第72話 レッツ・ジャズ――戦後の街角①
なんだか知りませんが、近ごろ、妙にむしゃくしゃしてならないのです。
道に落ちている石ころでも空き缶でも、思いっきり蹴とばしてやりたい。
いや、それよりも、いっそのこと、このままどこかへ消えてしまいたい。
かあさんもじいちゃんも、友だちも、親せきも、近所のひとたちも、自分のことを知っているひとがだれもいないところへ……そんな捨て鉢な気分になっていました。
食べるもの着るもの、住むところ、日用品……すべてが足りない暮らしのなかで、本を買ってもらうなど、夢のまた夢でしかないことは、よおく分かっていたのです。
最近まで野良犬だったマツが粗末な小屋から出て来て「ふ~ん」と鳴きましたが、おれはいつものように声をかけてやることもせず、足音あらく家をあとにしました。
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当時のおれのヒーローは、だんぜん『鉄腕アトム』でした。
2年前から少年雑誌に連載されている手塚治虫先生の……。
いまから半世紀後、かくじつにやって来る21世紀の日本を舞台に、無限の可能性を秘めた未知のエネルギー「原子力」によって自由に稼働するロボットが、なんと、おれたち人間と同じ感情をもっているというのですから、すごいじゃありませんか!
昭和18年初夏の生まれゆえ、もう少しのところで軍国少年になりそこね、敗戦国の惨めさや、みにくさ、無気力ばかりを見て育つことになった少年にとって、くもりのない明るい笑顔を向けてくれるアトムは、清らかな空飛ぶヒーローだったのです。
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おととしの春から1年、ラジオで放送された『君の名は』が女の人たちに人気で、毎週木曜日の放送時間になると、銭湯の女湯はがら空きになると言われていました。
その結果として、年の瀬のまちは「真知子巻き」であふれかえっていました。
メロドラマのヒロインには似ても似つかない「真知子」たちが、あっちにもこっちにもゾロゾロ出現し、申し合わせたように顔のまわりにマフラーを巻いていました。
人気を独り占めしたドラマの作者・菊田一夫先生が、薄幸なヒロインを戦災孤児に設定したのは、先生自身が孤児同様の生い立ちだったからと知ったのは後年のこと。
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静まりかえった秋の夜長や、しんしんと冷えこむ冬の夜半、ほの暗いはだか電球のもと、枯木のように節だらけの手をより合わせて、夜なべの
人里はなれた結核療養所を舞台にしたドラマで、遠くを走る夜汽車の汽笛とドラマの看護婦さんのすすり泣きが重なったときは、思わず耳を塞ぎたくなったものです。
こういうときは、顔も覚えていないとうちゃんが恋しくてたまりません。
南の島で戦死したというとうちゃんの骨は、いまだにもどっていません。
今夜もかあちゃんは、進駐軍のGI相手の酒場ではたらいています。
身体の大きな兵隊に笑顔をふりまいている場面を想像すると……。💦
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ふだんはいたって無口なじいちゃんが、しわだらけの頬を他愛なくほころばせて、「おかしなことばかり言うもんだなあ、この人たちは」とよろこぶのは、ラジオに「しゃべくり漫才」の横山エンタツと花菱アチャコのコンビが登場するときです。
後年のテレビ時代には「むちゃくちゃでござりますがな」が流行語になりました。
大阪弁の早っちゃべりは、ほとんど聞き取れませんでしたが、そのころ、思春期をむかえていたおれは「むちゃくちゃ」という破滅的な言葉にやたらに共鳴しました。
これから日本はどこへ行こうとしているのか。
かりにも人間のすがたでこの世に生まれてきたからには、人並みのしあわせというものを一度は経験してみたいものだと、虚しい空想をはたらかせたりしていました。
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