陽の国の影、月の世界のひかり
布留 洋一朗
第1話 異世界転落は失恋とともに
–––– あれは、どう見ても奈々さんだよな…。
とっさに追跡を決意した茨木瑛二は、ずれたマスクを鼻梁まで引き上げた。
そして、気づかれないよう注意を払いながら、慎重にひと組の男女のあとについて歩きはじめた。
ペタ靴にパンツスタイルが定番の風見奈々が、今日は明るい色のワンピース姿になっていた。肩には財布ぐらいしか入らない小さなバッグ、足元はヒール高めのパンプスで決めている。
ときどき脚をもつれさせそうになるのは、そのせいなのだろう。後ろから見ていてハラハラした。
奈々と男はそのまま肩を並べ、超高層オフィスビルへと入っていった。瑛二もそれに続いた。だが、時刻は18時を過ぎていた。退勤する人々を避けつつアベックの背中を懸命に追いかけるうちに、
(やっぱり、やめとこうか)という気分が瑛二の胸にじわっと湧き上がってきた。
目標に警戒されてるわけではない。彼のダウナーな気分はただひとえに、
–––– 男と肩を寄せ合い歩く婚約者を尾行するなんて、いくらなんでもみじめすぎる。
と、いうことにあった。
前方を歩く風見奈々は、まだ婚約指輪を注文にも行っていないけれど、いちおうは婚約者のはずだ。しかしいったい、どういうつもりで、と瑛二は彼女を見た。
だが、つぎの瞬間、瑛二の目は大きく開かれた。
–––– こ、公衆の面前にもかかわらず手をぎゅっと握りあっとるではないか!狼藉者!
思わず彼は立ちすくんだ。奈々に手を差し出しても無視された経験しかない。わし、嫌われとったんかい!
いや、その後の経過を冷静に見ると、どうやらホールドハンズでもシェイクハンズでもなく、奈々が靴が原因でつまずいたのを男が助け起こしただけのようだ。
それでも激しく動揺した瑛二は、天を仰いだりするうちに二人を見失ってしまった。
焦ってあたりを探し回る。いない。
落ち着け、と自らに言い聞かせる。
あんな服装をしてわざわざここへきたということは、
(十中八九、展望台が目的のはず)と瑛二は推理し、間もなく3階に向かうエスカレーターの途中に奈々の後ろ姿をふたたび捉えるのに無事成功した。
とにかく助かった。ゆれる気持ちをどうにか抑え込み、瑛二は奈々が乗ったのと同じエスカレーターへと乗ってそのあとを追った。
上がり切ったところはシティホテルのロビーみたいだった。左手にオープンカフェ、右手は化粧室。突き当たりにはエレベーターホールがあって、これが展望台への入り口である。
「マジック・タワー」の愛称を持つこのビルは、周辺にある施設のうちでもひときわ優れた眺望を誇る。とりわけ最上階に設けられた展望台は、晴れた日には海まで見渡せる観光スポットとして知られていた。ついでにデートスポットとしても定番化している。
先ごろリニューアル工事が完了したためか、平日にもかかわらず客は多い。エレベーター前には軽い行列までできていた。
瑛二は注意深くそれを観察した。そして、先行の二人と重ならないよう距離とタイミングを調整し並んだ。オフィス街という場所柄、仕事帰りのリーマンといった風体の男がポツポツ混じっているのは都合がよかった。
エレベーターは、「スカイロビー」というやぼったい名のついたフロアへと瑛二を運んだ。
ドアの開く際は緊張したが、目指す2人はいなかった。さっと物陰に隠れてから周囲に視線を走らせる。
(あっ、いた)無料の展望台となっているガラス回廊にふたりはいた。互いに感想?を述べあい、周りの目など少しも気にならないみたいだ。チッ。
一巡し終わると、奈々は手前にあった土産物売り場に近づいた。なぜか妙に分別くさい顔になってグッズ類を見ている。
