fifth dimensions
fifth dimensionsは東新宿というより御苑にほど近い雑居ビルにあるこじんまりとした店舗で、銀鶏が客を拒絶するかのような狭いドアを開けた時にかかっていたのは、電気グルーヴの『虹』だった。
店内には店長の買い付けたモルフォのアクセサリーやレジンの置物――どれも独創的な物でその筋の人間が己の嗅覚に敏感に反応してしまう類のものだということを、銀鶏は来店する度にひどく引力と喉の渇きを感じながら嫌というほど味わっていた。
それはあの『薔薇の名前』の主人公が黙示録の彫刻を視て、幻視に陥った感覚と似通っていた。白檀かそれに似た香の匂いがぷんとしたが店の奥で香炉でも焚いているのだろう。
見回すほど広くもない店内だったがアイカはまだ来ていなかった、店長は在室している筈だが決まって客には声を掛けようといしない。よくそれで商売が成り立つものだが、彼女を店番にしておく程には売上はあるらしい。することもないし、店主に声もかけられないので銀鶏は店を見回していたが、相変わらず不思議で美しいものばかり集められている小宇宙のようで、飽きが来なかった。
――そこでおそらく昨晩アイカの言っていた『女教皇の椅子』を発見した。
それは40センチ四方ほどのミニチュアで白と黒市松模様の床、青い天鵞絨の張られた金の椅子、椅子には天蓋が続いて付いており、きらきら光る星がぶら下がっていた。背後には夜空を模した壁、左右にはあの有名な白と黒の柱 (JachimとBoaz) が屹立していた、足元には彼女が踏むべき三日月が鈍い光を放っている。
つまりここに居ないのは『女教皇』その人だけなのだ!
いったい誰がこんな狂った創造物を? 銀鶏はこの『椅子』に夢中になった。確かに、
「それが気に入ったかい?」
店内BGMはいつのまにかMijk Van Dijkの『Shelter』に変わっていた。
低い声をかけられて、銀鶏は『椅子』を身じろきもせず眺めていたことに初めて気が付いた。背中を冷や汗が流れた。
「残念ながらそれ、売り物じゃないんだ。悪いね」
店長は以前一度アイカに連れられて見たことがあったが、無理やり髭を伸ばしている三十半ばの男だった。いかにも「変わりものです」という風体だ。それは銀鶏も同類といったところなのだが。
「アイカから聞いてます『女教皇の椅子』ですよね?」
「ああ、君は彼女のイイヒトだったか。どこかで見た覚えがあった、でも『椅子』は売り物じゃないわたしの個人的なコレクションの一部でね、漸く手に入れたんだ」
「この店にはコレクションなのか商品なのか分からないものだらけですね、少なくとも良すぎる物は貴方の個人的な所有物だった気がします、前回お邪魔した時そう聞きました」
「君に話したかどうかはわたしの記憶の些細な紙魚みたいなものだ、つまり重要なことじゃない、わたしにとって他人とはそういうものだからね。でも君の事は覚えている、彼女がいつになく浮ついていたよ」
店長と話していて、銀鶏はアイカが待ち合わせの時間をすっかりすっぽかしていることに気が付いた。
「今日、彼女は非番なのでしょう? ここで待ち合わせをしようと呼び出されていたのです、そこで偶々――否、予め私はこの『椅子』について彼女から聞かされていました。吃驚するから見せたいものがあると、正直こんな狂った、勿論良い意味ですが狂ったものだとは思ってもみませんでした」
「そうだろう! 狂ってる。この『椅子』は狂ってるよええと君――」
「銀鶏です」
「銀鶏くん、これは狂人の創造物だよ。あるいは此岸のものではないよ、どうやら『あちら側』からやって来たらしい、だからわたしのコレクションとした、それは彼女も重々承知の上だ」
「このミニチュアは彼岸から此岸に差し込む一片の曙光のようなものです、確かに誰かに独占されず貴方のコレクションとして店に展示してここを訪れる人に開示すべきかもしれませんしかし――」
「しかしなんだね?」
店長はろくすっぽ生えてもいない顎髭を無理やり撫でた。どうやらこれはこの男の癖みたいなものらしい。
「しかし『椅子』が示唆する彼女の存在はあまりに、あまりに――」
「ごめん遅れちゃった、人身事故だって。頭来るごめんね
そのときアイカが不意にfifth dimensionsの店内に入ってきた。相変わらずの真っ黒のボブカットに真っ赤な口紅、過剰なマスカラ、緑のカラーコンタクトを入れている。何故店長がアイカを雇っているのか判る気がした、この日のアイカは黒ずくめでコルセットにぼろぼろの編みタイツに鎖の付いたブーツを履いている。
「店長、待ち合わせにここ使ってすいません、銀鶏がなにか余計なこと言いませんでした?」
店長は無い髭を擦りながら答えた。
「いや、君が見せたがっていたというこの『椅子』について、有意義な話ができたとわたしは思っているよ」
「あら? もう銀鶏『女教皇の椅子』見たの?」
「見たもなにも堪能させてもらったよ、これがアイカの見せたかったものね……何もかも降参だ、これはすごい。そしてそれについてここの店長さんとお話しさせていただいた次第という訳だ」
「そうなの、良かった。じゃあ、先ずは食事にでも行きましょうか?」
アイカは銀鶏の袖を引っ張って店外に出るよう促したので、仕方なく店長に別れを告げることにした。
「貴重なものを見せて頂きありがとうございました、これで失礼します」
店長はジェスチャーだけで謝意を示したが、銀鶏にはそれで充分だった。
fifth dimensionsを彼女と出ると東新宿の手ごろなバーで少し早めだが飲んだ(時計は18時半を指していた)。フィッシュアンドチップスを口に運びながら、ハイボールのグラス片手にアイカの他愛もない話に耳を傾けて、私は笑顔を見せた。別につまらないわけじゃない。
その後彼女の買い物に高額な支払をする羽目になることも予定通りで――
だが、ある程度彼女が仕組んだとはいえ、私はこの日終始上の空だったのだ。
”しかし『椅子』が示唆する彼女の存在はあまりに、あまりに――”
あのとき私はいったい何をアイカが来なければ何を言おうとしたのか……彼女の存在はあまりに、何だというのか?
この冬は終わらない。
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