第54話 キス・オブ・ザ・ドラゴン
「増援はまだか!?」
ホテル『クロドゥング・メヴリージャ』のスイートルームは騒然としていた。コズロフ・ファミリーが3ヶ所ある麻薬倉庫に同時に襲撃をかけてきて、その対応に手一杯だった。
「急げ! 麻薬を奪われたら終わりだぞ!」
「ですが、道路が住民によって塞がれていて、回り道しているそうです!」
今のホテルにとって、麻薬の在庫は生命線そのものである。なんとしても守り抜く必要がある。しかし増援は放置された重機によって回り道を強いられていた。
「ええい、邪魔者は撃ち殺しても構わん! 私が署長に返り咲いた暁には、全て無罪にしてやる!」
ローアンの怒号が響く。その直後、スピーカー越しの声が部屋に響いた。
《コリウス、無事か?》
ダルスの声。テーブルの上に置かれたスマートフォンからだった。
「貴様、何をモタモタしている!早くこちらへ来い!」
《もう少しで着く。それよりも、コリウスの声を聞かせろ》
ローアンの怒鳴り声にもダルスは動じず、冷徹な声で返す。
「くそっ……おい、何か言ってやれ!」
ローアンは椅子に縛り付けているコリウスに電話を近付ける。コリウスは小さく溜息をついて、口を開いた。
「ダルス」
《コリウス、無事か》
「ごめんなさい。私が捕まってしまって、貴方を危ない目に……」
《気にするな。お前が無事ならそれでいい》
心の底から気を遣っている声だった。コリウスは安心したが、その声に寄り掛かるわけにはいかない。告げるべきことを告げた。
「ダルス。早く逃げて。ホテルの周りに20人、中にも50人も待ち構えてる。皆、貴方を殺そうとしているわ」
捕まっている間、コリウスはずっと聞き耳を立てていた。そしてホテルの作戦を知った。彼らは約束を守らず、ダルスを殺そうとしている。
罠にかかる前に彼を逃がす。それが自分のすべきことだと、彼女は思っていた。
「待て待て。殺しはしねえよ。死んだらこっちの計画がおじゃんだ」
一方、カインは慌てて言葉を取り繕う。『巡礼路』を手に入れる前にダルスに死なれるわけにはいかなかった。
殺そうとしているのはローアンとマクシムの独断だ。彼らには八つ裂きにしても足りない恨みがある。
どちらの目論見も、今のコリウスの一言で崩れかねない。そのはずだった。
《……70人か。思ったよりも少なくなったな》
「何?」
ダルスの言葉の真意を、カインも、ローアンも、マクシムも、そしてコリウスさえも理解できなかった。
そこに、ダルスが言葉を投げ込む。
《そろそろいいだろう。アダム・ローアン、東の空を見てみろ》
「何だと……?」
不吉な言葉に、ローアンはカーテンを開けてベランダに出る。東の空が赤い。夜明けか。そんなはずはない。さっき日が沈んだばかりだ。よく見てみれば、街の一角が燃えていた。火元は3つ。
「あれは……まさか……!」
火元がどこかはすぐにわかった。クラブハウス。駅前の事務所。倉庫。いずれもホテルの麻薬を保管している場所だ。それが、炎の中に沈んでいる。
「麻薬が……私の金が……!」
《804号室》
恐ろしいまでに冷たい声。
引かれるように下を見る。左手にスマートフォン、右手にライフルを手にした黒いコートの男が立っている。
ダルス・エンゼルシー。夕闇に紛れ暗くなった顔に、緑色の瞳が爛々と輝いている。
《場所はわかった。そっちに行くから待っていろ》
ダルスはスマートフォンを投げ捨て、ライフルを構えた。
「馬鹿、伏せろっ!」
カインが署長を引き倒す。放たれた銃弾は窓の上、ホテルの壁に突き刺さった。
カインは地上をを覗き込んだ。ダルスは既にベランダから目を離し、ホテルの正面玄関に向かって歩いていた。
「奴め……おのれ……私の麻薬を……私の金を……!」
ローアンはフラフラと部屋に戻り、マクシムに向かって叫んだ。
「マクシム! ダルスが来たぞ! 殺せ!」
「そいつを待ってた……!」
マクシムは注射器をつかみ取り、ためらいなく静脈に針を差し込んだ。高純度の麻薬が、ボリスの脳と肉体をオーバーブーストさせる。
「行くぞてめえら! あのスカした野郎を八つ裂きにしてやる!」
他のギャングたちもそれぞれ麻薬を打ち、意気揚々と出ていく。
「どこまでも私をコケにしおって……命乞いもできなくなるぐらい徹底的にいたぶって殺してやる……!」
ローアンは青い顔で震えながらも、拳銃を握り締めている。
その様子を横目に見ながら、カインは部屋を出た。銃声が聞こえ始めた。ダルスが1階の連中と戦い始めたのだろう。
だが、カインは下の階には向かわず、スマートフォンを取り出し電話をかけた。
《もしもし》
「マリインスカヤ。交渉決裂だ。敵が来るぞ」
ホテルの周囲に隠れている20人。その指揮は副官のマリインスカヤが執っている。
彼女たちは、約束の場所に現れたダルスを逃さないための包囲網であったが、もう一つの役目があった。ダルスが約束を破った時の、外側への防衛網である。
ダルスが最初から戦う気であれば、必ずコズロフ・ファミリーの伏兵がある。それを迎え撃つための布陣だった。仕掛けてくるなら、今しかない。
だが、マリインスカヤからは困惑した返事が帰ってきた。
《その……隊長。誰もいません》
「何?」