しばらくして、男の方から声をかけると揃ってチケットコーナーへと向かった。この階までが無料で、2階上にある屋上展望台へ入るにはチケットを購入しなければならない。見ているとワリカンのようだった。
「男、払ってやれよ」との罵りを瑛二は胸の内に押し殺した。
夏の陽は店じまいが遅い。
おしりがモゾモゾするシースルーのエスカレーターに乗ってたどり着いた屋上は、19時になろうとするのになお、明るかった。
デッキに足を踏み出すと、一気に別世界へ飛び込んだような錯覚を覚える。
暮なずむ空が息を呑むほど美しかった。
煩悩が一挙に洗い流されるようだ。
がっくり。
いまさらながら、「なにやってんだ、オレ」という自省の声が頭蓋に響いた。が、やめる決心はつかなかった。チケット代だってもったいないし。
奈々を目の端に収めつつ、眼下に広がる街並みと、その先にある海を眺めた。そういえば経緯は忘れたが、中学生の時に家族が揃ってここに登ったことがあった。あの時は両親も兄姉も元気だったし、さっきの透け透けエスカレーターでは大はしゃぎした。
あれから10年あまりのうちに、みな死んでしまった
現在の瑛二は、ある老舗のゼネコンの平社員として副都心にある営業所に属している。
まだ2年目の彼は、会社創業時になおせば小僧・丁稚に等しい。上役、先輩、顧客、協力会社とすべてに振り回されこき使われる毎日だった。
だが研修や技術系のセミナーについては、社風もあってわりと鷹揚に出してもらえる。
今日も午後から、本社近くのビルを会場に開かれた研修へ、営業所からただ一人参加した。会場の真向かいは展望台で有名な超高層ビル、マジック・タワーである。庶務のおばさまには「あら、いいじゃなーい」と羨ましがられたが、当初はそれほど興味があったわけではなく、むかし来たことも忘れていた。
18時過ぎ、プログラムの最後にあたる講演が終わり、とりあえず事務所へと連絡した。すると、
「いちいち戻ってくんな。おれも今日は早く帰りたい。お前も消えろ」と、親切なのか冷たいのか、どっちとも取れる指示を上司にいただいた。ありがたく従うことにしたのだが、他の参加者に飲みに行くほどの親しい先輩や同期はいない。とはいえ今日は週末だ。
(久しぶりの大都会だからなあ)(映画を観て帰るか、それとも展望台にでも登るか。どっちにしてもボッチ)
そんなことを考えつつ、いったん一階まで降りた。隣のビルと共通の広場を形成するエントランスをぼんやり歩くうち、広場の先にある一風変わった建築物が目に留まった。
樹木に囲まれ、洋風神社とでもいいたげな風情がある。リニューアルに先行して建てられた「緑のサンクチュアリ」とかいうテーマ建築物だ。アート系建築家先生の設計、瑛二の会社が施工を担当し、先生ご自身による解題も公表されていたが、読んだ先から忘れた。
(いちおう見ておこうかな)と、考えて足を踏み出したとたん、文字通り衝撃が総身に走った。
目の前の空間を、ひと組の男女が寄り添い横切って行く。その顔に見覚えがあった。
彼の世界が一瞬、凍りついた。
–––– わ、わしの婚約者が、別の男と肩をくっつけて歩いとるやんけ!
このごろ疲れ目はひどいけど、ぜったい見間違いはない。風に乗って女の声が聞こえた。滑舌のいいその口調は、風見奈々そのものだった。
情けなくも瑛二の足はふるえた。地面に吸い込まれそうだ。
気持ちを奮い起こそうと、心の中で婚約者を罵った。
なんてこった! あの、無邪気な笑顔は、真っ赤な嘘だったのか!
「毎日帰るのが待ち遠しい、明るい家庭にしたい」とかぬかしとったやろ!
