酒場の事件
そうこうしているうちにチンピラたちはjane_doeを囲み出し、ここでは口に出来ないような品定めの文句を言い始めた。――なんだ? このゲームは全年齢ではないのか? だが若頭LV10だけは沈黙を保ちながらこちらに一瞥呉れただけであった。嗚呼、リーリウムのいないうちに、否、チュートリアルの終わらぬうちに単独行動をすべきではなかった。
「おい、ネェちゃん」
ガンガン痛む頭に上から声を掛けられて、jane_doeは急に我に返った。
その様子を見てチンピラどもはげらげらと笑い出す有り様だ。声を掛けたのはこの場末の酒場のマスターと思しき中年男で、脂ぎった手には木製のジョッキを持っている。
「店の奢りだよ、飲みな」
チンピラはジョッキを受け取るとそれを汚い手でリレーしてきては、jane_doeのところへと運んできた。彼女が受け取って覗き込むと、中には薄黄色の液体がなみなみと注がれている。
そこで初めてチンピラ達と店主に対してjane_doeは口を開いた。
「なんだ、この飲み物は?」
「御挨拶だな、エールだよ。飲んでも酔えない安酒さ」
店主は――自らも飲んでいるのだろう、酒臭い息で凄んで見せたが彼女は動じなかった。
ゲーム内とはいえアルコールを飲んでは動きが悪くなる、これだけの人数を相手にしたときに不利だぞ、と。そう思いjane_doeはこう答えるしかなかった。
「残念だな、私は酒は飲まない」
「飲めない、の間違えじゃねえのか?」
チンピラの一人がそう言うと再び嘲笑が店内に沸き起こった。怒っちゃ駄目だ、怒っちゃ駄目だ……怒ったところで、これだけの人数とあの若頭LV10 を相手にする自信がない。当の若頭はjane_doeには無関心に安酒をちびちびやっているだけなのだが。
「おい? さっきから飲めない姉ちゃん若頭の方チラチラ見てねえか?」
見てはいない。否、見ていたが。
遂にチンピラの一人が私に手をかけた。気持ち悪いな――!
「その汚い手をどけろ……」
違う、私はそんなこと言ってない。
だが、若頭LV10は席を立つと抜刀した、鈍い金属のにおい。
「その汚い手をどけろと言ってるんだ、三下ァーッ!」
だから私は言っていない、さっきから無言のままだ。
チンピラ達と店主は店を大急ぎで逃げ出し、私に張り付いていた奴と若頭だけが店内に残された――もっとも前者は逃げ遅れただけだが。
「いいぞ、その残ったチンピラを殺せ! 逃がすな」
その声は物騒なことを言った。何が何だかわからない。私は無我夢中だった、アーシュベックから借りている(筈の)短剣でチンピラの眉間を一刺しした。それはバターのような切れ味で――口笛が聞こえる。
「良い選択だ! さて若頭LV10、アンタは一日に一度しか殺せないんでな? 今日も死んでもらうぞ?」
その言葉に漸く別プレイヤーの存在を感じてjane_doeはおそるおそる振り返った。
そこに居たのは同じ『Tiger chaser』の少女だった。虎を屠るための太刀、青黒い長髪に灰色の眸、だが大分様子が違った。何故――?
そして少女と若頭は狭い店内で戦い始めた。
彼女は私がアーシュベックから受け取った物よりだいぶ良い部類の長剣を使っていた。幾たびか白刃が閃いたが勝負は呆気無くつき、jane_doeの足元には若頭の頭部が血の軌跡を描きつつ転がってきた。
しばらく彼女は若頭の亡骸の近くに立っていたのだが(恐らくパラメータを割り振っていたのだろう)こちらを振り向いて話しかけてきた。
「あんた、さっきのチンピラ殺したんだろ? さっさと割り振りなよ」
「あ、ああ……」
そう言われてjane_doeは初めて己の強化を今行った。
それだけこの『Tiger chaser』に呆けていたのであった。自分よりも、確実にこのゲームに慣れている相手に対して。
「それとこれ、未鑑定だけど持って行きな、あの若頭の得物だ何かはまだわからない」
彼女はずっしりと重いドスのようなものを私に渡した。いったい何時鑑定ができるようになるのか? 相手はそれを知っているのではなかろうか? ひどく動悸がして喉はカラカラに感じた。
「さてと……通常のチャットモードに移ってもいい
「私か!? 通常のチャットって何だ?」
「詳しくはこのゲームのヘルプを見てよ、出来た?」
「あ……」
jane_doe:貴方は誰ですか?? 他のβテストのプレイヤーということですか?
???:そうじゃなきゃ通常のチャットモードに入れないでしょ、今晩ははじめましてjane_doe!
jane_doe:はじめまして何故貴方は名前が非表示なんです? それに何かどす黒いものを感じましたが……
???:ああ、アライメントが傾いてるからね、名前はまだ他のプレイヤーに教えない主義ってか恥ずかしい名前付けちゃって変更不能だから本登録まで非表示にしてるだけだよ。
jane_doe:まさか本名入れちゃったりした?
???:そういう正鵠を射ることをするんじゃない。
jane_doe:当たってるんだ……ところでアライメントが傾いてるって?
そのとき全てが暗転した。
“Login incorrect. User ID’s and password are case sensitive. Please try again.”
「強制的にログアウトされた……!? だと?」
気が付くとそこには密林を背景にβ版の D.D.T onlineタイトルが延々とスクロールしているだけだった。
IDとパスワードのクッキーは何故か切れていた、もう一度メールを見て入力し直すが……
“Login incorrect. User ID’s and password are case sensitive. Please try again.”
「入れなくなった!!」
「……もう、慌てないで。順番を間違えただけ。でも貴女まだわたしがチュートで教えてないことしちゃったのよ、これは重大な違反だわ」
そうリーリウムは嫣然と笑いながらjane_doeの前に姿を見せた。
この冬は終わらない。
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