、近くにあった扉の前に行った。淡い茶色の扉は真新しく綺麗だ。でも何となく、触れるのは躊躇われた。何だか、妙な力を感じたから。

 いや、正しくは魔力が感じられたから、だ。

「うん、触らないでおこう」

 一人きりだと感じると、どうしても独り言が出てしまう。知ってる、これは前世でもよくあった。一人暮らしの人間は独り言が多い説をここで声を高々と宣言したいところだ。

「ここは夢の中、何が起きてもおかしくない。そう、もしかしたら触っただけで爆発するドアがあるのかもしれないし!」

 自分で言ったことだというのに、さすがにそれはないだろ、と頭のどこかが言っている。

 でも、すぐにわたしの意識は別のところに向けられた。


 たくさんのドア、それこそ百以上あると思われるドアの陰に、人影があったように思ったからだ。


 一目惚れってどうして起きるんだろう?

 その人のことを何も知らないのに、見た瞬間にその人のことを『綺麗だな』とか思ってしまう。この人はいい人なんだ、優しそう、そんなことを何の根拠もなく思い込んでしまう。

 わたしは多分、前世でも同じ感情を抱いただろう。だって、身に覚えのある感情だったから。

 そしてわたしは、間違いなく彼に一目惚れをしたのだった。


 多分、彼は日本人、もしくはアジア系の人だろうと思った。

 短い黒髪と、黒い瞳。身長は高い方かもしれない。年齢は二十代半ばくらい。痩せ型で、白いシャツと黒いズボンを身に着けている。雰囲気的には、どこかのサラリーマンといっても納得するくらい、身綺麗な感じの人だった。これだけ見ても、彼が異世界の住人じゃないと解る。

 その彼は、ある一つのドアを見つめたまま、ただじっと立ち尽くしている。思慮深い横顔と静かな瞳。特に困っている様子もなく、静かにそこにいるだけ。

 そんな感じ。

 どうしよう、声をかけてみようか。

 そう悩んだのは一瞬で、どうせここは夢の世界なんだから、と頭のどこかで囁く声が後押しをした。


「こんにちは」

 わたしは彼のところまで近づいていくと、思い切って声をかけた。近づくまでが緊張した。これも覚えがある。野良猫に近づいて触らせてもらう時の秘訣。ゆっくり近づき、遠くから一度声をかける。そして、警戒心が薄かったら間合いを詰めていく。

 これはその応用だ。

「えっ」

 彼は急に声をかけられて、びっくりしたようにわたしを見た。小さな子供であるわたしを、幾度か信じられないと言いたげに、視線をこちらに向ける、そらす、を繰り返して。

「子供? どうしてここに?」

 彼の声は低く、そして心地よい響きだった。

 それに、発せられる言葉は日本語だ。それが解ると、何だか嬉しくなってつい口元に笑みが浮かぶ。もっと近づいても大丈夫そうだと解ったので、彼のすぐそばに立ってその困惑した顔を見上げてみる。

「ここは、夢の世界なんじゃないですか? だから、何でもありの世界なんですよ」

「夢。夢かな?」

 わたしを見下ろす彼の目に警戒している感じはなくて、どこか――困っているようだ。

「夢じゃなかったら何なんですかね?」

 現実味のない世界を見回して、わたしは首を傾げる。「こんな、扉だけの世界なんておかしいでしょ?」

「……うん、確かに」

 そこで、やっと彼が薄く笑った。頭を掻きながら、照れくさそうに。

 その笑い方も、親しみやすくていいと思った。


「あの、わたし……静香っていいます。八神静香」

「静香?」

 彼ははっきりとした男らしい眉を顰め、首を傾げて見せた。わたしと同じような角度で。

「日本人には見えないけど、名前は日本人みたいだね」

「そうでしょ?」

 わたしはにしし、と笑った。今のわたしはとっても可愛い幼女である。白銀の髪の毛と、淡い青の瞳を持つ白人。ただしタケノコみたいな角が生えている。

「それで、ええと……お兄さんのお名前を訊いても?」

 わたしが続けてそう問いかけると、彼は心の底から申し訳なさそうな顔をした。

「覚えてない。自分の名前とか……色々と」

「ありゃ」

 今度はわたしが頭を掻く番だった。

 彼はまるで捨てられた子犬みたいな表情で、帰る家を探しているかのように辺りを見回した。

「……俺は日本人だった、ってことくらいしか覚えていないんだ」

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