三十一 叛乱

 毛利元就は、相剋の策謀を使った。

 尼子経久の得意とする、そして業とも言うべき、相剋の策謀。

 使ってみるとなるほど、これは兵を損なわず、相手を屈服させるには効率的であり、合理的であった。

 ただ――後味は最悪だった。


「それは、悪酔いにも似ている」


 相手の隙に付け込み、陥れる。

 己の手は汚さず。

 いや、汚れてはいるが、当人が気づいていないだけだ。


「これは――きっと恨まれる」


 その負の側面に気づいていなければ、これは、危うい。


 ……閨で、元就はそう語った。

 彼は、高橋家を征伐して帰ると、無言で妻の妙玖を誘い、閨に行き、彼女を求めた。

 二度三度と妻が何も言わずに突っ伏すのを見て、そして詫びと共に語ったという訳である。


「何とも言えず、おぬしを欲しゅうなった……そして……」


 そこから先は、妙玖が指で口を押えたため、言えなくなった。


「もう――良いではありませぬか」


 それだけ、己を省みることができているのならば。

 妙玖の濡れた瞳はそう語っていた。

 彼女もまた、夫の懊悩を悟り、彼の求めを受け入れた。


「子を……作りましょう」


 それは罪業を消滅させるためではない。

 けして墜死した娘の代償ではない。


「わたくしが欲するから、作るのです」


「……すまぬ」


「いえ……」


 生ける者は、進むことができる。

 なら。

 進んでみよう。

 これまでの道のりが、これからの道のりが。

 どんなものであろうと。

 その進んでみようとすることが。

 あるいは、相剋を……。



 そして。

 毛利が高橋を盗り、その広大な、石見から安芸に渡る領土を手に入れ、一年経つか経たないかの頃。

 塩冶興久、叛す。

 その凶報が、山陰と山陽を駆け巡った。

 興久は、高橋家への援兵の提案を断られて以来、居城に引きこもり、それは前例のあることなので、尼子家の面々は「またか」と呆れ、興久の父であり主君である尼子経久も、さすがにもう呼び出しに意固地になることもなく、興久自身も引きこもる以外は、きちんと年貢を納め、合戦の際は物資を供出しているため、捨て置くことにした。


「どうせまたぞろ出てくるであろう。大きな合戦があるなら、わし自ら首根っこ掴んで引っ立てるが、今はない。ないゆえに、放っておけい」


 そう言われると、尼子家の家臣たちも、腫れ物に敢えて触れる者はなかった。

 亀井秀綱と尼子久幸の二名を除いては。


「お呼び出しはつづけられては」


「兄上、またおれが行こうか」


 そういう提案を、経久はむしろ鬱陶しそうに手を振って断った。


「今は……東を、天下を目指す時。あとでいい、あとで」


 経久ももう寄る年波だ。積年の野望である、天下取り、ならびに孫の詮久の成長に傾注したいというところであった。


「ではその天下を目指す戦の前には、必ず」


「たしかに言いましたからな、兄上」


 経久としては、暗に大内家に譲歩して、毛利家の高橋征伐を認めたことから、それを「借り」とみなして大内家に尼子家の東征に目をつぶってもらおうと目論んでいた。

 そのため、何としても今の内に東征を進めておきたいと、経久は躍起になっていたわけである。


「興久については、わしも思うところがある。ゆえに、必ずや対応いたすゆえ、今は許せ」


 ……こうして、尼子経久は、さすがに公然とは言わなかったが、塩冶興久の問題を先送りにしてまで、天下盗りに邁進したいということが、知る人には透けて見えた。


 まさに――塩冶興久はその隙を衝いたわけである。



「毛利を意のままにできなかったが、何、構わん」


 塩冶興久は居城でそう、ひとりごちた。

 毛利元就が大内家と連携して高橋征伐に動いたのは、誰にでもわかることである。

 つまりは、毛利は大内側なのだ。


「この塩冶興久と同様にな」


 塩冶興久の「興」の字は、大内義興から一字貰ったものである。それは父・尼子経久の、大内への伝手を作りたいという思惑によるものであるが、興久としてはその伝手を頼り、ここまで出雲の国内を蚕食してきた。

 肝心の大内義興は死んだが、おかげで毛利の娘が死んだ一件は、有耶無耶にすることができた。

 また、その毛利を塩冶の側につけようと思っていたが、そうはならなかったものの大内の側についたことにより、少なくとも、尼子経久の側にはつかないと読める。


「……条件は、整った」


 尼子経久当人にしてからが、東へ――伯耆へ備後へと意識を向け、西――特に出雲本国を疎かにしていた。


「今こそ挙兵の時。下剋上ぞ! これは、塩冶から尼子への下剋上なり!」


 尼子経久は、塩冶興久を臣下と言い切った。

 なら。

 その臣下から下剋上を起こしてやる。


 ……塩冶興久のその昏い眼差しは、皮肉にも父・経久とよく似ていた。



「……小僧! 小僧めが!」


 臍を噛んだのは、尼子経久である。

 東へ東へと進み、京へ、天下へと着々と歩を進めていると思っていたのに。

 それも、よりによって己の子から叛乱を起こされるという体たらく。


「……むべなるかな」


 激しい憤りを感じつつも、一方で冷静さを失わないところが、この尼子経久という梟雄の恐ろしさである。経久の犀利な頭脳は、今や、この叛乱の鎮圧、否、叛乱をどう「活用」するかという観点で回転し始めた。


「……秀綱を呼べ」


 尼子の宰相、亀井秀綱は早速にと経久の元へと馳せ参じた。


「……御前に」


「挨拶はいい。始めるぞ」


 何を始めるか、と聞かないのは、さすがに長年の主従であるが故か、秀綱は押し黙って頷いた。


「まずは、だ」


 経久の目が昏くなる。

 謀略を思いついた証だ。

 秀綱は厳かに、次なる言葉を待った。


「――毛利へ行ってもらおう」

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