《敵影なしです。40秒前に点呼しましたが、包囲網に異常はありません》
既に戦闘は始まっている。ここで仕掛けなければダルスは犬死だ。それが無いということは。
カインはもう一つの可能性、最も合理的で最も非常識な可能性に思い当たった。
「本当に1人で来たのか……?」
ありえない。交渉する気だったのか? だが武器は持っていた。麻薬を焼いたのも奴の作戦だろう。戦う気だ。しかし1人で、ホテルという本丸に攻め込む。自殺行為だ。
電話が鳴った。キャッチホン。番号を確認すると、中央からだった。
「すまん、一旦切る。警戒しろ、マリインスカヤ」
《了解》
素早く新しい電話に出る。
「カインです」
《これはどういう事だ!?》
声は、連邦保安局の局長のものだった。直々に電話をかけてくるとは珍しい。
「どういう事って、何がですか?」
《ミルジェンスクが戦闘状態になっている。貴様、まさかダルスを敵に回したんじゃあないだろうな? ヤトーツクの捜査チームが合流するまでは動くなと言ったはずだ!》
「いや、実はたった今そうなりまして……でも大丈夫です。こちらは70人で包囲しています。『巡礼路』については殺した後に奴のパソコンを調べますので」
返事はなかった。
「……局長殿?」
《すぐに撤退しろ!》
耳を疑う言葉に、今度はカインが返事を忘れた。
《撤退しろ! 奴には敵わん!》
「いや……いや、そんなバカな。敗残兵を連れてるならともかく、敵は1人ですよ?」
《馬鹿者! クソッ、最重要機密だから黙っていたが……奴は以前、リブリアに潜入していたんだ!》
「……リブリアですって?」
その一言に、カインは背筋を粟立てた。
《貴様ならわかるだろう? 奴は『傀儡師』だ!》
――
ミルジェンスク駐屯地、司令室。戒厳令下ということで、エラスト少佐の下にはひっきりなしに報告が上がってくる。
朝から非常に忙しかった。『クロドゥング・メヴリージャ』の暴走は夕方まで続き、警察署まで襲撃される始末だった。刑事課の奮闘もあり何とか守りきったが、その間に民間、そしてコズロフ・ファミリーに被害が出てしまった。手負いの獣が暴れた結果、という惨状だった。
そして日が暮れてからは、コズロフ・ファミリーが動き出した。こちらは数ヶ所の建物への放火と、道路の封鎖が主だった。ベンジャミンの報告によれば、作戦を立てたのはダルス・エンゼルシーらしい。
それを聞いたエラストは、ダルスの作戦に乗ることにした。作戦が効果的だったからではない。あの男を敵に回すことを避けたかったからだ。
「まさか、ゲルフグラードの死神に立ち会うことになるとは」
エラストは机の上にあった資料を手に取った。『ゲルフグラード駐屯地壊滅事件 調査報告書』と書かれている、赤線や訂正が大量に入った資料だ。
『ゲルフグラード駐屯地壊滅事件』とは、その名の通り連邦軍の駐屯地が一夜にして壊滅し、その場にいたエメリアン大佐を始めとする兵士およそ50名が死亡した事件である。軍の信用に関わる事件だったが、調査は極秘に行われた後、事件そのものが闇へと封印された。
しかし、エラストは何が起きたか知っていた。彼が調査団の責任者だったからだ。手元の報告書はその時の草稿だ。
報告書をめくる。事件の『犯人』が書かれている。ダルス・エンゼルシー。基幹戦略隊所属。階級は曹長。
真実は誰もが耳を疑うもので、それでいて非常にシンプルだった。
ゲルフグラード駐屯地が壊滅したのは、たった1人の個人による襲撃だった。深夜で大半が休息中だったこともある。基地の内情に詳しい人物だったこともある。それらを考慮しても、あってはならない事件だった。故に機密指定されたのだ。
精鋭一個中隊に匹敵する一個人。草稿では彼について、こう記している。
"もしも死神というものがいて、この世の生物を依代とするのであれば、必ず彼を選ぶだろう"
流石に正式な報告書では消したが、その言葉はエラストの正直な感想だった。今でもそれは変わらない。
「死神を相手にするなら、手を組んだ方がマシでしょう」
――
ミルジェンスク中央病院ICU。
エルヴィナは窓の外を見ている。今日は随分と騒がしい。銃声が病院にまで聞こえてくるし、あちこちで火事が起こっている。
だけど、エルヴィナが知る戦争には程遠い。戦車もいないし、ヘリもない。飛行機からの爆撃だって一発も飛んでこない。
だからダルスはどこかに行ってしまったんだな、とエルヴィナは思った。あの人が戦っているなら、こんなものでは済まされない。
トゥエリスタンで軍隊を足止めをしていたダルスは、信じられないぐらい強かった。完全武装の兵士20人を瞬く間に惨殺し、砲撃を引きつけ、ヘリを引きつけ、戦車を引きつけ、無傷だった。
流石に戦車を破壊するまでには至らなかったけど、あのトゥエリスタンでただ一人、連邦軍と戦争をしていた。
最後は空爆されて、爆発の中に姿が消えて。それでもう死んだかと思ったけど、生きていた。
何をしたら死ぬのかな、と思う。それとも、何をしても死なないから、上手く殺してみろなんて冗談を言うのかな。
「だって教官、どうやっても死なないじゃない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます