十九 夜襲

 その急襲に、最初に気づいたのは、誰だったか。

 だが確かに言えるのは、いち早く反応したのは陶興房だということだった。


「若へ伝えよ。そして逃げよと」


 興房は歴戦の名将。

 それゆえに、大内義隆に抗戦せよとかそういうことを言わない。

 まず、逃がすことにより、後顧の憂いを断とうとしていた。

 だが義隆の寝所へ伝令を向かわせたあとに、物見がとんでもないことを報告してきた。


「若の寝所へ向けて、彼奴ら、まっしぐらに向かっております!」


「なんだと」


 あとで判明したことだが、義隆に寝所を提供した農民が、義理堅く義隆に注進しに行くところを尾行されていたらしい。


「嵐の夜を待つほどの周到さ。そしてそこまで探りを入れる細心……これは」


「興房さま、早う、早う!」


 杉が息せき切って駆け付けてきて、興房へ指示を乞いに来た。


「……も、毛利が、毛利が来てござる!」


「……やはりか!」


 尼子の敗戦、そして撤退により、安芸の国人たちはそれぞれの領地へと帰っていったと聞くが、それこそが欺瞞であった。

 時は夏。

 今や、この国は台風の通り道と化す。

 暴風雨は雨乞いせずともやって来る。


「問田が今、若の元へ馳せております! 急ぎ、興房さまも!」


「分かった」


 興房は杉に、二、三、指示を与えると、自らも甲冑を身につけ、愛馬へと向かうのだった。



 問田は必死の防戦を繰り広げていたが、それでも、まるで今の嵐のように苛烈な攻勢を与えてくる安芸の国人衆に対して、抗いきれずにいた。


「若、早う、お逃げ下され!」


 必死の呼びかけに、大内義隆は陶興房のいる本陣へと向かう。

 だが、知ってか知らずか、寝所の農家から出ようとすると、驟雨のごとく、戸口に数多の矢が。


「これは、たまらぬ」


 問田も嵐の夜の中、視界も効かず、耳も良く聞こえない中、よく戦っていたが、敵はこの安芸の国人。いかんせん、地の利といい、手はずといい、後れを取るのはやむを得ない。

 何よりも、大内義隆の寝所を探り当てるというところが尋常でない。


「杉はまだか! 興房どのは、まだか!」


 最悪、人で垣根を作って、敵中突破か、と問田が覚悟を決めた時。


「大内家中、陶興房、見参!」


 この暴風雨の中でも良く響く声。

 そしてそれゆえに、大内軍の将兵に活力を賦活する、大声であった。

 陶興房は素早く農家を囲んで防禦し、しかるのちに敵のいる方向へ矢を射かけた。


「雨で、良かった」


 矛盾した感想であるが、それが興房がまず思ったことである。

 雨でなく、晴れた夜天であれば、火矢を射かけてきたに相違ない。

 そうなれば、主の嫡子を焼き討ちにされていたと、興房は怖気を震った。


「疾くお守りせよ!」


 そう言いつつ興房は迷った。本陣へお連れすべきか、それとも、このままこの農家を固めていくか。

 その一瞬の逡巡を、敵将は見逃がさなかった。

 一文字三ツ星の紋の敵将が。


「毛利元就、推参! 陶興房どの、いざ、尋常に、尋常に、勝負!」


 度肝を抜くとは、まさにこのことである。

 いかに予想していたとはいえ、音に聞く有田中井手の勝者、鏡城の調略の仕掛け人が、大喝した上で、自ら突っ込んでくるのだ。

 雨中の中、眼光の鋭さは稲妻のごとく。

 気がつくと目と鼻の先にまで。

 興房が腰間の刀を抜く。

 元就もまた、抜刀した。


「覚悟!」


「しゃらくさい!」


 雨滴を弾き飛ばしながら、二条の剣光が宙を舞う。

 次の瞬間、火花を散らして、光と光は激突した。


「今ぞ、かかれ!」


 その、熊谷信直の声を合図に、元就につづいて、香川光景、三須房清らも、喚き声を上げて吶喊する。


「元就どのにつづけ!」


「手柄せよ、者共!」


 統括する立場である興房が、元就と鍔迫り合いを繰り広げ、大内軍の動きが「止まった」瞬間を狙うという、絶好の機を捉えた突撃である。

 そして、食らった問田はたまったものではなく、一瞬ではあるが、農家から引きはがされてしまった。


「大内義隆の首を取れ!」


 元就が叫ぶ。

 待て、と必死に食い下がる興房。

 元就は興房の馬を蹴って、場から離れようとする。

 興房は負けじと馬を巧みに御して、元就の馬の尾を掴む。

 互いの馬の嘶きが、哀し気に響く。


「おのれ毛利! 貴ッ様! 大内の恩を忘れたか!」


「忘れた?」


 その時、興房は振り返る敵将の、あまりの凄絶な笑みに、掴んだ馬の尾を取り落とすぐらい、慄然とした。


「忘れただと?」


 元就はその場にとどまり、言葉をつづけた。

 敵将を制止するという目的を果たしているものの、興房は、あまりの元就の迫力に、逆に行かせた方が良かったのではと思ったほどだ。


「お前たち大内が……大内に……わが毛利が、安芸国人が、どれほど尽くしたと思う?」


 気がつくと、安芸の国人はもとより、大内軍の将兵も手を止めていた。

 それだけの怒気であり、興房はそれに、主・大内義興や尼子経久と同等のものを認めた。


「お前たち大内が勝手に京に上ったから、われら尼子や安芸武田に翻弄された! 助けを求めても来なかった! 来ないから、自ら血を流した!」


 そのために兄を喪い、五倍もの敵と戦ったのだ、分かるかとの言外の叫びがあった。


「それが今度は山口に戻ったから、今さら安芸を攻めるだと? その上で恩だと? 有難い限りだ……有難くて……お前たち大内がいないおかげで、われらこれだけの戦上手になれたと、恩に報いるところよ!」


