三十七 謀神

 毛利元就は、家督を継承し、相合元綱の横死の後、尼子家への奉公に努めた。それこそ、尼子経久の目から見て、相剋の謀略に恐れをなしたかのように。

 元就は指揮官として有能であり、また優れた調整能力を有していたため、安芸の国人の間において、鏡城の調略により地に落ちた信用を、徐々に、だが確実に回復していった。

 有田合戦で討ち取った熊谷元直の息子、信直からも一目置かれるようになり、またそういった安芸国人たちの信頼を背景に、尼子家麾下きかとして、大内家との合戦に一役買い、見事撃退するまでに至っている。

 さらに、大内家の大規模侵攻に際しても、当時伯耆ほうき遠征中の経久に進言して軍を返させ、尼子家の安芸支配を守るために貢献した。

 ついには、尼子詮久と義兄弟の契りを結ぶまでに至っている。

 だがそれは。

 雌伏していただけのことである。

 やがて訪れるであろう、尼子家の隙を待って。


 そしてそれはついに訪れる。

 尼子経久の、寄る年波による隠居。


「隆元を山口に遣る」


 元就は大内家に嫡男・隆元を預けた。このとき、大内家の当主は大内義興から大内義隆へと移っており、その義隆はいたく隆元を気に入り、のちに養女を娶らせるまでに至った。

 さらに、尼子詮久の上洛軍である。


「これを機に、安芸から尼子の勢力を一掃する」


 まるで自らが安芸の国主であるかのような口ぶりである。

 しかし、元就には勝算があった。

 元綱の死から十有余年。

 虎視眈々と、機会をうかがって来た。

 いずれ、尼子は京を目指す。

 それは経久に取り入ってそのやり様を見聞きしてきて、理解した。

 なら。

 京へ向かった、その時こそ。


 そして、時が来る。

 尼子詮久による上洛への戦いが始まった。

 元就はすかさず嫡男・隆元を通じて、大内家当主・大内義隆の出馬を依頼、義隆も尼子討伐の機と捉え、出陣した。

 あとは順調に事は運んで行った。大内の方へと、尼子方の国人らは寝返り、椿事として、安芸武田家の武田光和が頓死した。かねてから頭崎を攻め取るつもりであった元就はこの機にと兵を進めた。そして平賀を合戦にて破り、安芸における尼子の支配を、これ以上ないほど崩落させていった。



「久幸では、駄目か」


 経久は、詮久と久幸双方から送られてくる書状を見て、歎じた。


「毛利元就……奴は相剋の謀略を食らった時より、この時を待っていたのだ」


 端倪たんげいすべからざる男。

 爪牙を断っておいたのは正解だった。

 そのはずだった。

 ……だが今、その断ったはずの爪牙を剥いて、尼子に猛然と襲いかかってきているではないか。


「奴は……我が相剋を超えようと……とうと……している……?」


 そう思ったのは気の迷いか、あるいは高齢のせいだと経久は否定した。


「……秀綱をこれへ」


 亀井秀綱が召しによって参上すると、主君の口に耳をそばだてた。


「秀綱よ、かの元就の妻女は、吉川のむすめだったな」


「さようでござりまする」


「……なら、詮久の軍に、吉川興経を加えるようにせい」


 吉川興経。

 元就の妻・妙玖みょうきゅうの甥である。

 武勇に優れた男ではあるが、惜しむらくは政略や戦略眼を持たず、大内と尼子の間で行ったり来たりを演じ、安芸の国人から失笑を買っている男でもある。


「猪ではあるが、この際、かまわん。毛利に突っ込ませろ」


 これが毛利元就であれば、どれだけ安心して任せられるかと、ふと矛盾した感慨を抱いた経久である。


かしこまってござる」


 秀綱もまた同感であったが、そもそも詮久は三万の兵を擁している。それに、吉川という相剋の罠を上乗せするだけだ。

 元々勝てる戦いに、色を添えるだけ。

 そう思って、相剋の謀略に、いつもの冴えがないとは、言い出せなかった秀綱であった。



 吉田郡山城の戦い、あるいは、郡山合戦。

 そう言われる、大内と尼子の、事実上、毛利と尼子の血戦が幕を開けた。

 命旦夕に迫る尼子経久は、戦いの行方を案じながらも、居城・月山富田城から出ることはかなわず、戦場からの書状を待つのみであった。

 それは――寿命が残りわずかである経久にとっては、地獄の責め苦にも似た仕打ちであった。


「――御味方、敗走」


 臥所ふしどにある経久に、凶報がもたらされる。

 八十を越える老翁に対し、酷であろうとも思われたが、他ならぬ経久本人が「遠慮は無用」と言っており、その意を汲んだ亀井秀綱が伝えた。


「何となく、そんな気はしていた」


 直接対面していないものの、毛利元就から、恐るべきものを感じていた経久は、むべなるかな、と呟いた。

 そして秀綱に助け起こされながら、言った。


「……で?」


 苦し気な息の間からの声だったが、それだけで秀綱には分かった。


「詮久さま、逃げおおせました。しかし、久幸さまは討ち死に召されました」


「そうか……」


 経久は瞑目し、大きく息を吐いた。

 恐らく、かなりの危機を、強大な敵を、退けて詮久を助けるために戦死したに相違ない。


「…………」


 経久の沈痛な面持ちに、その心中を察した秀綱は口を開いた。


「大内の兵を率いる、すえ隆房たかふさ


「……西国さいごく無双むそうか。さもありなん」


 陶隆房。

 後世には陶晴賢はるかたとして伝わる男であり、西国無双の侍大将と呼ばれる武将である。

 歎息する経久だったが、意味ありげに秀綱に目配せする。

 秀綱は、経久の言わんとするところを悟った。


「……陶隆房、毛利隆元どのの懇望により、出征されたとのよし


「元就の……嫡男か」


「さようで」


「……吉川は? 吉川は何をしていた?」


「毛利と激突いたしました」


「で?」


「精鋭千騎、押しに押したようでござるが……」


「が、か……」


 経久は、その先が読めるような気がした。


「が……毛利元春、それを押し返すという……」


「元春……次男か?」


「さよう」


 のちの不敗の勇将・吉川元春の初陣がそれであったと伝えられている。


「…………」


 今度は秀綱が沈黙した。そこで経久は何かを思いついたように言う。


「そういえば」


「何か」


「そも、詮久の最初の安芸への攻めの際、立ちふさがったのは、宍戸ししどだったな」


「……はい」


 宍戸家は、元就の二女・五龍ごりゅうが嫁に行くことになっている家である。


「なるほど、なるほど。毛利は……そう来たか……」


 ごほごほ、と経久は咳き込むと、もう寝ると言って、横になった。

 そのまま経久は、何度か咳をしたのち、やがて寝息を立てて眠りについた。

 秀綱の目には、その経久の姿が、これまでより小さくなったように見えた。

 彼はおごそかに一礼すると、主君の寝所から、そっと退出した。

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