–––– ちょっと落ち着こう。
息を荒げた瑛二は、深呼吸を重ねて冷静になるよう努めた。
実のところ、彼の憤りには誇張がかなり含まれている。
生真面目な奈々は冗談があまり得意ではなく、無邪気な笑顔を向けられた経験など無かった。
さらに結婚後に関する言及も、正しくは「お互い帰宅が嫌にならない家庭にするためには」との文脈中の家事と掃除の分担について述べたセリフだった気がする。
とはいえ、某風の谷の姫さまに比肩する責任感の強い堅物という彼女の人物像は、単純化が過ぎたようだ。ソースは奈々の実姉だったし。
もっと言えば、これまで瑛二が彼女に面と向かって15分以上会話したのは計6回。
うち3回に関しては、よく意味が理解できなかったが奈々の4つ歳上の姉、環が同席していた。
互いに年齢が若く、会ってすぐ好感は抱いたものの瑛二に現実味はなかった。奈々もそうだったろうと思う。
しかし、なぜか先方の親および紹介者である亡父の旧友、宮内が1日も早い婚約成立を強く望んだ。具体的な結婚のスケジューリングは互いにもう少し仕事に慣れてからで構わない。それよりとにかく……という調子だった。
宮内には就職の際に保証人になってもらった恩があった。だから彼の熱心な勧めに抵抗できなかった。
今になってみると、なにか裏があったのだろうか。
そう考えると。現在奈々がデート中の相手の男もきな臭く感じる。あれは宮内の甥っ子、芦部徹くんだ。間違いない。面識はないが特徴のある口元を覚えている。父の葬儀の際、宮内の運転手役をしていた。
親や兄姉が生きていてくれれば、風見家や宮内が隠した意図を見抜いてくれたかもしれない。だが、天涯孤独となった瑛二には、「新しい家族」を欲する気持ちが自覚した以上にあったようだ。
そういや、エイジは「反対はしないが、もう少し背景を調べるべきでは?」
と、言ってくれていた。聞かなかったのはオレのせいだ。
瑛二は小さく首を左右に振った。
エイジとは友人の名前である。それも空想上の。
彼にとっては唯一無二の親友だったが人に紹介などできるわけもなかった。
エイジは、瑛二が脳内に構築したレトロフューチャーチックな世界、それも日本より多分に近世ヨーロッパ的な要素の混じった環境に暮らしている。なおかつそこはドラゴンやグリフィンの跋扈する異世界であり、みじめな瑛二とは違ってエイジはそこで計り知れない力を有していた。
–––– エイジみたいに畏敬されてたら、こんな目に合わなかったんだろうな。
そう考えて瑛二はひとり自嘲した。彼の顔には微かな笑みが浮かんでいた。
瑛二のもの悲しい微笑みを、マジックタワー屋上展望台のさらに離れた場所から、一人の女が見つめていた。手足が長く、黒っぽい服の上からでも素晴らしいプロポーションの持ち主なのがわかる。
サングラスのために細かい表情はわからないが、彼女が瑛二を見つめる態度は、彼が奈々に対するそれより、遥かに熱がこもっていた。
瑛二が展望台に上がってすぐ、この場所に陣取った女は、彼が憤った表情をすると口元に笑みを浮かべ、悲しそうな顔になると自分も口を引き結んだ。
そんなサングラスの女のそばをサラリーマン風の男2名が通りかかった。
50代らしき太めの男と30代と思しき長身の男。長身の男が展望台を案内しているようだった。
太めの男は最初こっそりと、そしてすぐ遠慮なくサングラスの女の肢体をしげしげと見た。すると女がなにげない仕草でサングラスを外した。
すかさず太めの男は素顔を確かめ、はじめは称賛が表情にまで出た。釣られて隣の男も彼女に目をやり、口を小さく開いた。相手はそれほど美しく魅力的だった。
だが、二人の男はすぐに彼女の目の奥にあるなにかに気づき、原始的な恐怖に襲われたように身体をこわばらせた。
その後、ようやく四肢の自由をとりもどした二人は、逃げるように慌ててその場を歩き去った。二度と女を振り返ることはなかった。
不満げに鼻を鳴らした女は、おもむろに視線を瑛二に戻した。
夕暮れに染まった彼女の顔には、当初思い詰めたような表情が浮かんでいたが、そのうちなにかを思いついたようにふっと表情を緩めた。
小首を傾げ、夢見るように瑛二を見つめる。
そして。ほっそりした指を唇にあてると、ひとりごとを呟きはじめた。呪文でも唱えるかのように。
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