 元就が興房に向かって吶喊。

 興房はなす術もなく、後ずさる。

 勝敗は決した。

 そう思えた瞬間だった。

 しかし。


「陶どの! 興房どの! 御味方でござる! 杉が、主力が参りましたぞ!」


 問田が、助かった、とばかりに叫んでいた。

 興房は、義隆の危機を救うために、直属兵のみでここに来ていた。

 残りは、杉に率いさせ、追い追い馳せ参じるようにと命じていたのだ。


「…………」


 元就は押し黙ってその様子を見ていたが、やがて笑った。

 快哉の笑みであった。


「……何故笑う?」


「何故、嵐を待ったかと思う?」


「問うておるのはこちらだ」


「今のが答えだ」


 興房は下らんとばかりに睨みつけると、杉の到着と共に突撃を命じようとした。

 命じようとしたが、その杉の顔が青い。

 動揺している様子だ。


「何ぞ出来したか?」


「……陶どの」


 杉は誰にも聞かれないためか、馬上、これ以上ないほど興房に近づく。

 元就は何を思っているのか、信直や光景に攻撃を命じないし、信直や光景も自ら静止している。


「陶どの……兵糧が……」


 その一言で、事態を悟った。

 夜陰。

 そして雨。

 その中で、大将首を目指す。

 これは、寡兵である安芸国人衆の総力を結集したもの。

 そう、思わされた。

 他ならぬ毛利元就が率いている以上、そう、思っても仕方のないこと。

 仕方のないことだが、そのずらされた思考は、致命的な失陥を生み出す。

 安芸国人衆の別動隊が、大内の荷駄を襲うという失陥を。


「……兵糧だと?」


「敵方、吉川と小早川、荷駄を強奪。援護しようと思いましたが……」


 何分、主君より大事な、主君の嫡子だ。

 下手に援護に向かわなければ、首が飛ぶ。

 兵糧が守られたとしても、嫡子が討たれれば、主君の怒りが怖い。

 しょせん、われらは別動隊。

 なら、嫡子を守って……。


「……帰ることだな、この安芸から。尻尾を巻いて。這う這うの体で」


「毛利……貴ッ様……」


 興房の怒りは頂点に達したが、それでも冷静さを失わない。

 ここで怒りに任せて元就に斬りかかって、第二、第三の別動隊が襲いかかって来ないとも限らない。

 怒りから平静に戻った元就の表情から、もはや何もうかがえない。

 うかがえないからこそ、底が読めなかった。


「う……ぐ……」


「来ぬのか? なら、こちらから行くぞ? この雨天でも火矢が使えるかどうか、試してみるのも悪くない」


 気づいたら、熊谷信直と香川光景の部隊が、火矢をかまえていた。

 事前に油に浸しておき、懐中に大事に取っておいたらしく、折からの風雨の中でも、それは燦然と輝いていた。


「放て!」


「やめろ!」


 興房が、大内の、この場にいる全ての将兵が、義隆の寝所――農家を顧みる。

 だが、火矢は寝所に到達する前に燃え尽きるか、あるいは農家の壁に刺さっては、僅かな時も保たずに、その火を消していった。


「ばかめ。己が雨天を狙っておいて……」


 そう言って興房が振り返ってみた時には、一目散に逃げ去る毛利、熊谷、香川の全軍の後ろ姿だった。


「逃げる……だと……」


 唖然とする興房の横で、問田は逃ぐるな、追うべしと息巻いた。


「……止めよ」


「陶どの、しかし」


「さらなる伏兵がいたらどうする」


「…………」


「それより、だ」


 興房は、義隆の寝所である農家の方へ視線を向けた。

 それより、今は逃がさなければ。

 敗けるのはいい。

 しかし、嫡子を殺されてみろ。

 その時こそ……。


「……あっ」


「陶どの、どうされた?」


 早速に寝所に向かっていた問田が、顔だけ振り向く。


「……いや」


「では、御免」


 問田は気にする様子もなく、寝所へ行き、戸を叩く。

 それを見つめながら、興房は呟く。


「あり得ぬことだが……若が殺されでもしたら……それこそ安芸は義興さまの大攻勢にさらされる……だから……」


 殺すこともできたのに、逃がすと言うのか。

 興房はその言葉を呑み込んだ。

 それを認めると言うことは、毛利元就という武将が、自分の予想を超えて、尋常ならぬ智謀を具えていることを認めることを意味した。


「そう……義興さまや……尼子……経久のような……」


 ……雨は降りつづく。

 濡れそぼつ中、大内軍は大内義隆を厳重に護衛して、静かに撤退を始めた。

 大内軍は、敗走したのだ。

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