第39話 空のない海
「なんだ! ここは!?」
空が見えない巨大な血の海。
僕は自分の目と感覚を疑った。これはリアルで起こっている事なのか疑った。
ひどい臭いと研究所の中とは思えない大きな空間。
「どうして、こんなものがここにあるんだ!?」
驚きで大きな声で喚き散らしていた僕は、さらに恐ろしいものを見つけ言葉を無くした。
「……え?」
赤い血の海の上、僕が浮いている水面に……大勢の人がいた。
血の海を漂う人はみな腐っていた……身体が朽ちていた。
そしてゆっくりだけど人々は、僕に集まってくる。
驚いた僕が避けるように身体を動かすと、新たに水中から浮かび上がってくる人々。たくさんの人々の物言わぬ虚ろな目が僕を見る。
肉は剥がれ骨が見える。顔は表情を無くし、目は真っ黒な穴になっていた。
数百人もの朽ちた人々が、僕の方に漂って来る……
恐ろしい光景……思わず後ろに下がる僕の背中が大きな壁にあたる。
その感触は柔らかく肉感があり、そして動いていた。
鼓動する壁……振り返る僕……背中に当った、それを見た僕の心がはじけ飛ぶ。
恐怖が僕を呼び、身体が引きつり頭がからっぽになり、言葉にならない叫び声を出す。
「うぁああああああああ」
そこには、この世の醜悪を全て含んだ、血と肉の巨大な生物が存在した。
しぼんだゴム毬が拉げたような形。
大きさは十メートル以上あり、その半身は血の海に沈んでいる。
そして巨大な肉の固まりは、一定の間隔で収縮と拡張を繰り返す。
その度に、強烈な肉が腐った匂いが周りに広がる。
恐怖で身体も脳もパニックに襲われた。
回復が終わっていない僕の身体は痺れ動かない。
「これはなんだ? これは本当に現実なのか?」
身体が動かず、溺れ始めた僕。
その周りに、物言わぬ人々が集まりだす。
その腐った人々の渦に揉まれ、血の海へと沈み込む僕の身体。
必死で浮かび上がろうとあがく僕、そして浮かび上がる物言わぬ人々。
その数は増え続け、僕を血の海に引きずり込む。その瞳は黒い穴。
「地獄……ここは地獄だ!」
溺れた僕の口に、生臭い血の水が入ってくる。強烈な血の味にむせかえる。
「僕は地獄に落ちたんだ……」
沈み始めた僕は呼吸が出来なかった。
ドロッとした血を飲み込み続ける。
血の匂いと鉄の味は体中に染みこんでいく。
僕は必死に手を伸ばして助けを乞うが、手足をばたつかせて懸命に逃れる僕に、朽ちた人々が集まって覆い被さってくる。
引きずり込まれる僕は、血の海に沈んでいく途中で声を聞いた。
僕が探していたその声は、静かだが力強く語りかけてきた。
「大丈夫よ。私がいるわ。さあ、つかまって!」
僕の手をしっかりと握る小さな白い手。
(ケルブ……?)
一気に沈み込んだ僕の身体、視界が利かない血の海の中で、握った手の先に少女の姿がうっすらと写る。
長い黒髪の間から、赤い瞳が僕を見ていた。
「こんな事になってごめんね。あたしはあなたを止める事も出来たのに……でもあなたに逢いたかったの」
不安は消えた、もう血の中でも息は苦しくない。
「大丈夫、僕が自分で選択した事。君に責任はないよ」
僕の精一杯の格好つけに、少女の赤い左目が喜びの光を見せた。
長い髪が少女の顔の半分を隠して右目は見えない。
「あたしはどこかで願っていた。この寂しさ、永遠の孤独から解放される事」
顔を下に向けた少女。その仕草から後悔している事が伝わる。
「君を救い出せなかった……逆に君に助けられている」
「違うの。あたしは助けて欲しかったわけじゃない」
水中を漂う二人の手は強く結ばれていた。
「終わらせたかった……あたしを解ってくれる人、あなたに傍にいて欲しかったの」
「終わらせる? 君はケルブだろう? ネットの世界を飛び、不老不死で、そして身体も取り戻した……その身体が、君の本当の姿なんだろう?」
「いいえ、あなたが接したネットの中の私は、実験で分離されたもう一人にの私。ネットの私は人々の裏側を覗き、殺人まで行うようになってしまった。あなたと会った、青い髪の少女はここで造られた偽りの姿。本物の私はここで朽ちていくだけ」
血の海の中ではっきりとは見えない少女の姿。
でも陶器のような白い顔に大きな赤い瞳。
そして腰の辺りまである長い青い髪。
その華奢な身体は少女としての美しさを十分に持っていた。
「その姿も十分可愛いよ」
少女は首を左右に振った。
「あの眼鏡の男、所長は意外にもあたしに身体を返した」
「良かったじゃないか」
「ええ、でもあたしは既に用無しだった。あなたを見つけ、新しいケルブを造り出し、そしてついに眼鏡の男は人間の再生のクスリ、インフィニットを完成させた」
「別に構わない。君が解放されたなら、僕はそれでいい」
「完全に破壊されたあなたを助ける為、あたしはこの忌まわしい場所、血の海に連れてくるしかなかったの」
「それも構わない。こうして僕は元に戻れた。全て君のおかげだ」
僕は想いを彼女に打ち明ける。
「君に会いに来たんだ。そしてこうして逢えた……これからはずっと一緒に居よう」
僕は少女の小さな手に力を入れて、少女を自分へと引き寄せる。
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