七、

 枕元のスマホがブルッと震え、LEDが点滅する。近所に住む伯父からだ。すっかり闇に包まれた部屋の中で、おれは電気も点けずに返信する。「大丈夫です。少し食欲があります。」

 数分後、引き戸が合鍵で開けられる音に続いて、ビニル袋が玄関に置かれる音、それに続いて「白米とパックのお粥、両方買ってきた」という声がした。「ありがとう」とおれは今の体で出せる精一杯の声で答える。だが出ていって顔を合わせることはできない。この忌まわしいウイルスが体から完全に出ていってくれるまで、おれは誰とも一緒にいてはいけないのだ。

 発症してからというもの、伯父は毎日二回、こうして食料を届けに来てくれる。ありがたくて涙が出るが、相変わらずおれは独りだ。

 ふとおれは、自分が独り者でよかったんじゃないかと思った。少なくとも辰起みたいに家族を持っていたら、今よりもっと大変だっただろう。この感染症は、孤独とどこかで繋がっている。

 ふと、今もまだあの女といたら……という考えが湧いてきて、おれは自分が完全にどうかしてしまったと思った。短い結婚生活の日々……思い出したくもない記憶を掘り返すなんて、まるでおれらしくない。


 あの女――今ではおれと同じ名字を名乗っていたことを思い出すだけでぞっとする――ミカとは、友達主催のパーティーで知り合った。美人が多いことで有名な女子大に通っていて、もとの顔の作りもよかったし、さらには自分を美しく見せることに余念がなかった。最初は誘ってもつれなかったが、おれが三年生の時にそこそこ名の知れた商社に内定をとると、急に心を許してくれるようになった。そんな女の魂胆が見抜けなかったおれはバカだって?……そうかもしれないが、美しい女の誘惑に抗える男なんて、この世に何人いる?それに彼女は、おれが経験してきたようなくだらない田舎町の人間関係とは無縁の環境で生きていた。おれが離婚で別れたいとこの辰起について――母親の悪口とか、伯父が歳の離れた妹を甘やかしているとかいう都合の悪い部分は省いて――聞かせると、そんな世界が本当にあるのと聞き、いとこ同士で仲がいいなんて素敵だと目を輝かせた。おれにとってミカは自分だけの宝物で、そんな美しい宝物を手に入れられて大満足だった。

 おれが就職して結婚すると、ミカは自分の仕事を辞め(それまでコンパニオンのアルバイトをしていた。長く続けるつもりはないようだった)一日中家でネイルを塗ったり、結婚前から飼っていたコーギー犬とペットカフェに行ったりして過ごしていた。おれはミカが家事をしないで部屋を汚くしていてもそれほど気にならなかった。子供時代の長い時間をマユミちゃんの家で過ごしたせいで汚い部屋には免疫があったし、女に家事をやらせると皺と愚痴が増える。それこそおれの一番嫌いなものだ。

 だから、出張が予定より早く終わったあの日、おれはミカにこれから帰るとメッセージを入れるべきだったのだ。そうすれば、あのおぞましい光景を見なくて済んだだろう。だが疲れていて少しでも早く休みたくて、それに自分の家に帰るのに遠慮も要らないと「油断した」――おれは被害者なのに、こんな言葉を使うのはおかしいんだが。

 現場にいたのはおれの大学時代の先輩で、その頃はおれが勤める会社への発注権限を握っていた。おれはなぜか、彼に文句をつける気にはならなかった。ミカに対しては、浮気をしていた事実そのものより、二人が狭苦しい部屋で極めて平凡なセックスをしていたことに腹が立った。せめて風光明媚な場所にある高級旅館か、海外の隠れ家的ホテルに高飛びして、ドラマチックな逢瀬を楽しんでいたなら少しは許せただろう。だのになぜ、おれが日々我慢して稼いでいる給料で借りたマンションの、しかも生活臭漂う寝室でそんなことをしていたのだろう。おれは、一度は自分だけの宝物だと思ったミカが、実はどこにでもいる現金な女だったことを知って失望した。二人はその場から慌てて立ち去り、おれにも少しはなついていると思ったコーギー犬はミカが呼ぶと尻尾を振ってついていった。数日後にミカからは離婚したいというメッセージが、男の方からは弁護士を通じて慰謝料を払うという手紙が届いた。だがこれからも仕事では彼と取引をしなければいけないのだと思うと、おれは会社に勤める気がしなくなった。失ったのは勤労意欲だけではない。自分はもうどんな女を見ても欲情しないだろうと思った。実際、インターネットや雑誌でどんなに美しく魅惑的な女を見ても、おれはもう何も感じなかった。女にとっておれは、金かあるいはそれ以外の何かを引き出すための、いくらでも取り替えのきく「モノ」にすぎないのだと思うと、気分が盛り上がることはなくなった。

 だがそれは、意外なところで役に立った。ちょうどマユミちゃんが癌で、「全面的な介護が必要なほど衰弱している」と辰起から聞いた時、おれはすぐに覚悟が決まった。「介護」というのは当然下の世話も含まれるだろう。以前のおれだったら身内とはいえ若い叔母にそんなことは絶対にできなかっただろうが、自分は女の体を見て愉しむことなど二度とないのだと言い聞かせたら羞恥心はどこかへいってしまった。世話をされる方のマユミちゃんももはや恥ずかしがっている余裕はなかったのか、黙っておれにされるままになっていた。だが後から考えてみればそれは、マユミちゃんのおれに対する優しさだったのかもしれない。

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